〝忘れよ!!〟
〝忘れて・・・〟
レヴィアタン/ニーナの声とともに、辺りに激しい泡が渦巻く。朋也はもう1度気を失った──
朋也は駅前の商店街に通じる交差点をぼんやりしながら歩いていた。特にどこへ行くあてがあるわけでもない。することもない。あれから、深い喪失感に悩まされながら、意味もなく街を歩きまわる日々が続いていた。
あれからとは、1週間前に病院を退院してからのことだ。朋也は1月ほど前に大きな交通事故に遭い、全治3週間を言い渡されて入院していたのだった。身体のほうはそれほどたいしたことはなかったのだが、問題は脳のほうだった。記憶喪失──それも、ある時点を境に過去のことは普通に覚えているのだが、それ以後の記憶がすっぽり抜け落ちてしまったのだ。ある時点とは、臨海学校で海に行った中1の夏、それも行きまでで帰りの記憶はすでになかったりする……。そのとき、誰か大切な人に出会った気がするのだが、それが誰なのかはやっぱり思い出せない。
いずれにしろ、事故との直接の関連は何もないし、記憶喪失としてはかなり奇妙な症状らしいが(そもそも記憶喪失なんてTVドラマでもなきゃ滅多に起こらないそうだが……)。まあ、自分の名前や言葉までわからなくなるのに比べれば全然マシとは言えるだろうが、最近の記憶がないのは生活に支障が出ること甚だしい。治療を受けても記憶が戻ってくる気配は一向になかった。精密検査の結果では、特に回復不能な脳の損傷や異常はないと出ているんだが……。
学校へ行ってもクラスメートは知らない顔ばかりだ。もちろん、向こうはこっちを知っていて心配もしてくれるのだが……。こういうのは居心地悪いことこのうえない。結果、授業をサボって街をブラブラすることが多くなってしまった。
聞くところでは、自分には隣に住んでいた仲良しのガールフレンドがいたことになっている。名前は千里──彼女のことはもちろん覚えている。小学時代からの付き合いだ。ただ、GFに昇格してたという話は初耳だった。ケンカばかりしていたという説もあったので、どこまで本気にしていいのかわからないが、高校になってからは男子生徒の注目を浴びるくらい美人になっていたというから、惜しいことをしたとは思う……。彼女のことで覚えているのは、周りをいつもジュディという名のイヌがウロチョロしてたことくらいだ。記憶を失っている5年の間に、彼女は亡くなってジュディⅡ世が来たということだが、そっちの子のことは当然覚えていない。
その千里は、自分が事故に遭う少し前に、親の転勤の都合で遠くに引っ越してしまったということだった。確かに、隣の家の表札が変わっていてびっくりした。級友の中には、彼女に去られたのを悲観してトラックに身投げしたんじゃないかというやつまでいた。いくらなんでもそれはないだろうけど……。
あと、自分はネコマニアで有名だったとも聞かされた。ミオという名の愛猫がいて、事故当日に行方不明になり家にも帰っていないという。これも覚えていない。ネコはかわいいと思うし好きだけど、目の中に入れても痛くないほどの可愛がりようだと言われると、自分でも違和感を覚える。何しろ、1カ月家を空けたままだというのに悲しい気持ちが起こらないのだから、そっちのほうが後ろめたさでいっぱいになってしまう……。
自分の胸にぽっかりと大きな穴が開いたような喪失感は、小学時代の幼なじみと、顔も知らない雌ネコを失ったこと──彼女たちの記憶も含めて──が理由なのだろうが、他にも原因がある気がする。というのも、記憶のないこの5年間に起こったことより、5年前の夏に何があったかのほうが気になるのだ……。
スクランブルの交差点を、信号が点滅しているのも気にとめずに歩いていた朋也の背中に、誰かが走ってきてぶつかった。
