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2 ミオが家出!?




 ホームルームの時間が終わるが早いか、悠美は美由たちへのあいさつもそこそこに、かばんをひっつかんで教室を飛び出してしまった。よっぽどジェイクの様子が気になるんだろう。あいつの帰宅が早いのはいつものことだけど。
 事情を知らない連中には、あいつが成績もいいだけに、塾にでも通ってるんだろうと思われがちだが、そうじゃない。いつもの日課、午後の散歩があるためだ。登校前に一時間、下校後に一時間、さらに寝る前に三〇分。これが悠美とジェイクの一日の散歩メニュー。大型犬は高い運動量を必要とするので、決して多すぎじゃないらしいが。
 俺はいつも、悠美が教室を出たあと、一〇分かそこら時間をつぶしてから、校門をくぐることにしている。中学に入るまでは、二人でランドセルを並べて学校へ通っていた。方向が一緒だし、あのころは生徒が少なくて近所にほかの同級生がいなかったから、仕方なかったんだけどね。
 大体あいつの話すことといえば、八割方ジェイクのことと相場が決まってる。そうすると、こっちもミオの顔を立てないわけにはいかない。双方の自慢話がこうじてケンカに発展することもしばしばだった。別々に帰るようになって正解だ。
 学校をはさんで駅と住宅地区とをまっすぐ結ぶ緑道を歩きながら、悠美のことなんか忘れて今夜のことを考える。昨日は予報で雲が多いと言ってたから、桜庭たちもヤキモキしていたが、いま空にはほとんど雲もなく、絶好の観測日和といえた。
 ただ、俺が気になったのは、天気のことよりイヌネコたちの〝合唱〟と彗星との関連のほうだった。
 二つの間には何らかのつながりがある──そう俺に教えてくれたのは、ほかでもないミオだ。
 例の合唱が始まったとき、彼女は同類みたいに鳴き騒いだりせず、興奮した様子さえなかった。ただ、車庫の屋根の上に登ると、まるで何かを待ちわびるかのようにじっとながめたんだ──彗星を。
 以来、俺の感じる胸騒ぎは日増しに高まる一方だった。最接近を迎える今夜、きっと地球で何かが起こる……そんな予感がしてならない。
 俺も早くミオの顔が見たくなって、家に向かう足を速めた。
 自宅から五〇メートルほど離れたところには公園がある。たいてい、その角を曲がる辺りに来ると、俺の足音を聞きつけて、隣の生垣や、あるいは車の陰から、ミオがひょっこりと顔を出してすり寄ってくる。俺にとっては、終業のチャイムが鳴ったとき以上に安らぎを感じるひとときだ。
 でも、今日に限って、家の門にたどりついても彼女はまだ姿を見せなかった。
 リビングをのぞいたが、やっぱりいない。二階の俺の部屋にも。器の中のカリカリは朝出たときのままだ。おかしいな……。
 ミオはこれまで、学校がある日には〝お出迎えの儀式〟を一日だって欠かしたことはなかった。予定外の早退や帰りが用事で遅くなったときだって、タイミングぴったりに登場する。まるで俺のスケジュールを分刻みできっちり把握してるみたいに。
 かばんを机の下に放り、ベッドの上に身を投げ出す。
 大丈夫、ミオのことだ。ちょっと道草を食ってるだけで、じきに何食わぬ顔で帰ってくるだろう──そう自分に言い聞かせるものの、不安は募る一方だった。
 俺は再びガバッとはね起きて玄関に降りると、シューズをつっかけ戸外に出た。
 時刻は午後四時すぎ。西の空はそろそろ茜色に染まりかけていた。とりあえず、わが家を中心にミオのテリトリーを見て回ることにする。ときどき声に出して彼女の名前を呼びながら、足を止め、ベンチの陰や、茂みの中や、車の下をのぞきこむ。でも、見つかったのはネコ違いの他猫(たにん)だけだ。
 二時間かけて、三つの公園を中心にミオが行きそうな場所はほとんど調べたが、彼女は見つからなかった。これだけ探してもいないってことは……そうだ、きっと行き違いになって、いまごろ家に戻ってるに違いない。
 けれど、家で俺を待っていたのは、手のつけられていない彼女の食器だけだった。
