クレメインの森は広大なうえに起伏も結構激しい森だった。その意味では、欧州などの森より日本の山間部の森に近いかもしれない。ところどころに沢や崖があり、森の中の道はそれらを迂回するように曲がりくねっている。道には森の中を外側に向かって螺旋状に伸びていくものと、中心から外へ放射状に真っすぐ走っているものとがあり、ところどころで両者が交差している。要するに、方向音痴だと著しく迷いやすかった。さすがにフィルはこの森の管理人だけあって、分岐があっても戸惑うことなく一行を導いてくれたが。
朋也たちの世界だったら開発禁止の保護区に指定されてもおかしくない(と思いたい)原生林のクレメインに、縦横に道路が巡っているのはエデンらしくない気もする。だが、マーヤによれば、これらの道はもちろんブルドーザーで強引に伐り拓いたのではなく、P.E.の効果によるものだという。つまり、元をただせば獣道同然だったのだ。それに、エデンにはそもそも自動車がないため、森の動物が横断しようとして事故に遭う心配もないし、土壌や植生への影響にも配慮されているとのことだった。
今までのところ、住人には1人も出会わなかった。朋也としては、一度くらい成熟形態になった動物の住民にお目にかかりたいと思っていたのだが。そうすれば、ミオと出会う前に心の準備もできようというものだ。クレメインにはゲート以外の施設はなく、レクリエーションないしリハビリの目的以外では訪れる者はほとんどいないという。しかも、モンスターのおかげでそうした訪問者も以前より減少してしまった。ただし、ゲートが開通するときは一時的に人口が増大するとのこと。いずれの場合でも、動物の住民にガイドを要請されたときに対応するのが樹の精フィルの役目の1つだった。
霧が晴れてもモンスターの出現頻度は変わらなかった。ちなみにフィルの装備は杖である。専ら後方でバックアップに務め、振り回すことはまずなかったけど。
マーヤとフィルには言わなかったものの、一部のモンスターの正体、あるいはその出自に、朋也と千里は薄々感づき始めた。それらの容姿が2人にモノスフィアのある物事を想起させるのだ。そもそもどうして170年前の事件以後、モンスターが突如として出現した理由については謎のままだが。
あるものは外観がイタチにそっくりだった──人面疽と、巨大な鉄の口の付いた片足を除いては。そいつはその〝口〟で襲いかかってくるのだ。あるときは仔猫様のモンスターに出くわした。そいつはパックリ開いた頭蓋骨から脳みそを投げつけてくるのだった。さすがにそのときは朋也と千里はたちまち戦意を失い、後はマーヤとフィルに任せきりだった。幸い、そいつは臆病なモンスターですぐに姿をくらましたのだが。吐気を催して頭を抱える2人を介抱しながら、マーヤたちは首を傾げるばかりだった──ネコに似てるのが原因だろうとは思ったが。もちろん、二人がショックを受けた理由はそれだけではなかったのだけど……。そして、二人ともそのことをエデンの友人たちに打ち明ける気にはとてもならなかった。
日はすでに西に傾き始めていた。アリ退治に手間取って、森の中心にある神木前の広場を出たのがやっと正午前だった所為もある。フィルは最短ルートを選んでくれたし、モンスターの相手をするのもなるべく避けたが、まだ明るいうちに森の外へ出られるかどうかは心もとなかった。
露頭が続く斜面を過ぎると、その向こうに深い渓谷が出現した。底の方に銀色の光の筋が見える。一行は険しい斜面を這う道を慎重に進んだ。
「ジュディ、足元に気をつけてね?」
「ワン!」
こういう状況で、指示を聞いてはっきり返事をくれるのは実にありがたいことだった。ジュディは別に盲導犬、警察犬等の職業訓練を受けているわけではない。千里は体に覚えさせるような厳しい躾はしてこなかった。イヌに対しては甘やかしすぎの部類かもしれない。ジュディはいい子だけど、時折悪戯をやらかしたり駄々をこねたりして、千里を困らせたり心配をかけることもある。
とはいえ、徹底した管理教育を受けた挙句、親元を引き離され、道具として一生ニンゲンに奉仕するのが幸せと呼べるのか、朋也にはわからなかった。職業選択の自由はそもそも彼らにはない。もちろん、彼らはとても大切にされているほうだろう。社会の、人々の福祉に役立っているのも間違いないだろう。誰もそのことに疑問は抱かない。
だが、その言い訳はこのエデンの〝人々〟に通用するだろうか? 動物であるヒトが、他の動物と自分たちとの間に線を引き、その動物たちに対する扱いを自らに認めているのは、自分たちが他の動物たちとは異なる理性的な存在だという理由からだ。だが、もし……ヒトがヒトだけの特質だと思っているもの、理性やら文明を担う能力といったものが、実は自ら会得したものではなく、ヒトだけのものでさえないとしたら?? この世界で真実を知ってしまうと、朋也はついそんなことを考えてしまうのだった。
マーヤやフィルが当たり前に受け入れた千里とジュディの2人の関係が、実はモノスフィアでは当たり前じゃないことを彼女たちが知ったらどう思うだろう? 朋也自身、向こうでは意識しなかったのだけど。イヌ派を自認するヒトも、リーダー制のイヌ社会では上下関係が全てであるかのように考えるヒトが多い。流行りの飼育マニュアル本には「反抗を許さず絶対服従させろ」とまで書いてあったり、権勢症候群などといって、家族の中でニンゲンより自分を上位に見ることを病気扱いしたり。
ジュディは確かに、千里を自分より上位に位置付けてはいるのだろう。だが、2人の関係は決して序列の一言で終わるものじゃない。彼女はいま、エデンで力を手にする自由ではなく、千里とともに行動するほうを、自らの意志で選択しているのだ。それはまぎれもない事実だった。
しばらく進むと、向こう岸へ渡る吊り橋が見えてきた。こうした橋の類はさすがにP.E.でいつの間にか仕上がるということはなく、妖精たちが最初に架け渡したようだ。フィル曰く、もう行程の3分の2を過ぎたが、日暮れまでに森の外へ抜けるにはこの吊り橋を渡るルートしかないという。
「ジュディは怖がんないかな?」
千里に話しかけたつもりだったが、彼女が口を開く前に本人が不機嫌そうにうなった。バカにするなと言わんばかりに。
「ウフフ、大丈夫みたいね」
一行がまさに吊り橋を進み始めたときだった。ジュディが足を止め、低い唸り声を上げる。モンスターか? みなでその場に留まり、辺りを見回しながら耳を澄ます。すると、谷底に流れるせせらぎの音に混じって、前の方から誰かのブツブツ言う話し声が聞こえてきた──