ワンニャン・トピックス


犬猫系の話題に関するバケニャンコの私見を述べたコーナーだニャ~


= お題 =



人畜共通感染症について

 仔イヌ・仔ネコに対しては、健全な社会関係形成の一環として獣医でも添い寝を推奨される方がいらっしゃる一方で、最近では人畜共通感染症の話題を多く耳にするようにもなりました。その騒がれ方がどうも筆者としては気にかかるのです。あたかも、〝潔癖神経症〟のごとき印象を受けるのですね。。
 ヒト-ヒト間の感染症とヒト-畜(ヒト以外の動物)間の感染症との区分には、あまり科学的合理性があるとはいえません。とりわけ危険性という意味合いにおいては。宿主の生活環境・生化学的特性に応じ、病原菌・寄生生物が宿主の範囲を限定するか、あるいは複数種間をまたぐ生活環を持つかというだけのことで、感染率や症状の重篤性とは直接関係がないからです。しばしば強調される対策においてはなおのことです。ニンゲンが死亡率、感染率も高い多数の感染症をうつされるリスクがずば抜けて高いのは、もちろんニンゲン(しかも家族)です。あるいは、会社や学校のような場ということになりますね。だからといって、感染を恐れてニンゲンとのスキンシップ、外出、集団生活を禁じたり(それが必要となるケースもあるでしょうが)、ましてやヒトを捨てたり殺したりする人はいないでしょう。人人であろうと人畜であろうと、必要なのは個々の感染症に対する正確な知識とリスクを下げる努力であり、自分と〝家族〟の健康管理のはず。リスクを気にするあまり〝家族〟を保健所に連れていくヒトは、まさかいないとは思いますけれど。。
 多くの感染症において、そうしたリスクが発生するのはきわめて限定された状況のみです。例えば、トキソプラズマ症。胎児がかかると水頭症の症状が出るといわれますが、注意を要するのは未感染の妊婦が初感染後特定の数日間のネコの排便に接したときだけです(獣医師の子の発症率をとっても有意な差は見られなかったというデータもある)。さらにいえば、未加熱の肉を食するほうがネコとの接触よりよっぽど危険だったりします‥。性格が変わるとか反射神経が鈍るなんて話もありますが、感染率が非常に高いといわれる欧州で、ネコのせいで交通事故や離婚の深刻な増加を招いているなどというのは実にバカげたことです。疫学的な調査を引用するならば、イヌネコと暮らしている児童の方がそうでない子より免疫力が高いとか(理由はまあサナダムシをお腹で飼うのと同レベルかもしれませんが‥)、喘息の症状が緩和されたというデータのほうがずっと考慮に価するのではないでしょうか。パスツレラ症にしても、ふつうに健康な方は感染していても問題ありません(免疫不全の方は要注意ですが)。筆者はいつも同床でしたが、ヒトにインフルエンザをうつされる以上の目に遭ったことなど一度もありません(トキソプラズマとパスツレラ菌は持っている可能性が大ですけどね‥)。
 過度のスキンシップに非常識とのレッテルを貼る風潮には、むしろ筆者としては、これまでの接し方を大きく変更することによって〝家族〟に与えるストレスのほうが気にかかります。ですから、感染症などが気になる方は、最初から同種以外の家族を持たないで欲しいと願わずにいられません。彼らはリスクをはるかに越えた利益(こういう用語を使うのももどかしいですが)をもたらしてくれる存在なのですから。イヌ・ネコ・ヒトという三種の動物に関していえば、ウシとウシツツキ、イソギンチャクとクマノミ同様、もはや生物史的に異種混成の社会集団を営む関係にあるといえましょう。そしてほぼ一万年という長いつきあいの中で、当たり前のコミュニケーションが否定されることなどなかったはずなのです。
 繰り返しになりますが、結論としては、イヌネコと暮らし始める「覚悟を決める」前に、リスクをきちんと把握しておくという意味で情報がいきわたるのは結構だと思うのですが、「後で騒ぐ」のはともかくやめて欲しい。。「そのまま放っておくと大変なことになりますよ!」とばかり「危険性」を徒に吹聴しないでほしい。それは飼う前に認知されるべきことです。予防にしても、罹患した場合の早期治療・対策にしても、そのほうがよっぽど合理的なのですから。獣医療と(ヒト)医療の連携が必要といった問題提起はもっともですが。感染症を真剣に憂慮するのであれば、たとえメディアを通じるにしても、情報の提示の仕方をもっと考えてもらいたいと思うわけです。
 余談ですが、この人畜共通感染症をテーマにしたあるシンポジウムで、パネラーの1人の獣医さんがフェレットへのインフルエンザ感染の話、すなわち畜人共通感染症を取り上げていました。フェアだと思いましたね。N○Kのアナウンサーに無視されて勝手にまとめられちゃったけど。。。

※ そうはいっても、ご飯の口移しはやめたほうがいいニャ~。意味ないし。塩分・糖分・香辛料は控えたほうがいいという理由もあるし。大体ニンゲンの子供にだってしないでしょ?(汗


不妊去勢について

 筆者は現状ではやむを得ないと思いますが、諸手を挙げて賛同したくはありません‥。正直うちの子もやりましたし、昔は反対する人の考えがピンとこなかったものですが。不妊去勢を薦める際の「不幸なこどもたちをなくしたい」という趣旨は一見もっともに思えます。しかし、これがニンゲンのこどもだったら……と考えてみると、やはりおかしいことに気づくのです(ニンゲンだって人口抑制したほうが地球のためだろうけど、いきなり不妊去勢すべしってのはエコ・ファシズムになっちゃうでしょ(--;)。
 確かに、特にオスネコの場合はリスクも少なく、家出やスプレー、ケンカなど問題行動が減って飼いやすくなるのは事実です。ニンゲンと違って、こどもを作れなくなることで心理的ダメージを受けることもありません(たぶん)。それでも、生殖機能を失くすというのは、本来生物の定義(「生きること」の次にプライオリティが高いといっていい)に反するきわめて不自然なことです。無責任に捨てる人、無責任に殖やす人、イヌネコと共存できない社会の仕組みのほうに問題があるにもかかわらず、そのツケを動物たちにまわすことでもありますし、根本的な解決にもなりません。
 地域ネコにしても、絶えずワークロードを維持しない限り、野生動物と同じで密度が減れば他地域から移入する個体が必ず出てくることになります(あえてそこへ捨てていく人もいるでしょう)。ついでに言うと、放置すれば「1年で1匹のネコが200匹になる」といった主張がありますが、これは生態学的に間違いです。そんな動物はいません(そもそも自然死がいやだってことなら話は別だけど)。繁殖の制限という不自然な方法で動物の個体数を一定に保てるという発想は、ともすれば人間の奢りに映ります。野生動物の"管理"にしたって、実際には失敗ばかりで当座の問題を覆い隠す以上のことはできなかったわけですから(もっとも、殺して駆除するのに比べれば、繁殖制限の方がはるかにマシだけどニャ~)。また、たいした理由ではないのですが(というより学術的興味になりますが)、不妊去勢という人為選択がネコという種の進化にどういう影響を与えるか?というのも少ぉし気になります。"いい子"(の遺伝子)が淘汰されちゃうかも?(汗
 手術のリスクもいまはほとんどゼロに近いとはいえ、死亡する可能性だって皆無ではありません。死亡とは違いますが、筆者の身近な子の例を挙げると、その子は実は特異体質(術前にわからなかった)で、お腹の皮が癒着せずにいつまでも腹巻をする羽目になったケースもありました。(※ 最近の手術では金属製の縫合糸を使うところもあるそうで(腹巻が不要。舐めて傷口が開く心配もないそうです)、こうした負担を減らす技術は歓迎すべきではありますが。でも、金属アレルギーの子とか出てきそうだニャ~。)
 上記の指摘について、百も承知でなさっている方が多いのも知っています。それでも、覚悟と懺悔を抜きに、いいことづくめのように推進することには、やはり筆者としては抵抗感を禁じ得ないのです。「動物たちに責任をかぶせる不自然な方法だが、現状ではやむを得ない」というのが正しい言い方のはず。理想をいえば、殖やして回転させることで利益を得ている人たちが社会的責任をもっと担うべきだと(具体的にはコスト負担)思うんですがね‥。


