「きれいなもんだから、つい……」
「何がよ?」
「何がって、この木が、さ」
フィルの登場にはもちろん気づいていたが、朋也の目はさっきから神木に釘付けになっていた。特撮やアニメの中でしかお目にかかれないような巨木だが、この木は確かに生きている。
「そういや、千里、覚えてるか? 中学の遠足で奥多摩に行ったことがあったろ?」
急に話を振られた千里は戸惑ったように返事をした。
「へ? 何の話よ?」
「俺だけみんなからはぐれて道に迷っちゃってさ。あの時も急に霧が出てきて、右も左もわからなくなって、しょうがなく闇雲に歩いてたら、いきなり視界が開けて、そこに大きな木が立ってたんだよ。あれはミズナラだったと思うけど。自分がどこにいるかも、家に帰れるのかさえわからなかったのに、その木のそばにいるだけで不思議と気分が落ち着いたんだよな……」
それはちょうど新緑の頃で、霧の雫をたっぷり含んだ葉が時折差し込む陽の光に映えるさまを、朋也は言葉もなくただぼおっとながめていたのだった。遠足の時のことは他には何も覚えていないが、その光景だけはずっと瞼の裏に焼きついている。
「その時のイメージとちょっと似てたもんだからね……。もちろん、スケールは段違いだけど」
「あっ、私も思い出した! あの時、みんな山頂で待ってたのに朋也だけいつまでたっても来なくてさ。やっと着いたのはお弁当も済んで山を降りかけた頃でしょ? 後で先生にたっぷり絞られてたよね」
「そ、そうだったっけ?」
「ふ~ん……」
朋也には別にやましいところなど微塵もなかったのだが、千里は値踏みでもするように彼の顔をのぞきこんだ。
「なぁんかアヤシイ気もするけど……。ま、そういうことにしといたげるわ」
フィルが朋也に向かって微笑みかける。
「……きっと、あなたはその森の樹々に受け入れられたのに違いありませんわ。心安らかに緑と接することのできる者を、私たちはいつでも歓迎しましょう」
初対面であるにも関わらず、彼女の表情はとても柔らかくなったように見えた。ふと朋也は、神木を背にした彼女がこの森の風景に完璧に溶け込んでいるのに気づいた。どんな美少女だろうと年旧りた巨木と並んで立てばミスマッチの感は拭えなかろうが、彼女は森の中にいておよそ違和感を感じない。会うまではどんな姿か想像もつかなかったが、彼女こそはまさしく樹の精だと合点がいった。
そうこうするうちに、マーヤとフィルとの交渉が始まる。
「ご無沙汰しております。エメラルドの守護神獣キマイラの従者マーヤ」
「本当に久しぶりねぇー♪ 調子はどうぉ~?」
なんともちぐはぐな会話だ。成立すること自体不思議な気がする。容姿もさることながら、マーヤと対照的にフィルはとても丁寧な物腰だ。自分のことを指して私と言ったり。
「こっちの2人はヒト族の朋也と千里、この子はイヌ族のジュディよぉ」
「皆さん、はじめまして。私はこのクレメインの森のメッセンジャーを務めるフィルと申します」
フィルは深々とお辞儀すると、あらためてしげしげと朋也と千里を見やった。目の前にいる二人がニンゲンの一族だと知って驚いた様子だ。やがて、あまり長く見つめ続けて礼に失したのを詫びるように、もう一度頭を下げて弁解する。
「すみません、私……ヒト族の方にお目にかかるのは初めてなもので」
「あたしもじかに見るのは初めてだったけどねぇー。3人とも事故でゲートからこっちにやってきちゃったんだぁ~。次の接触までビスタに滞在してもらおうと思うんだけどぉ、この霧で街に降りられなくなっちゃったのよねぇ~。で、フィルに何とかしてもらおうと思って呼んだんだけどぉー」
「そうですか……」
フィルはちょっと困惑したような顔をした。
