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13 アレックスの過去




「ほんとに大丈夫かな、あの二人?」
 後に残してきた美由とファルコのことが心配になった俺は、階段を駆け上がりながらミオに尋ねた。
 確かに、絆の剣を手にしたファルコは、もとがコロコロしたシーズーだとは思えないほどの強さを発揮している。だが、相手のマサヒトというパピヨンの発していた毒々しい妖気には、いやな感じを覚えた。とりわけ、彼女の持つ異様な黒い鞭に。
「大丈夫、絆の剣はまだまだ進化するわ。あのガキンチョ二人の絆の力を信じニャさい」
 ミオは俺の不安を解消するように微笑んだ。
 そうだよな。あの二人の強い絆を、怨みの力なんかで断てるわけないもんな……。
 らせん階段をさらに何周か昇っていくと、再びさっきと同じようなフロアが出現した。
 ここにも待ち人がいた。アレックスだ。
「来たか……」
 黒ラブは一言つぶやいて俺たちを一瞥した。
「マスターを返してもらいに来た。そこを通してもらうぞ、アレックス」
 アレックスはジェイクの手にかざした剣に目をとめ、ほうと声をあげた。
「なるほど。おもしろい得物を手にしたようだな。だが、私もスニッター様にいただいたものがある」
 マサヒトの持っていた鞭と同様、漆黒の槍を手にとる。彼自身の体色よりなお黒い。
「〝恥辱の槍〟。どちらが上か試してみるのも一興だな」
 冷笑を浮かべ、ジェイクと対峙する。
「アレックス。戦う前に一つ聞いておきたい。お主はだれが見ても模範的なレトリーバーだった。だが、私は、お主が胸のうちに秘密をずっとため続けていたことを知っている。それがなんだか知りたいのだ」
「酔狂なことだな、ジェイク。だが、まあいい。教えてやろう」
 アレックスはいったん手にした槍を下ろすと、俺たちのだれ一人として知らない、彼自身の心の中に閉ざされてきた過去を語り始めた。
「私が盲導犬としていったん貸し出されながら、送り返されたのは知っているだろう。そのときの話さ。ある日、私は借主の日課の散歩にいつものようにつきあっていた。交差点を渡ろうとしたとき、信号無視の車が猛スピードで突っこんできた。なおも歩いていこうとする借主を、私は止められなかった。当時の私にとっては借主も大事な存在だったが、私は自分がかわいかった。怖くて身がすくんだ。
「幸いにも──いや、不幸にもというべきか──借主は風圧で後ろに倒れてかすり傷程度ですんだ。車はそのまま行ってしまい、目撃者もいなかった。私はその後、信号を守らず借主を危険にさらしたという理由で、訓練所に戻された。私は第二の実家というべき加藤の家に引き取られた。そこで私を待っていたのは地獄だった」
「なぜだ? お主の置かれた境遇は、他の多くの同胞よりよっぽど恵まれたものに見えたが」
 ジェイクがいぶかしんで尋ねる。
「そう思うのがふつうかもしれぬな。確かに、加藤は以前と同じように不足なく私の世話をこなしたさ。他のイヌであれば、これでもう人の手から手へと渡り歩きせず、なじみの家で安楽な余生を送れると歓迎したことだろう。だが、私にとってはまるで違った。
「家を去るまで、社会のために、助けを必要としている人々のために、立派に務めを果たしてこいと、加藤は絶えず私を叱咤激励してきた。私は彼の期待に応えようと、受けた恩を返そうと、懸命に努めた。そして、センターでの訓練課程を最短でこなし、最優秀の盲導犬として現場におもむいた。