安楽死について

これほど理性と感情の葛藤をもたらすテーマはないと思いますし、実際に自分が選択を迫られる立場に追いやられない限り、その苦しみを理解できるものではないとも思います。
 理性的には、積極的安楽死は論外にしろ、消極的安楽死については本人と家族の意思に委ねるべきだろうというのが、筆者自身も含め大方の意見(いわゆる尊厳死)ではないかと思いますが、これは人間のケースです。こと相手が動物たちとなると、人間の場合と大きく異なるのは、言葉による意思の確認ができないということであり、実質すべてがヒトでいうところの積極的安楽死ということになります。動物の安楽死に関しては、あまりにもあっさりと安楽死を勧め、あるいは受け入れてしまう傾向が欧米で強いことに、筆者は強い違和感を覚えます。欧米人と日本人との動物観の違いを強調するのは、しばしば動物に不遇を強いることを合理化するための方便として用いられるので、はっきり言って嫌いなのですが(自分たちの所業の反省材料に使うのならまだしも‥)。税金で尊厳のかけらもない大量殺処分を行っている日本人の身としては大きなことはいえませんからね‥。
 ところで、欧州の一部などの法的な(ヒトの)尊厳死の規定では、48時間といった間隔をおいて複数回確認をとるよう定められています。しかし、言葉は嘘をつくものであり、心は絶えず変化するものです。たとえモルヒネ漬けでも激痛を逃れられない状態に陥ったとしても、48時間、あるいはそれ以上の間に1秒たりと「生きたい」思う瞬間がないと言い切れるでしょうか? 何度確認をとったところで、決断が揺らぐ可能性が完全なゼロになるわけではありません。それでも、自分自身のことであれば、死を選択するのもかまわないでしょう。しかし、相手が他者の場合は? 保護者のニンゲンに全権を委ねられてしまう動物の場合は? 「自分だったら苦痛に耐えるのが嫌だから……」という理由を持ち出すのは簡単です。動物実験を始めとする、不必要な、不自然な、理不尽な苦痛に対する指摘であればそれは正しい。苦痛はもちろんニンゲン以外の動物だってないほうがいいに決まっているでしょう。しかし……命あるものすべてが等しく直面するところの"死"について、自然を差し置いて自らが断を下すというのはどうなのか。たとえその子が、命の灯が消える寸前だとしても、苦痛に白旗を振るより、なお"生ききる"ことを選ばないと、断言することができるでしょうか? 自分の立場に置き換える、相手の立場になってみる、そのことは必要な発想だと思いますが、生かすことではなく死なせる(殺す)ことを正当化する理由にするのには、筆者は抵抗を覚えるのです。きれいに死にたい、苦痛なしで死にたい──こうしたニンゲン特有の尊厳死の考えを、しかも積極的安楽死にまで当てはめることはできないと思うのです。むしろ、ニンゲン以外の動物にとっての尊厳死とは、最後まで生ききることなのではないだろうか?‥と。命というものが、たった一つきりであり、一度失われれば本当に、二度と、決して取り返せるものではないのだという現実を受け入れられるかどうかで、結論は違うかもしれませんが……。
 うちの子が死に直面したとき、人に安楽死を勧められ、私は怒鳴り返して電話をたたき切りました。一方で、獣医(近所のがまったく信用ならなかったので電車で一時間かけて通っていたのですが)には安楽死させたものかどうか相談もしました。迷いから自由になど決してなれはしなかった。押しとどめてくれたその先生には感謝しています。私は、うちの子を安楽死させなかったことを、後悔しています。激しく。しかし、もしその選択をしていたとしたら、その後悔はこんなものではすまなかった。自分を許すことなど絶対にできはしない。最後の数日の間、その子は食事も水も睡眠もとらず喘ぎ続けるばかりだったけど、それだけではなかった。決してそれだけではなかったのです。私とその子との時間は。


