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16 テツV.S.アレックス




「ジェイクめ、ずいぶんとなめたまねをしてくれるわ。だが、まあいい。後悔は後でたっぷりしてもらおう」
 こちら、第二のステージでは、テツVSアレックスの対戦が始まったところだった。
 テツにとってはかなり厳しい戦いとなった。アレックスは上背を活かして大槍を頭上から突き下ろしてくる。リーチの差は決定的だ。
 だが、敏捷さにおいては、若い柴犬のテツにわずかながら分があった。テツはヒットアンドアウェイの戦法で、アレックスの懐に入って切りつけては、巧みに相手の攻撃を交わして後退することを繰り返した。
「なるほど、お前たちの剣も私の恥辱の槍同様、相手の精神にダメージを与えるものらしいな。だが、お前たち二人の絆の力とやらは、見た目どおりたいしたものではなさそうだ」
「ゴチャゴチャうるせえんだよ!」
 息を切らしながら、テツはなおも攻撃の手をゆるめない。だが、敏捷性で勝るといっても、時間をかければ速力は鈍っていく。自分の疲労を上回るだけのダメージポイントを相手に重ねられなければ、彼の戦法は有効とはいえない。
 アレックスの槍先がテツの脇を掠める。彼は敵の間合いからいったん退いた。
「くっ……」
「この恥辱の槍の力は、私のなめた辛酸の日々が与えたものだ。テツとやら、お前の小刀の威力が私のそれにはるかに及ばないのはなぜだかわかるか? 人とイヌの絆とは、しょせんその程度のものなのだ。この力の差がまぎれもない証拠だ。人間にとって、イヌとは使い捨ての道具にすぎないのだ。加藤とそこの少年の間に、たいした違いなどないのだよ」
「うるせえ! 拓也は……拓也はおいらの家族だ!!」
 テツはがむしゃらに突っこんでいった。
 が、アレックスの槍の一振りにあっさりと弾かれてしまう。
「うわっ!」
「テツ!」
 彼の絆の剣は跳ね飛ばされ、床をすべって、カランと音を立てながら階段の下まで落ちていった。
 剣を失ってなすすべのないテツに、アレックスがにじり寄る。
「家族? フン、そんなものは幻想だ。われわれに要求されているのは、戯れに心の渇きを潤すための、家族の〝補充品〟となることだ。それもやはり道具の一つには違いあるまいよ」
 そのとき、オロオロしながらテツとアレックスを交互に見やっていた拓也が、だっと駆け出した。いちもくさんに階下へ降りていく。
 彼の後ろ姿を見送った後、アレックスはテツを振り返って、それ見たことかと言わんばかりにほくそ笑んだ。
「おやおや、家族を放り出して自分だけ逃げていったぞ?」
 テツは何も答えなかった。じりじりと迫るアレックスに合わせて後ずさりする。
 ついに彼は壁際に追い詰められた。頭一つ分も身長差のある相手をじっと見上げる。隙を見て反対側に回ろうとしたものの、横をすり抜けようとしたところで相手の槍に足をすくわれ、転倒した。
 もう逃げ場はない。テツは仰向けになって、自分の胸に照準を合わされた槍先を声もなく見つめた。
「力を得てなお人間の道具に成り下がったこと、せいぜい後悔するがいい!」



 いまにも恥辱の槍が突き下ろされようとしたとき──アレックスの背中に拓也の投げた絆の剣が刺さった。
「な……に……!?」
「兄貴はあれでもうちの学校のエースなんだぜ。コントロールは抜群さ」
「おいおい、あれでもってなねえだろ?」
 テツにはもちろんわかっていた。拓也が自分を置いて逃げたりなどしないことを。それで、相手が拓也に背中を見せるようにわざと位置を変えただけだったのだ。
 二人の信頼が浴びせた一刀は、人間への不信で凝り固まったアレックスの心に大きな苦痛をもたらした。
「おのれ……」
 アレックスは背中の剣を抜き取って床にたたきつけると、階段を登ってこちらへ戻ってくる拓也を憤怒の形相でにらみつけた。
「先に貴様から片付けてやる!!」