「大樹、もう晩ご飯にするわよ」
 台所から呼ぶ母親の声を背中ごしに聞き流しながら、懐中電灯を片手に再びとって返す。外はほとんど真っ暗だった。
 道路に下りたとき、近くでカチャンと門の開く音がした。路上に人影が見える。悠美だ。
「どうしたの、ヒロ? なんかあわててるみたい」
 小首をかしげて俺のほうを見る。正直に打ち明けるのも気が引けて、俺は話題をそらした。
「散歩はもう行ったの?」
「うん、行ってきたよ。体調が戻るまでは少しゆっくり、短めにしないとね」
「そっか」
「観測会? 準備でも手伝うの? それにしても、まだずいぶん早い気がするけど……」
 ……いや、やっぱり躊躇してる場合じゃないや。
「ミオが家に戻ってないんだ。彗星どころじゃない」
「ええ!?」
 とたんに気づかわしげな表情になる。
「お前、見てないよな?」
「うん、散歩でも会ってないけど……」
「そっか……」
 気もそぞろにその場を離れようとした俺の背中に、悠美が声をかけてきた。
「私も一緒に探そっか? ジェイクが元気なら、あの子にも手伝ってもらえたんだけど」
 悠美の言葉が、いまは素直にうれしかった。
「いいよ。お前はジェイクのそばにいてやんな。そのために桜庭の誘い蹴ったんだろ?」
 そう言ってもう一度歩き出そうとしたとき、静寂に包まれた街のあちこちから「ウォォーン」という低い遠吠えが聞こえ始めた。これまでの晩よりずっと早い。
 互いの声に呼応し合うように、イヌたちは次々と声を重ね合わせていく。最初、小さくまばらだった遠吠えは、時間がたつにつれて次第に一つの歌声になる。その重苦しさが、俺にはまるで葬送曲みたいに聞こえた。
 と、家の中から「クウン」という苦しげなうめき声がした。
「ごめん、ヒロ。私、あの子見てくる」
 悠美は両手を合わせて早口に言うと、扉の向こうに駆け戻った。
 ふと、だれかに見られているような気がして振り向いた。だれもいない。その代わり、東の空低くに、青白い光のかたまりが目に入る。スニッター彗星だった──

 念には念を入れて、俺はさっき回った場所をもうひとめぐりした。行方不明になったネコは、たいていなにか怖い目にあったりして近くの暗がりにじっとひそんでいるものだ。だが、やっぱり彼女の姿は見えない。
 つづいて、ミオの行動圏の外側にまで足を伸ばすことに。バスの通る大通りを横切り、緑道に沿って駅のほうへ向かう。悠美と別れてからさらに一時間以上が過ぎていた。途絶えることなく続くイヌネコたちの合唱が、不安を一層あおりたてる。
「おおーい、ミオーッ!」
 道の左右の茂みを掻き分けながら叫ぶ。自転車で家路を急ぐサラリーマンが、けげんそうにこちらを振り返るが、他人の目を気にしてる場合じゃない。
 みちみち、ミオが行方不明になった理由に心当たりはないか、自分の胸に問うてみる。
 彼女は運動神経抜群だし、用心深い。まさか交通事故じゃないはずだ。ニュータウンの中は厳しい速度制限がかかっているし、彼女は車通りの多い道には近づかない。
 同類とのケンカも考えられない。オスネコ同士のタイマンの場合は、ときに命に関わるケガを負うこともあるけど、女の子なんだし。
 イヌでもない。そもそも、イヌとネコのトラブルなんて滅多に起きるもんじゃない。第一、彼女はイヌに免疫もある。なにしろ、ジェイクとは古いつきあいなのだ。
 まだもう一つの可能性があった。家出──。
 去勢していないオスなら、自分の意志で流浪の旅に出ることもありえる。メスなんだから、本来ならこれは除外していい。
 だが、それは彼女が何も不満を抱えていなければの話だ。
 ストレスを示す兆候とかはなかったか、最近のミオの生活態度を振り返ってみる。彗星の観望以外に、とりたてて変わった挙動はない。家具の配置も替えてないし、食事やトイレにも気を配ってるし……。
 いや、家出なんてするはずはない。絶対に。
 気がつくと、学校の近くまで来ていた。校舎の影が、暗い夜空を背景に黒々と浮かび上がる。
 そういえば、桜庭やほかのみんなはどうしてるかな。この分じゃどうせ行けそうにないし、俺も悠美みたいに代理を立てておきゃよかった。