盲導犬について

 『三獣使』には、盲導犬崩れのアレックスという黒ラブ(ラブラドル・レトリーバー)が登場します。彼のエピソードを採り入れた経緯を少々──
 まず、盲導犬としての活躍が知れわたり、現在日本で飼育されている大型犬の一番人気を張るラブラドル・レトリーバーについて。日本のみならず世界各国で専ら盲導犬を引き受けている犬種なのですが、その理由は何かご存知でしょうか? パトロンをリードする体躯とそれに似つかわしくない温厚・従順な気質もさることながら、実は飼い主に執着しないわりとドライでサバサバした性格がいちばん大きいといわれています。確かに、都合四度以上(生家のブリーダー─>パピー・ウォーカー─>トレーニング・センター─>障害者─>養老ボランティア)家を変わるわけで、その度に激しく落ちこんでいたら寿命を縮めること請け合いですからね。。
 盲導犬の〝お仕事〟は他のイヌの散歩とはまったくの別物です。飼い主の曳行中は、排便・排尿・他犬や他人との交渉を禁じられるわけで、家庭でのしつけのトレーニングとレベルが違うわけです。盲導犬になるまでに非常に厳しい訓練が課されることはよく知られていますが、人にとっても本犬にとっても事故のもとだから、これはやむをえないことでしょう。ただ、資質としてとりわけ重要なのは、従順さ、マニュアルに忠実であることです。あれだけの仕事をこなすのだから、とびきり頭のいい犬たちなのだろうと思われがちですが、飼い主に気を回し、行動を先読みするような頭の"よすぎる"タイプの子は逆に向かず、パピー・ウォーカーのもとへ返されるケースもあるそうです。
 筆者としては、盲導犬の制度そのものを否定する意図は毛頭ありません。が……テレビや書籍で一躍持てはやされるに至ったそれらのエピソードが〝愛犬物語〟の文脈で語られることに対しては、一種の違和感を禁じえません。単刀直入に言って、身体障害者補助犬の制度は人間の福祉のためのものです。「盲導犬には養老制度があるからいいんだ」という話ではなく(適格な運用がなされるなら、それは大変喜ばしいことですが)、盲導犬のほか私たちの力では及ばない数々の仕事を引き受けてくれている使役犬、障害児・者や高齢者に生きるための心の支えを与えてくれるセラピストとしての彼らを始め、イヌネコに限らず、私たち人間の社会が動物たちにいかに多く依存しているか(耳目にしたくない裏側も含め)という事実と向き合うとき、そのあまりの大きさには目を回すばかりだということに気づくでしょう。盲目になったイヌを養った方の「光を失った人間は犬が助けてくれるのに、光を失った犬は殺されるしかないのか」という言葉には、ずっしりと重みを感じます。何しろ、この国では未だに毎年四〇万頭以上のイヌネコが税金で殺処分され続けているのですから。その中には、病気や障害で面倒を見切れなくなったというばかりでなく、健康な子も多数含まれているわけです。そんなニンゲンのために一所懸命身を粉にして働いてくれている彼らに対しては、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいます‥。
 以前、ある自治体で盲導犬関連の予算を社会福祉の名目ではなく、動物愛護関連の項目に付けていたところがありました。どのくらいそういうことをやっているところがあるか、詳細を調べてはいませんが。議会や担当者は乏しい予算をやり繰りして福祉予算を宛がう裏技として、むしろ自慢したい感覚なのかもしれません。でも、それはやっぱりおかしいのではありませんか?(フン処理袋の補助金もヘンな話だけど。一方で、テニスコートはよくってドッグランがいけない理由が全然わかんないよ(--;)。しわ寄せはやめて、人間の福祉関係予算を手厚く盛ればすむ話でしょ(--;; 犬猫のための予算は「犬猫のため」に使ってもらいたいですニャ~。。


イヌ・ネコ・ヒトのコミュニケーションについて

  「地球大進化」というNHKの一年連続の大型教養番組が話題を呼びました。山崎努の演出がコミカルでまあおもしろかったのですが、個人的には旧いバージョンにあたる「地球大紀行」のほうが好きでしたね。前作はラブロックのガイア的な斉一観に基づく母性的地球像だったのに対し、新作はその反動なのか、地球="荒ぶる父"像をやや強調しすぎる嫌いがあったように思います。地球科学の分野で新しいデータ・仮説が積み上げられていく中で、安定的な地球像がかなり崩れたのは否めませんが、地球の生命系がダイナミックな動的平衡状態を保ちつつ、30数億年の間途切れることなく今日に至っているということもまた事実でありましょう。まあ、それは本題とは関係ないのですが……実は、いくつかツッコミどころのあるこの番組の中で、一点かなり気になる箇所がありました。イヌネコ絡みで。
 最終話辺りでしたか、ヒトと他の動物とを分かつ大きな特性、ヒトが万物の霊長に進化するに至った大きな理由として、豊かな表情とその認知が挙げられていたのです。筆者は、むしろこれは逆なんじゃないかなあ・・と思った次第です。ヒトは、相手の心を読む能力が鈍くなっちゃったから、知性(?)を獲得するに至ったのではないか、と。。
 おそらく、イヌネコを"家族"としてらっしゃる方の9割に同意してもらえるだろうと思うのですが、相手の心の機微を読み取る"感度"の点で、ヒトとイヌネコとどちらが上手かと言われれば、みなさんきっとイヌネコに軍配を上げるはずです。
 落ちこんでいるとき、気分がふさいでいるときに、イヌやネコたちに(さりげない自発的行為によって)慰めてもらった経験を、きっと多くの方がお持ちだと思います(そういうときって、ヒトの家族の方は残念ながらわかってくれなかったりしますよね(^^;)。癲癇や狭心症を抱える飼い主の発作を、それが起きる直前にイヌが教えるというエピソードなどもありますが、おそらくイヌやネコは、ヒトには感じとることのできない微妙な表情(体温・心拍等まで含むのかも)を読み取っているに違いありません。それも、実にさらっと。当たり前のように。
 ヒト以外の動物は顔面筋がヒトのようには発達していませんが、それでも"交渉"相手の心理ステータスが"社会生活"に必要不可欠な情報である以上、それを感知する術も持っているはずです。言葉や顔のディスプレイという簡便なコミュニケーションの道具を持っている私たちヒトは、その自分たちの基準に合わせてコミュニケーションというものを捉えがちです。しかし、イヌやネコに教わる限り、ヒトが想定するような明確なサインのやりとりなしに、彼らが相手の心理状態を的確に把握していることは間違いありません。
 その意味では、顔の表情という手頃な視覚信号を(生物史的に)獲得してそれに依存しすぎたあまり、"読心"の感度が鈍くなり、多くの誤解・すれ違い・思い込み・ウソが生じ、そのように読めなくなった心をめぐるゲーム理論的カケヒキに脳のリソースを割くようになった(その過程でなされた言語の発明がさらにそれを加速した)ことが、ヒト的知性の進化につながったんじゃなかろうかニャ~なんて思ったりするわけです。。
 もっとも‥‥表情の豊かさという点では、イヌやネコは全身を使って、豊かな(それでいてウソのない)感情を表現できているのが、鈍いヒトである筆者の目で見てもわかるけどニャ~。。。


ネコの洞察力に関する洞察(チャミちゃんの場合)

