もともと世界は1つ──エデンのみだった。そして、この世界の在り様を規定しているのが《アニムス》の力なのだという。彼女によれば、地球が生命の揺籃たり得たのも、これだけ生きものが多種多様な形態を備えているのも、決して偶然に拠るのではなく、このアニムスのおかげなのだった。
アニムスは3つ存在する。《紅玉》と、《碧玉》と、そして《蒼玉》と。《紅玉》:ルビーのアニムスは、進化・代謝・繁殖など生命の基本原理を司る。俺たちの世界でもお馴染みのものだ。《碧玉》:エメラルドのアニムスは、叡智に関わる性質を司る。具体的には魔法やP.E.など──こっちは朋也たちにはまったく縁がないものだったが。《蒼玉》:サファイアのアニムスについては、何の原理を司っているのか、マーヤたちにもわからないという。
アニムスの力は宝玉の形で封印されており、絶えず世界に作用を及ぼしている。3つのアニムスの力が互いに干渉し合いながら少しずつ世界に働きかけることで、バランスを保っている。このバランスが崩れて1つのアニムスが暴走したりすれば大変なことになる。下手をすると地球は他の惑星同様不毛の岩塊になりかねない。
3つの宝玉はそれぞれ《神獣》に護られている。いわばこの世界の神様にあたる存在であり、3つの力の象徴でもある。ルビーの守護神獣は神鳥フェニックス。エメラルドの守護神獣はマーヤが仕えているキマイラ。サファイアはそれを守護する神獣も、所在さえ誰も知らないらしい。誰も知らないのにどうしてあるって言えるのかと、思わず突っ込みたくもなるが。
エデンには世界を統べる3神獣のほかに、種族毎の守護神獣もいる。自然の進化の流れの中で一定のステージに達したスピシーズ=種族は、神獣の裁量により《成熟形態》に引き上げられ、エデンの文明社会の担い手となる。直立二足歩行、両手による道具使用、発達した大脳と抽象思考──これらはホモ=サピエンス1種が進化の過程で自ら獲得した形質ではなく、神獣のデザインした普遍的な生命の完成型なのだった。つまり、神獣に認められなければ、ヒトだってずっと草原のサルのままだったというわけだ……。
成熟形態になると、他にもいろいろ特典が付いた。後述の魔法が使えるようになるほか、魔法に近い効力を発揮する種族独自のスキルも身に付くようになる。各種の感覚・肉体能力も大幅にアップする。抵抗力も上がってちょっとやそっとの怪我や病気で死ぬことはなくなる。
要するに、エデンの社会は様々な種族によって構成される混成社会であり、それが本来の姿なのだった。この世界には暴力や差別という概念はない。1つの種族が中心となり建設された村や町もあるが、〝種境〟、〝種籍〟にあたるものはない。抑圧や束縛からも無縁だった。魂の自由と平安を約束された世界──全ての種族が分け隔てなく暮らすことのできる動物たちのユートピア──それがエデンだった。
エデンでは機械文明は発達しておらず(いわゆるローテクの手工業レベル)、パソコンもインターネットも、それどころか電話や自動車さえない。その代わり、魔法やP.E.=プラクティス・エフェクト(注)という大変便利な代物がある。
魔法とは、物理法則に則った手続きをすっ飛ばしてエネルギーをやり取りする手法のことらしい。といっても、朋也にはちんぷんかんぷんだけど。呪文1つで煮炊きや冷暖房のような日常的な用途もこなせるというんだから、これはやっぱり魔法としか呼びようがなかった。もっとも、魔法が本領を発揮するのは治癒など医療用途及び危険からの自衛だそうだが……。魔法使用の際は、鉱物の結晶の化学結合のエネルギーを直接抽きだすとかで、媒体として各種の鉱石を必要とし、精神力も消耗する。
P.E.(修練効果)のほうは、鍛錬によって道具が自己進化していく現象のことをいう。確かにそんなものがあれば、電力消費やら廃棄物やらといった負の側面もある文明の力に頼る必要などなくなるわけだ。ちなみに、朋也の傘と千里のスタンガンの変形もこのP.E.によるものらしい。危急の際など特殊な状況下では、P.E.の効果が極限まで発揮されるんだそうだ。実際、爪に変形した傘は折り畳み機能が強化されてポケットに収まるサイズにまで畳めてしまった。