 クラスのだれかと鉢合わせすると面倒なので、コースを変え別の方向を探すことにする。
 緑道を外れて少し歩くと、まだ入居が進んでいない街区に出る。手前にはいま売り出し中のモデルハウスが並び、その先には建築中の家や、ならしたばかりの土地がある。街灯も整備されていない暗がりの向こうには、ススキやセイタカアワダチソウが生い茂る草ぼうぼうの野原が広がる。
 高台の陰になった道の片隅で、俺は足を止めた。
 そこは、俺とミオが初めて出会った場所だった。
 彼女は人に譲ってもらった子じゃない。ましてやペットショップで買ったのでもない。拾ったんだ、ここで。捨てネコだったんだ──

 あれは五年前、できたばかりのこの街へ引っ越してきてまもないころだった。
 新学期が始まる前の春休みの夕方、俺はとくにすることもなく、人影もまばらな街をブラブラとさまよっていた。
 この辺りは家の基礎さえ建っていない、だだっ広い更地だった。首都圏の近郊で、空の端から端まで何物にもさえぎられずに見渡せる場所なんて滅多にない。周りにだれもいないと、世界を独り占めしているような気分になる。ちょっぴり肌寒いくらいの心地よい風に吹かれながら、俺は一人真っ赤な夕日に見とれていた。
 ふと気配を感じて足もとを見やると、そこに彼女がいた。生まれてまだ半年たってないくらいの中ネコだ。草むらの陰にぐったりと横たわっている。
 俺の視線に気づいた彼女は、モゾモゾと身じろぎし、逃げようとした。でも、立って歩くこともできない状態だった。俺は彼女をそっと抱きあげ、家に連れ帰った。
 家に着くや否や、親への説明もそこそこに部屋に上がり、押入から引っ張りだした古着の上にネコを寝かせる。粉ミルクを溶いて少し温め、口もとに運んで与えようとしたが、彼女は頑として手をつけなかった。どんな怖い目にあったのかはわからないが、人間をひどく警戒しているようだ。
 このまま何も口にしなければ衰弱して死んでしまう。ときおり震える小さな体を前に、俺はなんとか彼女の緊張をほぐそうと、そっと毛皮をなでながらやさしく声をかけてやった。そうして、温め直したミルクを口に運ぶ動作を何度も繰り返す。
 もう真夜中近くになって、彼女はやっと小さなスプーンから一口ミルクを飲んでくれた。一〇年足らずの俺の人生の中で、最高にうれしかった瞬間だった。
 彼女の容態は順調に回復した。もともと郊外の一戸建てに移ったらイヌかネコを飼いたいと思っていたこともあり、ミオは自然にわが家の一員となった。
 世の中には驚くほどの偶然の一致があるもんだ。実は同じ日にもう一組、ほとんど似た状況での出会いがあった。悠美とジェイクだ。
 そこらにいる雑種の和猫のミオと違い、ジェイクはどうやら純血のベルジアン・シェパードらしかった。
 日本でいわゆるシェパードといえば、ドイツ産のジャーマン・シェパードを指すことが多い。一方、ベルジアン・シェパードは、その名が示すとおりベルギー生まれだ。中でも、毛足が長くて黒色のものはベルジアン・グローネンダールと呼ばれる。
 ジェイクの両親もグローネンダールだった可能性が高い。ただ、彼には、ブリーダーに育てられた血統書付きのベルジアン・グローネンダールにない特徴があった。前足の先に白毛が入っていたんだ。ちょうど手袋をはめたみたいに。
 イヌの〝血統〟は単純に親の〝血筋〟だけでは決まらない。認定を受けるにあたっては、体つきから毛の色や質、さらには性格まで、基準を満たしているかどうか厳密に審査される。そして、ベルジアン・グローネンダールとしては、白い前足は大きな欠点だった。
 もちろん、正式な品種として認められなくたって、いい飼い主に引き取られれば審査をパスした兄弟同様かわいがってもらえたろう。繁殖は許されない可能性が大だが。
 でも……もし前足が白くさえなければ、彼が捨てられるはずはなかったとも思う。
 いや、ジェイクはむしろ、白い前足のおかげで悠美とめぐり会えたんだ。彼にとって、それは何よりの幸運だったに違いない。