 「ネコは(イヌより)頭が悪い」と言われることがあります。「迷路学習の成績はネズミにも劣る」とまで言われたり‥。けど、そんなことはないニャ~!(なんていうとネズミには失礼だけど) ネコは本当に頭がよいニャ~!!
 例えば、ドアを勝手に自分で開けてしまうネコは世に広く知られておりますが、これぞまさに彼らの知性の証といえましょう。後肢立ちしてノブを押下する動作は、単なる模倣やでたらめな行動からは決して発生しません。意味もなく人間をまねて立って歩くネコはいませんからね。。つまり、ネコたちは人間の行動をつぶさに観察し、ドアの開閉機構とノブの操作の関連性を見抜き、自らが室外に出るという問題解決のために応用しているのです。自由への欲求、ストレス、記憶の整理と検索・洗い出し、推理・洞察、意思決定、そうした一連の諸相が、この一見単純に見える何気ない行動にすべて含まれているわけです。
 これに関連して、筆者はある実験をしてみました。開き戸式の窓を開ける能力のあるチャミちゃん(♂)という子がいまして、いつも右側の窓を開けていたのですが、そちらを固定して反対側しか開かないようにしてみたわけです。3日かかりましたけど、試行錯誤のうえ、チャミちゃんはなんと反対側の窓を開けるのに成功しました。右開きと左開きとでは、窓のスライドする方向が反対であり、それに合わせて身体の向きや利き腕を動かす方向も変えてやらなくてはなりません(もっとも、チャミちゃんは窓を開けても、ただぼんやり2階から外を眺めるだけなんですけどね‥)。
 固定された窓の解除の試み、努力を放棄する"見切り"の判断、別の解決方法の模索、窓・壁の構造に対する理解、自分はいつも使わずヒトも普段滅多に開かない反対側の窓に関する記憶検索ないし類推、どのように動くか? またそのためにはどのように力を加えればいいか? という課題設定とその解決のための試行錯誤・ひらめき──こうした一連の働きが、3日間のチャミちゃんの脳の中で起こっていたわけです。
 実験をしたのは、筆者が10匹のネコたちにお世話に"なっていた"ときなのですが、ドア(開き戸式及びハンドル回転式)開けの技術を持っていたのは、このうち4匹ほどでした。じゃあ、残りの子はそこまで知恵が回らなかったのか、というと……閉められた部屋から出たいときなどは、ドアの前に列を作ってしゃがみこみ、"ドアマン係"が開けてくれるのを待っていたのです。したたかというかちゃっかりしてるというか。。自力で出る必要が生じれば、さらに何匹かはきっとドア開け能力を自分で獲得したことでしょう。
 ネコはイヌのように芸をしませんが、このように自ら設定した課題をこなす能力には実に目を見張るものがあります。まさにイルカやチンパンジー、カラスにも劣らぬ洞察力といえます。社会習性を考慮するなら、ネコに座布団一枚追加しなきゃいけませんね。。ネコはかくも天才なんだニャ~!!
 まあもっとも、動物園でドアを開けて脱走するコアリクイや、防寒のためにドアを"閉める"サイなんかもいたり……。みんななんて天才なんだろう!と感嘆してたら、先日TVでなんと鍵を開けてしまうニャンコも登場しててさらにビックリ! 「ドアを開ける」ために「鍵を開ける」という、思考の階梯をさらに一段昇る形ですが、ネコたちにとってクリアできない障碍ではないようですね。筆者なんて、言語を社会的に習得させられていなかったら自分で思いつけたかどうか、正直自信がアリマセン。。やっぱり座布団五枚あげたいニャ~♪


ネコとヒトのリレーション(ゆずちゃんの場合)

 今度はゆずちゃん(♀)という子のお話。
 ゆずちゃんの家族はお母さん(ヒト)、お父さん(ヒト)、お母さん(ネコ)、妹(ネコ)、つい先日やってきた2匹目の妹(イヌ)、という6人/匹家族の構成。
 とってもシャイな性格のゆずちゃんですが、実は上記のチャミちゃんにも負けない天才ネコだったりします。彼女はなんと、遊びを催促するときにわざわざネコじゃらしをくわえてお母さんやお父さんのもとまで運んでくるのです。
 イヌであれば普通に見られる行動ですが、決定的に違うのは100%ゆずちゃんの意思による点。「モッテコイ」と指示を与え、ご褒美によって覚えさせる芸とは一線を画するのです。彼女はヒトの意向に関わらず、自分が遊びたいと思うときにそれを運んできてお母さんやお父さんに渡し、いわゆるネコじゃらしごっこに忙しむのです。
 ゆずちゃんは女の子なので、仔猫に餌を運ぶ給餌行動が転化したものとみることも、あるいは可能かもしれません。虫やネズミの"お土産"を飼い主に運んでくる給餌行動はよく知られています。が、飼い主のヒトを仔猫と勘違いしているわけではありません。ご飯をもらったり、甘えたりしても、ヒトに対して授乳はしません(仔イヌにすることはあっても)。それ以外の面で自分の仔猫と同等の扱いをしているわけではなく、飼い主のヒトを特定の個体として明確に認識しているわけです。つまり、そのネコにとって、飼い主とのリレーションが母子の関係にも匹敵する強固な絆であり、実子に等しい待遇で接しているということなのでしょう。おそらく、虫やネズミ(あるいは玩具)を捕まえたとき、飼い主さんの顔がふと思い浮かび、ついプレゼントしたくなるのでしょう──自分の仔猫に対してそうするように。
 ゆずちゃんも最初は、狩りの練習でもあるネコじゃらしごっこで、獲物を捕まえて得意な気分になって、お母さんにあげたくなって持っていったのかもしれません。そうしてまた「いっぱい遊んでもらえたから」ということで、その後はかまってほしいときのおねだりに変わったのでしょう。
 ネコにとっての人間と自身との関係は、母子もしくは子母の関係によく例えられます。大体8:2くらいの割合というところでしょうか。食事時を始め、あまえるときの仕草は仔猫の母に対するそれですし、小さい頃から人工哺乳を受けた子の場合は、おとなになってからもおっぱい代わりに服をしゃぶったりする子もいます。一方、ヒトを仔猫として扱う代表例が上の給餌行動といえます。人間のほうが"じゃれたい"ときに尻尾でお愛想のように相手をするところなんかも、まさに母ネコのそれですものね。。子母関係はメスのほうが強いでしょうが、オスでも母性を発揮する子もいます。いずれにしても、ネコにとって家族であるヒトは、母:子が8:2の割合で入り混じった肉親的存在ということになるのでしょう。
 ところで‥そのゆずちゃんですが、お母さん(ヒト)が台所で忙しくしているときなどは、「しょうがないか」とお客のヒトにまでおねだりしてくれる実にサービス精神の旺盛な子でありました(^^;


