誰かが朋也の顔をしきりになめている。
「ううん……。こら、よせよ、ミオ……まだ目覚まし鳴ってないだろ」
目覚まし時計をセットしていない日曜は、まだ布団に潜っていたいと思っていても、ミオが早く朝ごはんにしてよ~と起こしにくる。もう少し寝かせてくれとボヤキながらもつい起き上がって台所に向かってしまう、そんな朝も朋也にとっては幸せな時間だった。
でも、今日は日曜じゃないはずだし……なんだか舌も鼻息もいつものミオじゃない気がする……。顔に当たる空気は冷たいし、聞こえてくる小鳥のさえずりもやたら大きいような……?
彼がいつまで経っても起きないので、業を煮やしたジュディは前足をまともに朋也の鼻の上に乗っけた。
「フガ?」
目を開くと、黒い瞳で正面から顔をのぞき込んでいたのは、ミオより鼻と耳の長いグレーの毛並みの隣家の腕白娘だった。
「ジュディ、そんなお寝坊さんはほっときなさいよ」
千里の声。
ぼんやりする頭を振って起き上がる。夕べの出来事が次第に思い出されてきた。そうか、ここは……。
他の3人はもう寝袋を片付けて朝食の用意をしていた。いつもより寝覚めがすっきりしないのは、時差ぼけのせいだろう。大きく息を吸い込むと、森の中の清冽な空気が肺を満たし、ようやく1日の始まりを迎えた気分になった。
辺りの雰囲気は夕べとはガラリと変わっていた。一面を霧が覆っていたからだ。それも、ミルクのようなという比喩が決して大げさでないほど濃い霧だった。ゲート前の道を一歩踏み出ると一寸先も見えやしない。
夕べと同じエデンの非常食で朝ごしらえを済ませながら、千里がつぶやく。
「私たちが起きたときにはもうこんな調子だったのよね……」
明るさは十分だったが、腕を伸ばすと作者の書き忘れ状態になってしまうほどの濃霧では、モンスターに遭遇する危険は夜道と大差なさそうだった。だからといって、丸1日ここに閉じ込められたまま寝袋と非常食で過ごす気にはならない。
「日が高くなればきっと晴れ上がるよぉ~。あんまりグズグズしてると日暮れまでに街に着けなくなっちゃうしぃ、さっさと出発した方がいいと思うわぁ~」
「そうね。朋也、いつでも闘える準備はしときなさいよ?」
ゲートの格納庫にあった小さなバックパックを差し出しながら、千里が朋也に促す。幽霊同然のモンスターが相手といっても、戦闘はどうも気乗りがしなかった。体育の格技の授業のときも、宗教上の理由とか言い訳してサボりたかったくらいだ。彼女のほうはジュディを護るためならどんな敵でもかかってらっしゃいと言わんばかりだが(強化スタンガンの方が朋也の傘より使い勝手はよさそうだし)。
ちなみに、マーヤの装備は弓である。もとは木の枝と草の弦でこしらえた簡単なものだったろうが、P.E.のおかげでそれなりに威力がありそうだ。魔除けのコンパクトの効果がない以上、彼女も自衛の武器の点検を怠らなかった。
受け取ったバックパックにマーヤの保証付で分けてもらった非常食4人前2日分ほどを詰める。それから水の入ったペットボトル、あと医療品も少々(モンスターの毒にあたったときの治療に使うらしい)。マーヤは回復と治癒の魔法を使えるので(本人曰く超一流とのこと……まあ、動物たちのリハビリを職にしているなら腕前は確かなのだろう)、薬はそれほど心配しなくても済みそうだ。ただ残念ながら、お腹をいっぱいにする魔法というのはないらしい(回復の魔法は、筋肉中の乳酸を急速に分解して糖と酸素を直接送り込むものとか)。朋也としては、あまりモンスターにも出くわさず、道にも迷わずにすんなり森を出られるよう、祈るほかなかった。
「あれぇ~、おっかしいなぁ~?? ここの分かれ道は2つしかないはずなんだけど……」
3つめの分岐に来て、マーヤは腕組みをして考え込んでしまった。道は4つに分かれていた……。
「おいおい、君が迷ってどうすんだよ?」
富士の樹海ほどではないにしろ、1日がかりでないと抜けられないほど広い森で、しかも道は曲がりくねってところどころで分かれている。霧の所為で太陽はどっちの方角にあるかも見当がつかない。
朋也の祈りも虚しく、ゲートを後にしてからサイコロの目はどんどん悪い方向に転がっているように思われた。モンスターはほとんど曲がり角ごとに出現するし、霧も晴れるどころかますます深くなるばかりだ。
「ジュディの鼻で何とかならないか?」
「なるわけないでしょ!? 道を知らないんだから!」
千里が不機嫌そうに答える。
「たく、肝腎なときに役に立たないんだから」
「何ですってっ!?」
険悪になりかけた2人をなだめるように、マーヤが代案を提出した。
「ま、まあまあ。ともかく、このまま進んでも余計迷いかねないしぃ、ここはひとつ樹の精に助力をお願いしようと思うんだけどぉ~」
「へえ、エデンにはあなたたち妖精以外にも樹の精とかがいるの?」
「だったら最初っから頼めばいいじゃん」
朋也の指摘に、マーヤは頬を膨らませて言い返した。
「そんなにホイホイ引っ張り出すわけにいかないのよぉー。私たちは神獣様の下で働いてるけど、樹の精のマスターは神木だしぃ」
「神木? 樹がしゃべったりすんの? 大体、神獣が一番エライんじゃなかったのか? 夕べの話にはそんなの出てこなかったぞ?」
神って付くのがいっぱいいたりすると頭がこんがらかってくる。
「そんな単純な話じゃないんだったらぁー! 言ってなかったけど、ここはクレメインの森っていってねぇ~、世界の創めから存在したと言われるくらい古くからある、由緒ある特別な森なのよぉ~」
地球ができる前に森があったなんておかしいじゃん、と突っ込もうかと思ったが、とりあえず話の腰を折るのはやめておく。
「で、森の中心には森そのものと同じくらい昔から生えている大きな樹があって、神木って呼ばれてるのよぉ~。森の外のことには一切関与しないけど、この森の生態系の管理については神木が仕切っていて、キマイラ様もあまりタッチしないのぉ~」
「ややこしいな。どうしてゲートはその森の中にあるんだ?」
「鋭いとこ突くわねぇ~。詳しく聞いてないけどぉ、アニムスとの相対的な位置関係の都合でここが最適なんだってぇ~。ゲートの設置にあたっては、神獣様が神木と直接交渉したみたいぃ。動物種族の不始末の所為でモンスターやら何やら迷惑してるっていうんで、いろいろ交換条件を飲まされたって話よぉ~。まあ、マスター同士の話だから、あたしたちには関係ないけどねぇ~♪」
不始末をしでかした当の種族の一員としては、墓穴を掘ることになるのでそれ以上訊かないでおく。ともかく、神獣の従者としてはあまり世話になるわけにはいかないってことか。
「で、その神木の従者が樹の精ってわけね?」
「そういうことぉ~」
「その樹の精ってのは、君と同じくらい──」