この世界では種族間のコミュニケーションに通訳は必要なかった。原理はこれまた不明だが、メッセージ・キューイングといって、言語のインターフェースの役割は世界の側で担っており、発話者が伝達しようとする意思の内容:メッセージは、言語中枢から感覚器を経由して音声などに変換される前に固まり:キューとして取り出され、同様に聴覚器官などを通さず相手の言語中枢に直接受け渡されるようになっているそうだ(テレパシーのように心を読むのとはまた別である)。話者には同種間の会話とまったく変わりないように聞こえる。可聴域からボディ・ランゲージまでピンキリの種族の寄り合いで成り立っているエデンにおいては、確かに必要な機能だろう。それでも、なぜマーヤに「よーせー」の駄洒落がウケたのかは、朋也にはまったくの謎だったけど……。
また、エデンにのみ存在するマーヤたち妖精は、神獣の指揮のもと、基礎食糧の調達や静脈産業、医療や福祉など生活支援まで市民の生活を幅広くサポートしている。公務員みたいなもんか? ちなみに、もとが肉食の種族は彼女たちの供給する酵母の加工品を食べているとか。天候や政治情勢次第で飢饉が発生するリスクがまったくないのはうらやましい限りだ。
さて、ここまでがエデンに関する概略的な説明だが……エデンがユートピアだったのは、ある事件が起きる前までの話だ。その事件とは、紅玉を守護する神鳥フェニックスの殺害。下手人はニンゲン──
フェニックスはその名のとおり不死の身体を持ち、3神獣の中でも最強の存在だったという。獣の1種にすぎないはずのニンゲンが、一体どんな手口を使ってその神鳥を亡き者にしたのかは判明していない。実際には、神獣とはいっても彼らは生命体ではないので殺すことはできないはずだが、ともかく紅玉の守護者はもういない。3神獣のうち、サファイアは所在不明のため、現在はエメラルドの神獣キマイラが実質単独でエデンを執り仕切っていることになる。
フェニックスを排除した後、そのニンゲンたちはあろうことにもルビーの封印を解き放ってしまった。この世界から生命の灯を消し去るリスクを冒しながら、彼らは禁断の果実、紅い宝玉を手にした。エデンは2つに割れた──元から存在するエデン:《メタスフィア》と、ルビーのアニムスの暴走が生んだもう1つのエデン:《モノスフィア》とに。ニンゲンたちは新たな世界を手に入れたのである。今から170年前の出来事だ。
170年前に俺たちの世界ができたって? そんなバカな! と朋也は即座に疑問を差し挟んだが、2つの世界では時間の経過まで異なるというのがマーヤの説明だった。エデンの暦で170年の間、朋也たちの世界では4千年か7千年か、それくらいの時が流れたらしい。一概にモノスフィアの時間が十倍以上速いとはいえないらしいが。浦島太郎になるのはゴメンだと朋也は思った。
メタスフィアとモノスフィアはある時点で分岐した並行世界のようなものと思えばいい。モノスフィア:すなわち朋也たちの住んでいる世界は、ルビーの作用のみしか働かないため、魔法やP.E.は痕跡も含めて存在しない。魔法に慣れていた祖先は入植当初恐ろしく苦労したことだろう。一方で、エメラルドの神獣キマイラはモノスフィアに対して干渉することができなかった。神獣もおらず、ニンゲン以外の種族は成熟形態をとれない。
メタスフィアが神獣の指導のもとに多様な生命の調和で成り立つ世界なら、モノスフィアは単一の種族が我が物顔に君臨し、他の種族を支配する世界。同じ種族同士でさえいがみ合いや奪い合いが絶えない世界。それが朋也たちの見慣れた世界の実相だった。戦争、飢餓、環境破壊、暴力、差別──それらの課題は文明の進歩の過程で克服されていくものだと思っていたが、そもそもエデンには克服すべき課題など存在しなかった。そして、対等な市民同士だったはずの動物たちに対する口に言い表せないような横暴も──。