ヒトとイヌ・ネコとの心の距離

 『リューイ』を読んでいただければ、筆者の立ち位置は大体のところおわかりになると思うのですが‥‥正直、筆者は(ニンゲン以外の)動物と(動物の一種にすぎない)ヒトとの間に線を引くことに強い抵抗を覚えます。
 仮に一本の線があったとして、どこにそれを引くのが一番妥当か? 数学的帰結としては、いちばん大きな集合単位のところで引くべきでしょうね。すなわち、生物と無生物の間。もっとも、生物の定義がそもそも完全に一意的でないこともあって、この境界もはっきりしないんですけれど。。(宇宙人/生物が発見されたら、その時点でひっくり返るニャ~)
 で、2本目の線を用意します、と。ところが‥生物の系統を実際の分岐過程に忠実に決定する分岐分類学の体系に従うなら、最も大きな界から出発して、せいぜい4百万年程度前にチンパンジー(ゲノムで見れば1.2%程度の差しかない)と分かれたヒトという種に至るまでには、2本ではとても足りず、さらに20本くらい線を足してかなくちゃなりません。。でないと、他の生物と区分することができないわけです、科学(生物学)的にみれば。ヒトと他の動物と違う点を挙げようと思えばいくつか挙げられるでしょうが、それらの特徴は、いずれの種を他の種と分かつ形質とも等しい(分類学的には最小の)重みづけを持つ形質にすぎないのです。
 いや、もし引くとしたら、共通のゲノムセットを持つというだけにすぎない"種"という最小単位の集合(しかも、それは便宜上設けられたカテゴリにすぎないのですが)とそれ以外ではなく、もっと絶対的な境界線に沿って引かれるべきでしょう。すなわち、自己と他者(ヒトであろうとなかろうと)です。
 記号化しうる情報以外の、感覚・感情・感性については、自我の檻から出ることはだれにもできません。自覚の有無、客体と主体、その間には絶対的な壁が存在します。用意周到に構築された唯我論は論破し得ないということは、しばしば指摘されるところですが、そうした唯我論的立場からすれば、生命のある他者も無生物と何ら変わらないわけです。私たちヒトは社会生活を営み、そこにリアルさを見出す動物であるが故に、そうした立場をとらないのですが。
 ところで、動物の一種であるヒトと、同じく動物の一種であるイヌ・ネコとの距離は、生物の物差しでいうとどの程度の"近さ"になるのでしょうか?
 生物の歴史で見た場合。霊長目と食肉目が有胎盤類の共通祖先から分かれたのが、おそらく恐竜が絶滅する少し前、7、8千万年前くらいだろうとみられます。ということは、40億年近い生物史の98%まで同じ道をずっと歩んできたことになりますね。
 分類群の数で見た場合。私たちが分かれるのは目の段階です。動物だけでも30いくつの門と大よそ300の綱(クラス)があるとすると、30の学校、300のクラスがある中で、たまたま一緒のクラスに編入されたクラスメイトということになりますね。種数で見ると、約300万のうちの約5千種、つまり残りの299万5千種より近いわけです(未確認の種の数はすでに同定されている種を大幅に上回ると見られますが、それらの大半はやはり昆虫でしょうから、もっと小さなグループの範疇に入ることになるはず)。
 では、心の距離は?
 心の定義にもよるわけですが、そのうち唯我論や一種の宗教に基づく超常現象のような袋小路にはまらない定義を採用しなくてはなりません。脳という物理的・生物的基盤の上に成立し、感覚器を通した光学等物理情報に基づく環境に関する入力と、他者との相互作用(自己内フィードバックを含む)に基づく社会環境に関する入力をもとに、状況に適応するための出力(行動・コミュニケーション)を担う情報処理システム、というところでしょうか。そこには生得的な欲求から情動、高度な意思決定に至る諸相が含まれるわけです。複雑な階層が統合されたシステムである心は、ヒト特有のものであると考えているヒトが少なくありませんが、やはりこれは哺乳類・鳥類を中心とした多くの動物に共通に見られるものであると、筆者は考えます。例としてネコの洞察力をご参照。
 イヌネコについてこうした複雑な心理を経た行動の事例を挙げようと思えば、枚挙に暇がありません。ヒトとほぼ変わらない、生得的衝動から状況判断・洞察に至る連続的な心理状態の諸相を持つことは、やはり心の一側面である感情の面においても、これらの動物がヒトにきわめて近いことを示すものでしょう。それは、一万年もの間異種混成社会を築いてきたイヌネコを家族に持つ多数のヒトの証言を待つまでもありません。
 そういう次第で、イヌネコは分類上も心の距離という点でもヒトにおそろしく近い動物だといえると思います。ところで、ここでいう差異・距離は、"自分"を起点とし、いちばん近いと思われる同種のヒト個体間のそれを基準としたものです。では、心の遠近を測る絶対指標となるヒト-ヒト間の心の距離はどの程度のものなのか?
 実のところ、私はヒトの他の個体に距離を感じてしまうヒトで、社会性でいうならシロクマのメスタイプ(自分のこども以外の個体にはあまり情を抱けない)かもしれません(--;; それにしても、ヒト同士の心の違いの大きなことといったら。。生物としてのヒトの特性(五感の能力や生理的特性)にたいした差がないにも関わらず(異種に比べればゼロに等しいでしょう!)、ものの見方、感じ方がどれほど違っているかということは驚くばかりです。同じ本や映画を見ても、同じ景色を見ても、同じ曲を聞いても、同じシチュエーションに遭遇しても、いかに反応が異なることか。その差異を生ぜしめているものは、言語・宗教・思想・趣味・出身地の社会/家庭環境など多岐にわたると考えられますが、身体能力・食性・五感の性能は、決定的要素でないどころか、ほとんど影響してないようにさえ思われます。例えば、筆者は聴覚異常があるのですが、音楽の好みと関係がある(正常なヒトと異常なヒトとで好みが異なる傾向がある)とは思えませんし、それ以外の性格・性向であればなおさらです。(ヒト-ヒト間コミュニケーション上の不具合の問題については他項も参照)
 ここで、友人や、恋人(家族という群れの核をなす配偶者候補)を選ぶときの基準というものを考えてみましょう。対人的な好感度を測るとき、ヒトのみの特性といわれる理性・抽象思考が、あまり大きな役割を果たしていないと思いませんか? 友人・家族・恋人との日々の会話というものは、社会関係を強化・補修するコミュニケーションの一環ですが、話される会話の内容自体、やりとりされる言語情報は、実はどうでもよかったりするわけです。今日のテレビの話題だろうと、ニンゲンとは何ぞやという哲学だろうと。いま彼(彼女)の言った台詞の内容がAだろうとBだろうと。友人や恋人になりうるかどうかを決めるのは、趣味・性格を始めとする相性がしっくりくるか。(どこと言われても説明できない)全体的な雰囲気が決め手だったりします。それらは前述の、種内個体差の激しい感性、ものの見方や感じ方の相違に他なりません。手始めに趣味や思想等の共通属性から入るとしても、親密度があがる(グッとくる、ピンとくる、ビビッとくる)きっかけは、言葉(の概念)によらないシチュエーションなのではないでしょうか。要するに、きわめて動物的。思想や宗教観も重要な要素かもしれませんが、それもむしろ相性の一部ですし、性格より上位の基準にならなかったりします。保守(あるいは革新)政治家同士で犬猿の仲のヒトがたくさんいるのを見ればおわかりのとおり。。すなわち、ヒトの個体関係はまさしく社会性哺乳類のそれなのです。サルの一種として、群れの個体同士に築かれる社会関係の延長線上にあるのです。
 どれほど言葉で取り繕っても、ヒトの社会性・個体間コミュニケーションの基本が動物史的に引きずってきたものであることは間違いないのです。
 だからこそ、この3種の個体の喜怒哀楽は同じように自然にわかるのでしょう。お互いにわかり合えるのでしょう。


