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2 ミオが家出!?




 岩崎家の夕食は通常、7時5分前の天気予報に合わせて開始される。朋也がミオの食事を用意するのはそのさらに5分前である。
 ミオは時間にはかなり几帳面で、朋也の母が台所で換気扇や包丁の音を立て始める六時半頃には、外出先から帰ってきてさりげなく室内でくつろいでいる。ちなみに、玄関のドアの横にはミオ専用の通用門が据えてあり(朋也が高校の入学祝を全額はたいて工事までさせたのだ)、帰るときはいつもここを利用する。
 夕食の10分前になるとソワソワしながら朋也の顔をしきりにうかがい、朋也が席を立って缶詰の収納された戸棚に向かうや否や、高らかにリクエストの鳴き声を響かせるのだ。鼻歌を口ずさみながら、今日のメニューを選定し(ミオは非常に飽きっぽいため各種ブランドの缶詰を常備している)、愛用の缶切でこれまた愛用の食器に盛り付ける。確認するようにちょっと匂いを嗅いだ後、優雅に食べ始めるのを目を細めてしばし眺めてから、ようやく自分もテーブルに着くのが彼の日課だった。
 だが、その日は食事の時間になってもミオは姿を現さなかった。2年一緒に暮らしてきてこんなことは初めてだった。体調が悪くて食が進まないときでも、彼女が時間どおりに帰宅しないことなど一度もなかったのに……。
 朋也はいったん席に着いたものの、自分が先に箸をつける気にもなれず、母親の呼び声も無視して玄関を飛び出した。
 空はまだうっすらと明るかったが、どんよりと雲に覆われていた。星は1つも見えない。そういえば、予報で夜半過ぎには雨になるって言ってたな……。朋也は漠然と胸騒ぎを感じた。
「おーい、ミオーッ! もうとっくにご飯の時間過ぎたぞーっ!!」
 反応はない。今度は小声で庭に向かって囁いてみる。
「ほら、ミオ~、今夜はお前の大好きなプチプチ缶ゴールドだよ~。ついでにまたまた好物の煮干つきだよ~~。もひとつオマケにカニカマスティックまで奮発しちゃうぞ~~~♪」
 すぐにも塀の上か生垣の下からひょっこり顔を出し、バツが悪そうに、あるいは「何をそんなにあわててるの?」とすましたように、ヒゲの手入れでもしながらいつもより遅めの晩ご飯をねだってくるのではないか──と思ったが、やっぱり彼女は姿を現さなかった。
「ミオや~~い!!!」
 朋也が隣近所の庭先をのぞき見ながら彼女の名を呼んでいるところへ、夜の散歩に出ていた千里とジュディが帰ってきた。
「ワン!」
「あら……? どうしたの?」
「ミオが帰ってこない」
 意気消沈してうつむく朋也。
「そう……私たちが今通った道では会わなかったけど……」
 さっきケンカした時の台詞を思い出したのか、千里も気まずそうに視線を逸らす。
「まあきっと、いつもよりちょっと羽を伸ばしすぎただけだよ。じきに帰ってくるんじゃない? あんたもそんなとこボサッと突っ立ってると風邪引いちゃうよ? 行こ、ジュディ」
 千里はそう言うと、そそくさと朋也の前を過ぎて自分の家に入っていった。
「くうん」
 心ここにあらずといった体の朋也をジュディは心配そうに見上げたが、千里に呼ばれて彼女の後に続いた。
 次の瞬間にはもう、彼女たちのことは朋也の頭の中からすっぽり消えていた。声に出してミオを呼び、時々腰をかがめて物陰をうかがいながら、公園まで歩く。彼の足音が聞こえる範囲にいれば、一目散に駆けてきてもいいはずだ。車の下や電信柱の陰を一つずつ覗いてみたが、いたのはネコ違いの他猫だけで、彼女の気配はなかった。朋也が把握しているミオのテリトリーは家から約50メートルほどの範囲だ。バスの通るやや大きな道まで来て、彼は引き返した。もしかしたら今の間に家に戻ってるかもしれないと期待を抱きながら。
 しかし、家で彼を待っていたのは、手のつけられていない彼女の食器だけだった。
 親の愚痴を半分聞き流しながら、仕方なくすっかり冷めた晩ご飯を口に運ぶ。味がしない。こうしている間にもどこかでミオは俺が捜しに来るのを待っているかもしれない……と思うと、自分だけ先に食事にありつく気にはなれなかった。3分の1も食べないうちに、朋也は再び席を立った。
 同じコースを歩きながら、今度はさっきよりも念入りに辺りを調べる。道々、ミオが帰ってこない理由について朋也は思いを巡らせた。
イヌか他のネコにでも追われて高い木に登り、降りられなくなったとか? 彼女の場合、免疫があるのはジュディだけで、イヌ全般を許容しているわけではない。だが、その手のトラブルはこれまで一度も起きていないし、ミオが降りれない(あるいはSOSも聞こえない)ほど高い木もない。
もしかして、けがでもしたんだろうか? まさか車に!? しかし、彼女は自動車がどういうものかは判っているし、速度制限のある住宅街から外へ出ることもまず考えられなかった。
 事故や病気などの災難でなく、家出という可能性も考えられる。前者よりはるかにマシではあるが、心の中ではいちばん信じたくなかった。それでも、胸に手を当てて何か彼女の気に障るようなことをしなかったか思い返してみる。家具の配置は替えてない(彼女がそれしきのことで家出するとも思わなかったけど)、手を挙げた覚えもさらさらない、食事のメニューには細心の注意を払っている。干渉のしすぎだろうか? それとも、あまりかまってやらなかったから? 中間試験の所為でここんとこ遊ぶ時間が減っていたのは確かだが。千里とケンカしたこと? まさか、関係ないはずだ……。
 答えは出ない。結局、同じところを1時間、2周回った挙げ句、朋也は不安と焦燥に心をかき乱されながらも、いったん捜索を断念した。
 ラップのかけられた食べかけの食事に見向きもせず、2階の自分の部屋に上がる。親も掃除以外には立ち入らせない私空間。ミオはいつも当たり前のようにそこにいた。朋也のプライベートの内側に彼女はいた。マンガを読んでいても、音楽を聴いていても、宿題をやっていても、ふとミオに目がいく。そんなとき、彼女も必ず朋也を見返す。二人の視線が交わり、つい手が彼女の毛皮に伸びてしまう。幸せな時間。幸せな毎日。
 今、そのささやかな、当たり前の幸福を分かち合ってきたパートナーは、どこか彼の知れない、手の届かないところにいる。彼女と別れてから3時間と経っていないけれど、それでも朋也の心にはぽっかりと大きな風穴が開いたようだった──


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