「いったぁあ~~い!!」
同い年くらいの女の子だった。尻餅をついてお尻をさすっている。
「あ、ご、ごめん! 大丈夫かい?」
信号が赤から青に変わって車のクラクションが鳴り始めたため、急いで彼女の手を引き起こして道の端に連れていく。
「もう……君、どうしてこんな道の真ん中でボサッと突っ立ってるのっ!?」
……赤になりかけてから走って渡ろうとするのもどうかと思うが。不注意でぶつかってきたのも自分のほうだし──
そう思いつつ、彼女の顔をよく見た途端、朋也はハッとなった。心臓が高鳴る。好みのタイプだったから……というわけではない。もちろんカワイイ子だったけど、それよりも彼女を見ていたら、自分の中で何かが突然思い出されてきそうな気がしたのだ。病院のリハビリでもそんな気持ちになったことはなかったのに……。
穴の開くほど自分の顔を見つめる朋也に、その子はキョトンと首をかしげながら尋ねた。
「……どうかしたの? 私の顔に何か付いてる?」
「君……どこかで会ったことある?」
朋也は真面目に尋ねたつもりだったのだが、女の子は腰に手を当てると、その手は食わないとばかりニヤリとして言った。
「はは~ん……。君、いつもそうやって女の子引っ掛けてるんでしょ~?」
あわてて両手を振って弁解する。
「そ、そういうわけじゃ……。俺……最近事故に遭って、5年前の夏以降の記憶がまったくないんだ……。君とはどっかで会ってたような気がしたんだけど……やっぱり勘違いだよね。ハハ(^^;;」
「そ、そうなんだ……」
今度は彼女のほうが恐縮する番だった。
少し間を置いてから、彼女のほうから誘ってくる。
「ねぇ、君……いま、ヒマなの? 私、近くにいい店知ってるんだけど……よかったらこれから一緒にお茶でもいかが?」
「えっ!? そ、そんな……道でぶつかっただけの男といきなりデートだなんて……」
そうは言っても、こっちも彼女の顔から目が離せなかったのだけど……。
「いいじゃない、別にお茶くらい♪ 私は君に興味があるんだもの……。記憶がないなんてミステリアスだよね♪ 話ぐらい聞かせてよ?」
他人事だと思って……。と思いながらも素直に応じる。
「まあ、別に構わないけど……」
「ウフフ♪ それじゃ、決まりね! ねえ、君の名前はなんていうの?」
「朋也だよ 君は?」
「私はニーナ」
ニーナ? 不思議な名前だな……。やっぱりどっかで聞いたような気がするんだけど……。それに、彼女の髪と瞳の色は、光の加減によってブルーを帯びて見えたりするし……。
「どこの生まれなの? ハーフなのかい?」
「ナ・イ・ショ♪」
……。彼女の素性のほうがよっぽどミステリアスな気がするんだけど。
「……君、本当に俺に会うの初めて?」
「さあ、どうかしらね……。ま、細かいことはいちいち気にしなくていいじゃない。行きましょ、こっちよ♪」
ニーナは朋也の問いをはぐらかすようにしながら先に立って歩き始める。思わせぶりな彼女の台詞に、朋也が立ち止まって考え込んでいると、ニーナはもう一度振り返った。
「どうしたの? こんなカワイイ女の子に声をかけてもらえる機会なんてそうそうないと思わない? 昔のこと覚えてなくても生きていけるでしょ? 未来の思い出はこれから作っていけばいいんだからさ……。人生、いまこのときを楽しまなくっちゃ損だよ?」
「やれやれ……」
朋也は肩をすくめながらもニーナの後に従った。最初こそ、彼女から失われた記憶の手がかりが得られるんじゃないかと思ったけど、不思議なことに今では昔のことなんて気にならなくなってしまった。
そうだよな……ニーナの言うとおり、過去のことをすべて忘れてしまったとしても、ヒトは生きていけるんだもんな……未来さえあれば──
fin☆