ちょっと恥ずかしいお話・・

 今回はちょっと口にするのは憚られる話をしたいと思います。本猫のプライバシーに関わることですが、もう亡くなってしまいましたし、存命でも気にはしないでしょうから。。
 うちの子は夢精をしたことがあります。そのときの筆者の気持ちは、「ああ、こいつも男になったんだなあ・・」という感慨でさえなく、「そろそろ手術に連れてかないとダメか。。」という無味乾燥なものでありました。本猫は親にそのような現場を目撃されても(そのうえ処理されて目を覚ましても)実にあっけらかんとしたものでしたが。。
 果たして同様の観察事例がどの程度あるのか、文献を調べたわけではありませんが、かなり珍しい部類には入るのでしょう。野生動物はともかく、飼育動物の場合はあってもよさそうだとは思いますが。。
 野生動物(特に捕食者に狙われる草食動物)は、ふつう睡眠時間が短くて浅いので、夢を見る余裕はあまりなさそうです。睡眠時間が長い動物といえば、冬眠するタイプのほかはコウモリくらいのものでしょうか。代謝が極端に低下するこれらの動物の場合、むしろSFに出てくるコールドスリープのイメージに近く、ニンゲンと同じように夢を見るかどうかは疑問が残ります(もちろんその可能性はありますが)。そうした中で、小柄ではあっても優れたハンターであるネコは、睡眠の権利を大きく確保している数少ない動物といえます。ネコの睡眠時間は1日平均14、5時間といわれており、その大半は深い眠りではありませんが、どっぷり眠りこんでいるときもあります。レム睡眠と呼ばれるその睡眠状態にあるときは、眼球が激しく動き、脳からはα波が出るなど、ニンゲンのそれと基本的にまったく変わりありません。そうした眠りの間に夢を見ていることは間違いないと考えられます。
 そんなことは指摘されるまでもない! と、ネコと暮らしている方はみなさんおっしゃるでしょうね。深い眠りに就いているとき、寝言を言ったり、幸せそうに前足を交互に動かしたりする姿は、きっと日常的に観察されていることだと思います。そんなとき「一体どんな夢を見ているんだろう?」なんて思ったりしますよね。足を漕いでいるときは、母猫のおっぱいを飲んでいるのかもしれないな、といった想像も少しはつくのですが。ネコの場合、眠っているときに四肢の激しい痙攣を起こすことが結構あり、そういうときは「悪夢にうなされてでもいるのか?」とちょっぴり心配になったりもします。つい不安になって揺り起こしてみると、寝ぼけ眼で「ニャニよ?」とキョトンとした顔をされるだけなので、悪い夢を見ているわけではないのでしょうけど。実際、筆者自身も半睡眠状態にあるときに、夢とは無関係に手足がつるように痙攣することがしばしばありますし(もしかして猫化してるのか?(--;)。
 ところで、夢というのは生存上の合理性のない現象といえます。おそらく記憶の整理・統合と関係があるに違いないといわれていますが、部屋の整理に例えるならば、散らかりっぱなしの部屋を悩み悩んだ挙げ句散らかし直した(多少片付いたようには見えるけど)・・という程度ではなかろうかという気がします。。体験のリプレイといっても、支離滅裂な展開があまりに多く、個(人)体差も非常に激しく、ともすればフロイト流の解釈しかしようのない、つかみ所のなさがまさに夢の特徴といえます。脳という器官・心というシステムにとっての随伴的な現象が夢なのではないでしょうか。
 ネコはニンゲンが夢を見ているときと同じ生理状態になることからも、客観的に夢を見ていることは疑いないといえますが、夢の中味については確かめようがありません──
 いや、例外が一つ。そう、コレですね。夢精というのも、夢と同じく生存の目的と無関係な、むしろ不必要な機能です。性徴や欲求不満と何がしかの関係はあるかもしれませんが、実際のところはそうともいえない。。夢を見る心・脳というものが、性を司ることからくる副次産物的な現象ということができます。
 もっともヒトの場合であっても、夢精中に見る夢となると個人によって、そのときどきによっていろいろです(さらに恥ずかしい話に突入しそうですが(--;)。シチュエーションも、相手も(配偶者か、それ以外の知っている人物か、見も知らぬ人か・・)、まさに夢らしく混沌としているのが実際のところです(男性でなければわからん話ですが。。)。ただぬるま湯につかって気持ちいいみたいな曖昧模糊とした夢のこともあれば、ヒトによっては靴下や戦車が登場することもあるかもしれません。。。(お断りしておきますが、筆者の経験談ではありませんからね。。。)
 いずれにしても、そのときに見る夢は少なくとも性的なニュアンスを帯びています。そして・・うちの子の場合もきっとそうだったでしょう。つまり、この観察事例は、動物の見る夢の内容・ジャンルをある程度特定できるという意味で、行動学上・心理学上きわめて興味深いものだということができます。猫にそうした生理がある以上は、ふつうに見る夢にもそうしたものが含まれているに違いなく、さらにニンゲンが見る夢と同様のバリエーションを備えていることをも意味するのでしょう。いまあなたのそばでまどろんでいる猫たちが、あなたや知り合いの猫たちが登場してくるような、あるいはみなさんの想像を越えるイメージに彩られた夢を見ていることも、おおいにあるかもしれません。
 うちの子の夢に果たして彼女が出てきたのか、どんな毛色・どんなタイプの子だったのかまでは、もはや想像の域を出ませんが。。。