 ミオとジェイクが拾われたいきさつを知ったとき、俺も悠美もひどくびっくりした。同じ時期に同じ土地へやってきて、同じように大切なパートナーを得た。なにか、二人と二匹の間に不思議な(えにし)を感じたものだ。
 新しい学校の最初の登校日を前に、いつのまにか俺たちはお互いを名前で呼び合う仲になっていた。
 いまじゃ、あいつの近所に住んだことを後悔してるけど。親から毎日のように勉強のできるいい子ぶりっこと比較されてみろ。たまったもんじゃないよ……。

 ミオを拾った現場を過ぎたところで、俺は道路から高台に上がった。あのころと変わらない、一面のススキ野原が広がっている。奥には、焼き払われる前の雑木林があり、連なるこずえが黒いギザギザのシルエットとなって地平線を縁どっている。工事の途中で放置されたブルドーザーが一台、ポツンと野ざらしになっているのが目の隅に映った。
 何かトラブルでもあったのか、あるいは採算の都合か、ニュータウンの開発は半ばでストップしていた。この辺りは住人もほとんど足を踏み入れることなく──たまに悠美みたいなやつがイヌを連れて遊びにくるだけだ──虫や鳥、あるいはノネズミやモグラなんかの小動物が好き勝手に暮らしている。春には空の高いところでヒバリが盛んにさえずり、秋の初めにはトンボが群れをなす。そういや、この間悠美がキツネの鳴き声を聞いたって言ってたっけ。
 都市の外れの一角にとり残されたみどりの聖域(サンクチュアリ)
 いずれ開発が再開されれば、火や重機に追われて、このちっぽけな楽園もなくなってしまうんだろうけど……。
 街の灯を背に、乾いた草を踏みしめて歩く。足もとは真っ暗だったが、懐中電灯はつけなかった。
 聞こえてくるのは、二つのコーラスだけ。一つは、季節を告げるごく自然な虫たちのそれ。そしてもう一つは、よく見知っているはずのイヌネコたちの尋常ならぬ不気味な歌声。
 俺は立ち止まって、声を限りに彼女の名を叫んだ。
「ミオーッ!!」
 返事はなかった。
 ふと頭上に目をやると、彗星がそこにあった。いまでは南東の空にだいぶ高く昇っている。地平線近くの光やもやにじゃまされないため、一段と明るくなったようだ。
 何万キロもの宇宙の彼方を通過しているただの星くずに、なぜか俺は幽霊にでも出くわしたかのような悪寒を覚えた。ほうき星を凶兆の(しるし)とみなした昔の人々の気持ちがよくわかる。
 それでも、ながめているうちに畏れは遠ざかり、代わって理不尽な怒りの感情がこみあげてきた。
 ジェイクの具合が悪いのも、街中のイヌやネコたちがおかしいのも、そしてミオがいなくなったのも、全部こいつのせいなんじゃないか……。
 拳を握りしめ、「ミオを返せっ!」と怒鳴りかけたところで、中途半端に振り上げた手を下ろす。バカバカしいや。
 家に引き返そうとしたとき、急に頭がクラッとした。
 ただのめまいじゃない。足もとの地面がくずれていくような、空が溶けだしていくような感覚。
 もう一度頭上を仰ぐと、ほんのわずかのうちにスニッター彗星は見違えるほど輝きを増していた。しかも、こうして見ている間にも、たなびく二本の尾がぐんぐん伸びていく。
 ついにそれは、天球の四分の一ほどの長さに及び、見上げる者を威圧するように夜空をおおった。まるでなにか巨大な獣の尻尾みたいだ。



 光がさらに強烈になる。落ちてくる!?
 俺はとっさに腕をかざして頭をかばおうとした。いったんぎゅっとつぶったまぶたをうっすらと開いてみる。
 彗星は落ちてこなかったけど、何かキラキラしたものが天から降ってくる。雪じゃない。偏光顕微鏡でのぞいた鉱物の結晶のような、七色に変化する光の粒。
 まさか、彗星のかけら──!?
 イヌやネコの鳴き声がますますかまびすしくなる。頭がガンガンして割れそうに痛い。目の前が次第に暗くなっていく。
 薄れゆく意識の中で俺は思った。
 動物たちはひょっとして、このことを警告していたんだろうか? ミオ、お前も──?

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