「にもかかわらず、私は落伍者の烙印を押され、誇りをズタズタに引き裂かれ、彼の家に出戻ってきた。私を迎えた加藤は顔つきこそ穏やかだったものの、終始無言だった。私に一言も声をかけようとはしなかった。だが、あわれむような目の奥に隠された彼の感情を、無言のうちに含まれる刺を、私の耳は、鼻は、敏感に察知せずにはいなかった。
「『この役立たずの無駄飯食いめ。私の顔に泥を塗りおって。人様のお役に立てないのなら、お前を育てなどしなかったものを……』
「彼は声に出さず、にこやかな笑顔で、私をそうののしり続けたのだ。
「あのとき、借主をかばって足の一本でも失っていれば、美談として持てはやされ、借主には感謝され、加藤は満足し、私を手厚く庇護したろう。だが……一体私は本当に自分の命を優先してはいけなかったのか!? 私は表向き忠犬の役割を演じた。加藤と同じように。そして、心のうちに一つの感情を秘め続けてきた。人間の存在の全否定というな」
 そうか、それがアレックスが送り戻された理由だったのか。人間の福祉活動には熱心な人でも、相手がそれ以外の動物になると落差の激しい人って、案外いるんだよな……。
「ジェイクよ。お前がもし私の立場だったら、お前が主人と慕う人間を守るために自分の身をも犠牲にできたと思うか?」
 ジェイクはうつむき加減に、少し難しい顔をして答えた。
「わからない……。その場に居なかった私に、自分ならできたとは言いきれない。私もお主と同じように身がすくんで動けなかったかもしれない。だが、マスターなら、やはり私をかばったろう」
「なぜそう言える!?」
「実際に私を守ってくれたのだよ、身を呈して。私がまだ子犬のころ、成犬に攻撃されたことがあってな。彼女の左手には、まだそのとき噛まれた傷跡が残っている」
「えっ!?」
 佳世が自分の右手を押さえながら息を飲む。
 そのときのことは俺も覚えてる。次の日は手に包帯を巻いて登校してきた。「こどものころから社会性を身につけないからこうなるのよ、ったく!」と、彼女を噛んだイヌではなく飼い主のほうをプンスカ怒ってたっけ。
「アレックス。お主の気持ちも理解はできる。だが、お主が人間のすべてを──私のマスターをも否定するなら、私はやはりお主と剣を交えねばなるまい」
 剣を構えるジェイクをテツが止めた。
「待て、ジェイク。おめえ、先行けや」
「テツ!? しかし──」
「おいおい、あのチビは信用できておいらは信用できねえってか? そりゃねえだろ?」
「いや、だが……」
 パピヨンとシーズーなら体格に差はない。だが、目の前にいるラブラドル・レトリーバーは、柴犬のテツよりずっと大柄だ。そのうえ、手にしている武器は色こそ違えジェイクの剣に匹敵する大槍だ。リーチの差を考えると、テツが圧倒的に不利なのは目に見えている。
「ジェイク。この先にはあいつがいるはずだ。ラッキーを半殺しにしたあの凶悪なクン=アヌンの野郎がよ。おいら、やつの相手はしたくてもできねえ。おめえがやるしかねえんだ。だったら、ここはおいらに任せろや」
 拓也もうなずいて、テツの隣に立った。
「北野、みんな。この場は俺たちに任せて行ってくれ。必ず保科を助けろよ」
 俺はジェイクと顔を見合わせた。不安は残るが、クン=アヌンの相手が務まるのは彼しかいないというテツの意見はもっともだ。
「すまない、テツ……」
「サルイヌ、あんたの剣が小さいのはまだ発展途上だってことよ。覚えておきニャさい」
「ああ? どういうことだ?」
「そのうちわかるわ」
 テツは首をかしげながらも、ミオのメッセージに曖昧にうなずいた。
 俺と佳世も拓也に励ましの言葉を送った。
「がんばって、拓也くん! 美由たちと一緒に追いついてね!」
「気をつけろよ、拓也。あと……大樹でいいからな」
「ああ、大樹な。わかったよ、北野