初対面のイヌとのごあいさつ

 とくにこども時代に犬に噛まれた経験のある方は、案外少なくないのではないでしょうか。自宅の、すなわち家族の犬のケース(この場合は兄弟ゲンカに相当するのかな)もあるでしょうが、やはり知らない犬にうかつに近寄って・・というパターンが多いと思います。幼児と大型犬の場合はとくに、何十針も縫うひどい咬傷事故に発展する場合もありますから、注意が必要です。こどももかわいそうですが、事故を起こした犬が責任をとわれて下手すると殺処分されてしまいますからね..ニンゲンの場合、悪意をもって傷害を負わされた場合でも死刑になることはないんですから、不公平な話だと思いますが…。
 知らない犬でもついかわいく思って近寄って撫でたくなる心理は、大人とこどもとを問わず、何らかの事情で犬嫌いになったヒト以外はだれにもあるでしょう。が、筆者としては、長く交遊関係を結ぶ(近所なり、友達もしくは親戚の家の子なりといった理由で)可能性の子以外は、無闇にそばに寄らずそっとしておくのがよかろうと思っています。犬は家族に愛されればよいのですから。家を守るのもお仕事のうちですし、ね。
 そうは言っても、近所づきあいにせよ親戚づきあいにせよ、最初にお近づきになる機会というものはあります。お散歩で公園デビューをすませ、社会性をある程度身に付けている子であれば、とくに警戒を抱かせる行動をしない限り大丈夫だと思いますが、専ら番犬的扱いを受けている子の場合は、最初に吠えられるとなかなか近づくのに勇気が要るものです。
 筆者は別にトレーナーでも何でもないのですが、何度か初対面の子とお近づきになる機会がありました(失敗もしましたけど…)。『三獣使』の中で、犬に噛まれた経験のある佳世に主人公の大樹がレクチャーするときの台詞は、一応筆者が実証済みのものです。急な動作をせずにらせんを描くようにゆっくり近づく:これは、基本的にイヌ同士のあいさつを踏襲したものですし、真っすぐ近づくより距離が把握しやすく安心できるという意味もあります。小さなお子さんでは、急に頭を撫でようと手を出してガブッというパターンが多そうですが、やはり下からゆっくりと手を出して咽喉もとをさすってやるのがベストです。ちょっと抵抗があるかもしれませんが、いつでも噛める位置にあるほうが、返って相手のイヌを怖がらせないですむんですよね。これもよく言われることですが、視線を長く合わせない。イヌに限らずたいていの動物(ヒト含む)は、そりゃ落ち着かなくなるのは当然ですね(--; 筆者の失敗談ですが、ある子を撫でていて、あんまり真っ青な目がきれいなもんでじっと見とれていたら、「お前、ヤな感じだからあっち行け」と言われてしまったことがあります(--; 飼い主に見える位置にいてもらったり、話しかけたり、なるべく低い姿勢で、といったことも、同様にイヌの警戒心を解くためです。基本的には和やかな雰囲気の演出に尽きるのでしょう。やはりニンゲンと同じということですね。
 どっかのスパルタ式のカリスマトレーナーのように、女子プロレスラーのごとき剣幕で威嚇し、ときには矯正棒の類いで引っぱたくというやり方もあるようですが…筆者としてはあまりオススメしたくありません。まあ、『キム』で述べているようにニンゲンの子供の教育をどうするかというのと同じだとは思うのですけれど。。
 ここで、筆者のある体験をお話ししたいと思います。それは飼い主に放棄された子と出会ったときのことでした。あいさつをしていたとき、やたらと手をくわえたがる子だったので、「そんニャにおしゃぶりが好きニャンでしゅか~」などとあやしていたのですが、後で保護した方に事情を聞いてびっくり。こども(ヒト)のいる家庭だったのですが、噛み癖がついてこどもに怪我を負わせたため手放されたのだと。そして、ここからが問題。そうした情報をインプットされてしまった私は、おそらく無意識のうちにも警戒心が生じ、その緊張を感じとったのでしょう。もう一度あやそうとしたところ、先刻よりも手を噛む力が強くなり、ついには流血の事態に至って、おしゃぶりを断念せざるを得なくなったのです。。
 イヌはやはり心の機微を敏感に嗅ぎとる繊細な心の持ち主なんだなあ、と改めて感じました。
 超有名なとある動物プロダクションの作家は、「力を抜く」ことがイヌを始め動物に噛まれない極意と言っていましたが(とかいってタスマニアデビルとかに手噛ませてたっけニャ~。テレビ欄のコピーはまるで川○浩ピラニアに食われるのノリだった気がしたけど。。)、まあ真だと思います。このヒトはイヌやゾウをやたらと蹴っ飛ばしたりするので、筆者は嫌いなんですけどニャ(--;
 余談:近所に住んでる真っ黒ちゃんは、通りかかるたびに「オマエ、絶対噛んでヤル」と言わんばかりに吠えかかる子だったりします(とりわけ配達員が大嫌いらしいタイプ)。先日前を通ったところ、その子の綱が外れていたらしく、いきなり飛び出してきてびっくり。。ところが・・後1mのところでストップして、すごすごと隣家の生垣の向こう側に隠れると、こっそり「ワウワウ」。弱ッ!と思わず吹き出しちゃったけど、実にお茶目な子でありました(^^;;


狂犬病予防注射について

 人畜共通感染症については別途とりあげましたが、その典型例であり、実際のところ危険性も高い狂犬病に対する日本の取り組みには、筆者としては疑問を感じます。すでに多くの方々が表明しているところと変わらないのですが。
 狂犬病は予防はできてもいったん発症すると非常に死亡率の高い病気として知られています。媒介動物にイヌ、キツネ、アライグマ、マングース、コウモリなどが挙げられますが(このうちチスイコウモリ等が媒介するのは狂犬病類似のウイルス)、実は哺乳類であれば大抵の種が感染する病気でもあります。ネコやハムスターからも発症・ニンゲンへの感染例が報告されています。
 人畜共通感染症の典型例としてしばしば挙げられるのがプレーリードッグ。ズーノーシス、サル痘、果てはペスト菌まで持っていた事例が報告され、日本では2003年に輸入禁止となりました。当然このプレーリードッグなども狂犬病の媒介動物となりえます。そして、禁止措置以前に家庭で購入された子については放置されたままのわけです(いまでも雑誌に写真投稿されたりしてる方がいるとおり)。爬虫類のガビアルモドキについて、ひなびた温泉の動物園と業者が結託して、密輸したものを国内繁殖したと偽って販売していたことが明るみになりましたが、いわゆるエキゾチック・アニマルに関しては同様のケースがいまだ多数見られるに違いありません。しかし、例えばプレーリードッグについて、国内で飼育されている個体をすべて登録させて把握し、年一回の予防接種を義務付けるような措置はとられません。アライグマなどは、もともと飼育されていたものが逃げ出して繁殖し、街中の下水溝などに住み着いていることもご存知のとおり。ニンゲンと社会関係を築いてきた歴史のきわめて浅い野生動物のペット化が、外来生物として日本固有の生態系を脅かすことも含めこうした問題を引き起こす元凶であるともいえますが…。いずれにしろ、これらの動物たちが、こどもたちと接触して感染症を媒介するリスクはイヌよりずっと高いのではないでしょうか。
 戦後予防接種の広範な実施により、狂犬病の発生を現在では海外旅行等の特殊なケースを除いてゼロにまで押さえた実績は評価すべきだと思います。が、今日では実態の正確につかめない輸入動物(それらが野生化したものも含め)という新たな感染ルートが登場し、狂犬病予防という観点からはそうした大きな"穴"を塞ぐ取り組みがほとんどなされていない状況です。輸入野生動物の規制の強化と徹底した把握、感染症予防対策の確立を抜きに、従来どおりの家庭犬に対する予防接種を続けることは、狂犬病対策としてはバランスを非常に欠いていると言わざるを得ません。
 よく言われているのが、狂犬病予防接種は獣医師会の既得権益の色合いが濃いということですね。。正直、筆者にはうちの子がお世話になった大恩のある方もいますし、捨て犬猫の傷病治療を無償でやってくれたり、保護してくれたり、里親探しまでしてくれるような奇特な獣医さんが多数いらっしゃることを知っています。一方で同じ獣医といっても、医療過誤に対する責任逃れに終始したり、"家族"の気持ちを考えずに学界への報告例扱いにしたり、安楽死をすぐに勧めたり、悪徳業者と組んだり、もはや金の亡者としか呼べないようなヒトもいます。"死"に毎日のように接している獣医の職にある方は、自らの倫理観・感性を維持するのに大変な困難を伴うことでしょう。それだけに、良心的な獣医さんに対しては感謝と畏敬の念を覚えずにはいません。その方たちの間で、「続けてもらったほうが助かる」という声が多いなら、あまり突っつきたくはないのですが。。
 とはいえ、獣医の中でもこの予防接種に疑問を投げかけている人が少なくありません。予防接種の費用は公的に賄われるもので、多くの自治体で動物関連予算のかなりの部分を占めるものでもあります。予防接種の必要性の論理は、他の感染ルートの穴の問題を除けば、犯罪・人災・事故等による死亡をゼロに押さえている社会であれば、もっともなことに聞こえます。しかし、今の日本に必要なのは、惰性で予算を消化し続けることではなく、時代に合わせた適切な配分を考えることではないかと思うのですが。あとの正当性は、万一感染が起きた場合にイヌが悪者にされかねないことくらいかな(それも不合理な批判だと思うけど。。)


