『化け猫』解説
このお話は半分ノンフィクションです。
モデルは私の第1仔です。写真は怪我がだいぶよくなった時のもの。
当時在学中だった私は、別に毎日のご飯をあげるわけでもなく、1、2ヶ月に一度帰省した際に薬を塗布するだけの役回りで、獣医と同じく「痛いコトばかりするイヤなヤツ」のはずでした。それでも、ブラリと散歩や買い物に出かけようとすると、トコトコと後ろをついてくるような、実に不思議な子だったのです。
最初、「こりゃ医者に連れてかにゃならん」とケージを用意したのですが、中に入れると暴れて傷に触るため断念。ところが、ケージから再び外に出した途端おとなしくなり、そばから離れようともしませんでした。それが、出会ってからほんの数日のこと。各地で行われている手術目的の地域ネコ活動では、餌やりを1、2ヶ月続けてもなかなか警戒心を解けないため、罠(餌入りケージ)を仕掛けて強制捕獲というのが専らのパターン。この子の場合、少なくとも一度はヒトに扶養われていた経歴があったのでしょうけれども。
怪我の真相の方は今もって謎のままです。ヒト、イヌ、他ネコのいずれに対しても、特にトラウマを抱える様子はありません。交通事故であれば、五体の他の部分にまったく故障がないのは不自然ですし。頭蓋が大きく破損して眼球が陥没する相当の重傷となれば、やはりニンゲンの関与を抜きには考えられないことですが。
それから4年ほどはほぼ健康に日常生活を送れていましたが、最初の手術のミスが原因で容態が悪化。いい獣医を求めて5件ハシゴし、2つ県境を越えましたが、結局助けることができませんでした。愛した土地で死なせてやれなかったのが、ずっと心残りです。
悪徳獣医、技術の未熟な獣医が世に多いのも事実です。一方で、いくら優秀で真摯な医師であったとしても、1種類のドウブツの特定の診療科目に専門領域が限られるニンゲンの医療と異なり、ゼネラリストであることを求められる獣医療の方が、能力的な負担がはるかに大きいこともまた否めません。ことヒト以外の家族の健康問題に関しては、近場でなるべくいい病院をキープしたうえで、さらにセカンド、サードオピニオンも押える必要を痛感します。
私が立場上完全に保護できなかった事情もあり、この子は外ネコとして暮らしていました。確かに、完全に温室状態で庇護していれば、もう少し寿命も延びたかもしれません。
ただひとつはっきりと言えるのは、この子は完全に自由だったということです。
それは、自分のステータスや体裁を守るために他人を平気でだまし利用する、醜く身勝手なニンゲンのワガママや責任逃れではない、正真正銘の、本物の自由でした。
この子の人(猫)脈もあって、当時うちの車庫の上はいわゆる「集会場」に指定され、ご飯どき以外でも近所の子たちがしょっちゅう集まってきていました。私も参加する栄誉に与り、車座になってまったりとした時間を一緒に過ごしたものです。それは至福のひとときでした。こんな無様な顔でしたが、ガールフレンドもでき、体格のでかい黒トラや赤トラの子と張り合ったり。こっちにも混じって、ふだんはなつかない黒トラに女の子を人質にしてアイアンクローをかましたりして遊んでたっけニャ〜・・。(なお、不妊去勢のトラブルと問題についてはトピックスコーナーをご参照)
日差しを感じ、風を感じ、猛暑の夏には日陰を求め、嵐の日には雨を避けながら流れる黒雲を見つめ、凍える雪の日には寒さに身を寄せ合い、夜は時を忘れるまで星空を見上げ、春の季節には女のコ(ネコ)の声音と態度の変化やライバルのあげる鬨の声に胸をざわめかせたり──そうしたごく自然な、まっとうな生を送るネコたちと、ともに過ごした日々。ほんのささやかな一部とはいえ、彼らと共有した自由な時間と空間こそ、私にとって永遠の宝物でした。
リアルなつきあいの中で彼らが教えてくれたのは、たったひとつの、たった一度きりの、かけがえのない命の輝きでした。
それに比べ、空疎なコトバでなしに現実のニンゲン社会から私が学び取ったのは、つまらないこと、愚かしいこと、反面教師にしかならないことばかりだったように思えます。結局のところ、人生の中で最も大切なことはみな、学校でも職場でも血縁者でもなく、ネコや犬やフェレット、野生動物たちに教わったといっても過言ではありません。
他の誰からも、イヌやネコたちと共有した時間以上の幸福を受け取った記憶が、私にはありません。その半分、いや、十分の一すらも。まあ、犬や猫たちの(生きた)毛皮に顔を埋めているだけで脳内エンドルフィンが一番大量に放出されるタイプなので、世間からズレてるのは間違いなく私の方なんでしょうけどね・・・
しかし……果たして私たちは自らの築いた文明からどれだけの恩恵を得たでしょうか? 万物の霊長を自称するニンゲンが、自身を定義付けるためにもったいぶって理性だの知性だのと名づけた能力でもって、築き上げた今日の文明社会ですが、代償として途方もない数の命(ヒト含む)を貪り、自然の豊かさを奪ってきた割には、崇高な理性や知性などとはおよそ呼べない、単純素朴な生活の利便性や、味覚をはじめ原始的な爬虫類脳的欲求を満たすことばかりに、膨大なエネルギーが注ぎ込まれてこなかったでしょうか。低俗な欲望を満たすどころか、更に煽って渇きを募らせるのがオチだったのではないでしょうか。
自分たちには自然を予測しコントロールする科学技術/「知恵」があると自惚れ、湯水のように電気を使う放蕩生活を追い求めた挙げ句、その自然に手痛いしっぺ返しを食らったのが、今回の福島第一原発事故だったのではないでしょうか──?
この子はいま、愛した土地の土の下で眠っています。その後に来た子たちは、転々としてきたもらい子なので、骨壷と肌身離さず着けているネックレスのお守りの中に入っています。私の魂はすべて、彼らのそば、彼らとすごした時間とともにあります。
本作はなにぶん昔のアナログ作品なもので、トーンがだいぶ潰れてしまいました。効果線をここまで丁寧に入れる気力は今の私にはありません。。私に画才があればもうちっとマシな代物になったんですが、芸術の素質ばかりは持って生まれたものがすべてなので・・残念(--;;