「お力になりたいのは山々なのですが……実はこの森はいま少々困った事態になっているのです。モンスター化したアリが増殖して、木々の幹や枝葉を食い荒らしているもので……。本来ならば私が対処しなければならないのですが、森全体の生命力が衰えてしまっているため、そのエネルギーをもらっている私としては、これ以上の拡大を食い止めるのが精一杯なのです。ですから、森の気象を調節するだけの余力はありません。神木の周囲の霧を解消するのがやっと……」
本題と関係ないが、少し眉根を寄せて指を噛む仕草は、樹の精といってもすごくニンゲンらしく、朋也はまたしても彼女に見惚れてしまった。感情表現は種族に拠らず成熟形態に共通の仕様だから、むしろ動物らしいというのが正解なんだろうが。
「──本来ならばアリたちは、虫の数を適度に保ったり、落葉や朽木を処理してくれる、樹木の健康にとって欠かせない存在なのですが……」
「アリがモンスター化してるってのはどういうこと?」
「憑依型のモンスターのようねぇー。アリの遺骸を媒体にしてるんだと思うわぁー。でもぉ、森の樹木を攻撃するなんて初めて聞くタイプねぇー……」
マーヤが首をかしげる。モンスターも〝進化〟するんだろうか? 朋也はまたぞろミオの安否が気になりだした。
「ねえ、アリってどこにいるの? 私たち、ここに来るまでいくつかモンスターに出くわしたけど、それっぽいのはいなかったわよ?」
フィルは頭上を振り仰ぐと指を指した。頭上20メートル以上の高さに張り巡らされた神木の枝だ。朋也と千里も彼女の指の示す方にじっと目を凝らすと、確かに何かがちらちらと枝の上を見え隠れしている。よく見るとかなりの数だ。
「うひゃあぁ~っ、なにぃ!? ウジャウジャしてるじゃなぁい!」
「なんで神木に集中してるわけ? 大丈夫なの?」
「ほかの木々ではアリの食害に耐えられないため、被害を抑えるためにわざと神木からアリの好む化学物質を放出して誘き寄せているのです」
へえ、木の神様ってそんなことができるのか? 森の木々たちを護るために自分の身を犠牲にするなんて、威厳を感じるのはやっぱり見た目だけじゃないな──と、朋也はいたく感心した。
「後は直接駆除できればいいのですが、私の活力が神木の生命力と直結しているものですから……」
なるほど、そういうことか。だったら──
「だったら、私たちで退治しちゃいましょうよ! このままじゃ、この木があんまりかわいそうだわ」
千里の方が結論に達するのが早かった。
「じゃあ、ここはあたしがぁー♪」
自分の出番とばかりマーヤがふわりと舞い上がる。こういう時には羽があるのはとても便利だよな。それにしても……前から疑問に思ってたのだが、あんな悠長な羽ばたき方でどうして浮いていられるんだろう? ハチドリだってホバリングするのに秒速数十回もの高速で羽根を動かしてるのに。彼女の体重はネコくらいはありそうだがなあ? そう思いつつ見上げていると、彼女がげんなりして戻ってきた。
「駄目だぁ~。あのアリ、外骨格が硬くてあたしの弓じゃあびくともしないよぉ~~」
何か妙案はないかとみんなで腕組みをして考えるが、みななかなか思いつかない。
しばらくしておもむろに千里が口を開いた。命令口調だ。
「朋也、あんたが登んなさい」
「ええっ!? 俺が!?」
「あんたは上でアリたちを蹴落としてらっしゃい。後は私とジュディで落ちてきたのを始末するから」
千里らしい即断即決だが、1人で危険な任務を引き受けることになる身にとってはたまったものではない。朋也は樹上を振り仰いでごくりと生唾を飲み込んだ。
ちょっと待て、上まで何メートルあると思ってるんだ!? 千里に視線を戻す。
「朋也くん、優し~い♥」
戦法を替えてきた。
「朋也くん、やぁさし~いぃ~♥」
こいつら……。
「ワォン♥」
なんでお前まで!?
さあ、どうしよう??