フィルにとっても自分にとっても大切な神木と森を護ることができた達成感はあったが、傘を握り締めた手に残った疲労感とともに後味の悪さも拭い去れなかった。空洞の入口の前には両手で掬えるほどのアリの死骸が積み上がっている。自分が殺したわけじゃないのはわかっているんだが……。それでも、今しがた片付けた作業の不快感が、そしてそれに自分が慣れてしまうことが、朋也は嫌だった。
あらためて空洞中を覆い尽くす無数の卵を見やる。巨大なモンスターの女王の産卵現場は吐気を催すほどグロテスクに見えたが、ペペの緑の光にうっすらと照らし出されたそれらは、何の変哲もないアリの卵にすぎなかった。社会性昆虫である彼らは、幼虫の世話をする働きアリの手助けがなければおそらく育つことができず、大半が死滅してしまうだろう。仮に生き残れるとしても、兄弟の卵を糧とすることになるだろう。もしかしたら、またモンスターの供給源を増やすだけなのかもしれない。あらゆる生きものにとって過酷な自然というのは、自ら生き残ろうとする強い意志と、運と、ちょっとした誰かの思いやりがあって、初めて生きていけるものなのだと思う。非合理な感情だということはわかっているが、自然の掟に成り代わって自らが殺しの役を買って出るのが正しいことだとは、彼には思えなかった。
「……ねえ、フィル。これ、ほっといたら神木怒るかな?」
「女王アリにモンスターが憑依した経緯は調査する必要があるでしょうが、少なくとも、次の女王が育つまで当面は被害が拡大することはないと思います」
「じゃあ、しばらく様子を見ることにしないか?」
「それは構いませんが……どうなされたのですか?」
フィルの返事にホッと胸をなで下ろした朋也の様子に、首をかしげて彼女が尋ねた。
「うん……なんか、たくさん退治したんで気が滅入っちゃったよ。さっきのデカイのだって、本当はただの母親にすぎなかったんだもんな。繁殖率高いんだからアリに同情してもしょうがないんだろうけどさ、モンスター化したのが俺たちニンゲンの所為なら、やっぱりこれ以上殺すのは気がひけるんだ。フィルが前言ってたように、本当は森の一員として大切な役目を担ってたんだもんな。君たちにとっちゃ自分たちを食べる怖い敵なのかもしれないけど……」
「覚えてらしたんですね。そう、確かにアリやシロアリたちは私たち木々にとっては恐ろしい敵といえます。でも、森にとって欠かせない存在でもありますからね。巨木がこうして立っていられるのは、私たちの細胞壁を構成するリグニンのおかげです。ですが、リグニンはそのままでは腐らず他の生物が再利用することはできません。アリたちやその腸内に棲む微生物の分泌する蟻酸がリグニンを分解してくれるおかげで、森林の生態系の循環が保たれているんです」
「なるほど……君にそう言って太鼓判を押してもらえると気が休まるよ。ありがとう、フィル! それじゃ、引き揚げようか」
「ええ」
外に顔を出すと、アリを残らずやっつけている間に日はすっかり西に傾きかけていた。道理で腹ぺこなわけだ。穴ぼこだらけになった広場は、妖精たちにでも手伝ってもらわないと元通りにはならないだろう。
振り返って神木の梢を見上げる。見た目には変わりないはずだが、心なしか元気を取り戻したように見える。風に枝が揺られて、かすかにサラサラと葉擦れの音を奏でた。
「神木もひょっとして喜んでるのかな?」
「フフ……あなたにお礼がしたいそうですよ?」
不意に強烈な緑の光が広場中にあふれる。思わず閉じた瞼をうっすらと開けてみると、驚いたことに光の中に緑の髪をした美しい裸身の女性が現れ、朋也に向かってにっこりと微笑んだ。ちょっとフィルに似ている気がする。唖然として見ているうちに、彼女の姿は消えた。と、全身が温かい力に包み込まれるのを感じる。
「彼女は私たち樹族の守護神ゴールドベリです。神木の分身と思ってください。今後はより直接的に私たちに力を貸してくれることになりました。召喚魔法は今後の戦闘において貴重な戦力となってくれるはずですわ。それから──」
フィルはおもむろに杖を取り出して彼に差し出した。
「これを……」
朋也は受け取ってその杖をながめてみた。ゴツゴツと節くれだったその杖は、よく見ると神木の樹皮そっくりだった。
「これって、もしかして神木の枝そのものなんじゃないのか!? 俺なんかが受け取っていいのかな?」
「ええ。朋也さんに役立てて欲しいと」
「そっか……。それじゃ、ありがたくいただくことにするよ。ありがとう、神木!」
巨木に向かって杖を振ってみせる。知覚は化学的情報に限られてるというから、礼を言われてもわかんないだろうけど……。
フィルは畏まって朋也に向き直った。
「朋也さん……。1度のみならず2度までも神木を危機から救っていただいて、本当にお礼の言葉もありません。残念ながら、私からは差し上げられるものが何もなくて、本当に心苦しいのですが……」
フィルの次の言葉を待っていると、不意に神木の広場の出口の方から声が聞こえた。
「ちょっと、あんたたち! こんニャところで何油売ってんのよ!?」
ミオの声だった。びっくりして瞼を開くと、広場をこっちに向かって歩いてくる3人の姿が目に入った。
「なんだ、みんなも応援に来てくれたのか? 悪いけど、もう──」
「ニャンであたいがあんたたちを〝応援〟しニャきゃいけニャイのよ!?」
「ホントだよ! ご主人サマが捕まってるっていうのに、こんなとこで2人でイチャイチャしちゃってさ!」
2人とも腕組みしてこちらをにらみつける。クルルもうんうんとうなずいている。
「おいおい。お前たち、フィルの書置きを読んでここへ来たんじゃないのか?」
フィルがそこでハッとして両手を口に当てる。
「!! ごめんなさい、朋也さん。私、気が動転していて、『2人でクレメインに行きます』とだけ記して肝腎の理由を書くのを忘れてしまいました……」
「そ、そっか……。まあ、それじゃ誤解されても仕方ないか」
フィルでもドジを踏むことがあるとわ……。
「ともかく、俺たち別に遊んでたわけじゃなくて、神木がアリに襲われて大変だったんだぜ?」
「あら、そうだったの? ふうん……」
ミオは目をすがめて怪しむように朋也を見た。
「でも、ニャ~ンか2人の雰囲気、かニャりアヤシイ気がするニャ~……」