 ……。まあ、いっか。

 らせん階段をさらに上に向かって昇っていく。ファルコとテツがパートナーとともに後に残ったため、事実上ジェイク一人で俺、佳世、ミオの三人をかばいながら戦っている状態だ。それでも、ジェイクはさして疲れも見せず、襲いかかる怪物をばったばったとなぎ払っていった。
 突然、階段が途中からくずれ落ちた。
 先頭を行くジェイクの後を走っていた俺は、間一髪のところでジャンプして助かった。だが、俺のすぐ後ろにいた佳世が足をすくわれる。
「きゃあああっ!!」
「佳世!!」
 危ういところで、最後尾にいたミオが彼女の片手をつかんだ。
「大丈夫か!?」
 佳世はミオの手を借りてなんとかはい上がった。だが、対岸までの距離は五メートル以上ありそうだ。ミオなら飛び越せるだろうが、俺たち陸上選手でもないふつうの中学生にはとても無理な相談だ。
「どうしよう……」
 そのとき、ミオと佳世の後ろの壁が地響きを立ててはがれ落ちた。
 中から現れたのは身長三メートル以上ある巨大な肉のかたまりだった。これまで蹴散らしてきた不定形の怪物と違い、こいつには目や耳や尻尾があった。腐肉を寄せ集めて作ったグロテスクなイヌだ。顔の皮膚がたるんでる中国の食用犬シャーペイに似ている。
「せっかくだから、ここで遊んでいきましょ、お二人さん♪ あニャたたちの趣味に合うかわからニャイけど♥」
 怪物犬の肩の上にちょこんと座ったお魚ちゃんが、ネズミを前にしたときのように、レモンの色と形をした大きな瞳をらんらんと輝かせてほくそえむ。
「いやあああっ!!」
 佳世が恐怖の悲鳴をあげる。ジェイクのおかげでイヌ恐怖症からはほとんど立ち直った彼女だけど、あんなバケモノ犬を見せられたらたまらないだろう。
「大樹、ここで待っていてくれ」
 ジェイクが向こう岸に渡ろうと、足の筋肉にぐぐっと力をこめジャンプの姿勢をとる。
 ミオがそれを押しとどめた。
「クロスケ、ここはあたいに任せニャさい。あんたたちは先へ進むのよ」
「しかし……!」
「そんなこと言ったってどうすんだよ!? お前、武器何も持ってないじゃんか!」
 俺の心配をよそに、ミオはとくにあわてたそぶりもなく、やれやれとばかり首を振った。
「切り札は最後までとっとくつもりだったんだけどニャ~……」
 彼女の手のひらが不意に白い光を放つ。光はやがて刀身のとても細いサーベルのような剣と化した。
 あれはまさか──絆の剣!?
 銀色の光沢に包まれたその剣は、ジェイクのそれに劣らずうっとりするほど美しかった。
 あれが……俺とミオとの絆の証……。
「そういうわけだから、心配しニャイで」
 ミオは余裕たっぷりに片目をつぶってみせた。
「本当に、大丈夫か?」
 そうは言っても、あの巨大な怪物に彼女が一人で立ち向かうところを想像すると、不安はぬぐえない。
「あんニャのは雑魚よ。クン=アヌンのほうがよっぽど厄介だわ。そっちはあんたたちに任せる。大樹はしっかりクロスケをサポートしてちょうだい。悠美を助けるのはあんたたち二人よ」
「かたじけない。佳世殿のことを頼む」
 ジェイクが頭を下げる。俺も仕方なく折れた。
「わかった……。くれぐれも無茶はするなよ! 佳世、ミオの支援、よろしくな!」
「うん。任せて、ヒロくん!」
 イヌのバケモノに怖気づいていた彼女も、ミオの絆の剣を目にして勇気を取り戻してくれたようだ。本当なら、彼女と交替したいところだけど……。
 後ろ髪を引かれる思いで、俺はジェイクとともにその場を離れ、上階へと急いだ。

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