直接干渉できないにしても、彼らをニンゲンたちの手から救出する必要があると考えた神獣は、二つの世界の間にゲートを開通させた。そこから妖精を送り込んで難民を回収させたわけだ。ニュータウンの林で朋也たちが居合わせたのは、まさに脱出を図る避難民の一行だった。ゲートのモノスフィア側の開通口はどこに開くかわからず、数日しか安定させられない。ベスやトラたち行方不明になったイヌやネコたちは、妖精の手引きでこの世界へやってきたのだろう。そして、ミオも……。
動物たちはエデンにくると、神獣の加護を得て成熟形態をとることが可能になる。ただ、モノスフィアで前駆形態をとらされていたため、強い願望を持つか、自らの生命が危険に晒されたときしか変身はできないらしい。あるべき姿を取り戻すにしろ、そうでないにしろ、彼らは一定期間リハビリを受けた後、普通の市民として受け入れられ、先住者と等しい権利を与えられる。ちなみに、マーヤはこのリハビリを担当する妖精だ。朋也たちが雑木林で遭遇したのは彼女とは別の妖精らしい。
問題が生じたのはモノスフィアの側だけではなかった。ルビーの作用が急激に衰え、アニムスのバランスが崩れたメタスフィアにもその影響が次第に顕れてきた。その1つが《モンスター》である。もともとエデンにはそんなものはいなかったのだが、紅玉の喪失とともに不意に出現した。その出自はまったく不明だが、ニンゲンと何らかの関わりがあるのは間違いないとマーヤたちは考えている。
モンスターの姿は千差万別で、一見して動物と変わらないものもいる。が、それらには実体がなく、呼吸や摂食などの代謝も行わない。つまり生物じゃない。ただ、明確な意図をもって住民に襲いかかり、命を落とす者も後を立たなかった。時には死体に憑り依くこともある。体表に必ず人面疽を持つのが共通の特徴だ。確かに、それだけでもニンゲン/モノスフィアとの関係を疑わさせるが……。
そしてもう1つは、エデンの住人の心理面に訪れた微妙な変化だ。世界の管理者:神獣を抹殺する所業を為したのは、彼らと同じ動物の一派にすぎなかった。しかも、このエデン史上最悪の事件を引き起こした犯罪者の一味は、残る神獣も手を出せない、自分たちを中心に回る世界をこしらえてやりたい放題ときている。彼らの心に疑念や戸惑いが兆したとしても不思議はあるまい。
嫉妬や怠惰、傲慢、強欲といったニンゲンにはお馴染みの感情が、いつのまにか住民たちの心にも忍び寄っていた。それもあるいはモノスフィアの影響によるのかもしれない。いずれにしろ、エデンの牧歌的な平和は幕を閉じつつあった。まだ殺人までは起こっていないというが、妖精たちの間では治安維持の必要性についてまことしやかな議論が起きていた。
次第に凶悪化する傾向にあるモンスターにしろ、住民の間に蔓延する悪徳にしろ、このまま放置すれば、紅玉を失って不安定化したエデンに由々しき事態を招きかねない。神獣キマイラはエデンを危機から救う方法をあれこれ思索しているが、未だに有効な手立ては見つかっていないという──
ここまで2、3の質問を挟んで一気に説明すると、マーヤは大きく息を吐いた。
「ふひぃ~~、疲れたぁぁーー! 舌が回らなくなっちゃいましたぁ~~。あめんぼあかいなあえいおぉうぅ~~! ああ、まだちゃんと動くみたいぃ~。よかったぁ~♪」
彼女の場合いちいち語尾を伸ばす癖があるから、そりゃ余計に疲れるわな……。それでも口を開くのをやめる気はないらしい。妖精ってのはこんなにおしゃべりなもんなのかな?
「なんか研修生時代を思い出しちゃったぁ~。聴くのも苦労するけど、講義する側も大変なもんだねぇ~。さて、聴講生諸君、ちゃんとノートはとってたかなぁ~?」
(注):元ネタはデイヴィッド・ブリンのSF小説(タイトル同名)。ご都合設定ながら、RPGにつきもののアイテム経験値を説明する理論に使える。