イヌ・ネコのフェティシズム

 TVの動物番組には、視聴者から寄せられる飼いイヌ・ネコたちの様々な奇癖がよく取り上げられます。とくにイヌ(それも座敷犬)に多く見られるようですが、特定のアイテムに対する異常な執着を示す子もいます。多くの場合、それらはしつけや家庭環境に原因があると考えられます。長時間単調な室内環境で単頭で飼育され、ストレス発散の対象になるケース、間違った叱り方のせいで恐怖や攻撃の対象となってしまうケースなどは、比較的わかりやすいでしょう。バラエティー番組でそれらをただおもしろおかしく報じることには、少々問題がある気がしますが……。
 一般には、イヌよりネコたちのほうが人工物に対して無関心といえそうです。おそらく社会性の違いに基づくのでしょう。普通ネコたちは、たとえそれが高価なもんだろーと(お札だろーと、苦労して入手した世界で1枚しかないサイン入り色紙だろーと)、あるいは鼻紙だろーと、針路上にあるモノは等しく踏んづけて歩きます。といって、彼らに障害物を認知する能力がないわけではありません。骨董品屋の看板ネコさんの中には、ビッシリと並んだ商品の間をかすりもせず縫うようにスタスタと歩いていく子なんかもいますね。その子たちの場合は、ちゃんと触れてはいけないものだという認識(金額がいくら相当というのはさておき)があるのでしょう。おそらく、親に怒られるか、一度落として大きな音などにびっくりしたか、経験を踏まえた上での行動だと思われますが。そして、それ以外のネコたちも、寝ている同類の肢や尻尾の上を、たとえ目の前に横たわっていても、素知らぬふりして踏んでいくことはまずありません。やっぱり仔ネコのうちに"失敗"して、「あ、踏んじゃまずいや……」と勉強するわけですね。ヒトの足に関しては、針路上になくてもわざわざフミフミしに来る子もいますけど……。
 とはいえ、中には本当に理解に苦しむマニアぶりを示す子もいることはいます。筆者が暮らしていた大家族の一匹に、チーちゃんという黒キジ系のハンサムガイがいました。彼は性格も溌剌として水も滴るいいオスだったのですが、ただ一つ妙ちくりんな癖を持っていました──ホーキ・フェチだったのです……。ただ飾ってあるだけのホーキも好きでしたが、何よりも"ホーキで掃くという行為"に目がありませんでした。徐にホーキを手にして床を掃きだすと、どこからともなく疾風のように現れて、転げまくるやら躍り跳ねるやら、もう大変でした。掃除機を用いた掃除にもそれなりの関心を示しましたが、やはりホーキの比ではありませんでした。してみると、「ホーキが好き」+「掃除が好き」=「ホーキで掃除するのがとりわけ好き」という図式が成立しそうです。掃除機についてはキライという子が多いものですが……。一体、如何なる過去が彼をしてホーキフェチにさせたのかは、多数のお子さん(ネコ)を育ててきた親御さんも首をかしげるばかりでした。
 通常ネコたちは、だだっ広い開けた空間を嫌います。獲物や敵から丸見えになる状態は、やはり落着かないのでしょう。他に何もなければ、たとえ掃除機のような物体でも床の上よりマシとはいえそうです。どちらかといえば、段ボール箱みたいな平面的なモノよりは、局面的なオブジェを好む傾向もあるかもしれません。ニンゲンの目からすると、座り心地は余計悪いような気がしますが……。殺風景な部屋に比べれば、直線的な見通しが効かないゴチャゴチャした部屋の方が彼らの好みに合うのでしょう。特に、床面積よりも家具の配置等、立体的な移動が可能な部屋の方が、猫達の精神衛生上からは好ましいことになるんでしょうね。お気に入りのポイントは数日~数週間おきに変更されますが、多頭飼育になると偏りが生じ、それぞれの子の"お気に入り"、自分が特に優先権を主張したい場所やモノが決まってくるということも、理由の一つとしては考えられそうです。
 例外的に多くのネコ達の興味を惹きつけるモノとして、電話が挙げられます。もちろん静的な非交信状態にある場合は興味の対象となりませんが、ニンゲンが通話中の時には積極的に妨害活動に打って出ます。ご家族にいらっしゃれば頷かれる方も多いはず……。会話が終わるや否や、平常モードに戻って無視するので、他のオブジェとは違う理由に基づく執着であろうと考えられます。要するに、飼い主が自分以外の誰か(電話の中に住んでると考えてるかはともかく……)とコミュニケーションを交わしているのが気に入らないんでしょうね。筆者は不在の時に仕返しのつもりか、上でおしっこをタレられたことはありました。おかげで、結構高価だった旧式のFAXを買い替えさせられる羽目に(--;;

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