「させるかよっ!!」
 振り返ったアレックスは驚愕に目を見張った。立ち上がったテツの手に、白銀に輝く剣が握られていたからだ。右にも、左にも。ミオが発展途上にあると言ったのは、このことだったのだ。
「おいらの必殺剣、受けてみやがれ! 柴犬流、バッテン斬り!!」
 左右の剣がアレックスの胸もとを十字に切り裂く。彼はがっくりとひざを折った。
「おいおい、バッテン斬りはねえだろ? せめてエックス斬りとか十字斬とか、もっとセンスのある名前付けろよ」
「ちぇっ、せっかくかっこいいと思ったのに……」
 二人が冗談を言い合っていると、アレックスは胸を押えながらなおも立ち上がった。
「もうやめろ、アレックス! おいらの勝ちだ!」
「思い上がるな! まだ勝敗は決したわけではないぞ。これからお前たちに私の真の力を見せてやる! 恥辱の槍進化形態(プログレスモード)、〝恥辱の闇〟!!」
 アレックスは漆黒の大槍を天に向かって振りかざした。と、その尖端から黒い霧のようなものが吹き出し、見る間に辺りをおおっていく。
「な、何だ!?」
「真っ暗で何も見えねえ!」
 テツはそこでハッと異変に気づいた。
「あ、兄貴、どこにいるんだ!? 声はするのに、どっちの方角にいるのかさっぱりわかんねえ! 匂いも!」
 一寸先も見えない暗闇の中でキョロキョロと周囲を見回す。耳をそばだて、鼻を突き出して匂いをかぐが、拓也の所在を突き止められない。
 闇と同化した黒いイヌの声が、どこからともなく聞こえる。
「ククク、ただの闇ではないぞ。この恥辱の闇は、あらゆる感覚機能をマヒさせる。日のもとにおいても自ら屈辱の闇の中を歩き続けた者以外のな。お前たちにとっては文目も分かぬ暗闇でも、私のほうはお前たちの居場所が手にとるようにわかる。まずは人間の少年のほうから始末してやろう」
「くそ!」
 いらだったテツは、さっき拓也が見えていた下りの階段の方向にだっと走り出そうとした。
「おっと、へたに動かぬほうがいいぞ? この闇の中では三半規管自体機能しない。足を踏み外せば、フロアの下にまっさかさまだ」
 アレックスの言うとおり、方向感覚がまったく働かない。テツはその場につまづき、立ち上がることさえままならなかった。
「兄貴っ!!」
「テツ!!」
 互いの名を呼び合うが、電話越しに話しているも同然だった。
 二人とも、事態を打開する方法をまったく思いつけない。二年でエースピッチャーに抜擢される運動能力が自慢の拓也だったが、勉強のほうはからきしだめだった。テストの点はいつも保科や桜庭の半分、そのせいで父ちゃんになぐられた回数はテツより多い。テツも、おかわりを覚えるのに二週間かかったし……。
 歯ぎしりする拓也の頭に、ふと一つのアイディアがひらめいた。
「テツ! 俺を憎め!」
「な、何言ってんだよ!?」
「グローブのこと思い出せ! 俺はお前をなぐったんだ!」
「ほお……」
 アレックスが感嘆の声をあげる。
「なかなかおもしろいぞ、少年よ。確かに、それは正しい攻略法だ。私と同じように恥辱にまみれ、この闇と同調することで、力を無効化して感覚を取り戻すことは可能だ。だが……一度闇に浸り、闇に囚われた心が、はたしてそこから脱け出せるかどうかは保証せぬがな。クックク」
「へ、たかが一発軽くなぐられたくらいで、恨んだり憎んだりなんてできるもんかよ!」
「まあいい。私はゆっくり歩いてやる。少年にたどり着くまで時間はあるぞ。じっくり考えることだ。クク……」
「うるせえや! てめえと一緒にすんじゃねえ。おいらは家族を憎んだりしねえ!」
 暗い愉悦にほくそ笑むアレックスに、テツが唾をペッと吐き捨てながら怒鳴る。
「違う……違うんだ……」
 沈んだ声でそう言ったのは拓也だった。
「俺は……保科や鳴島や北野じゃない……。お前のこと、弟だなんて思っちゃいなかった……。散歩して、クソして、ドッグフード食って、外の小屋で寝てるだけの、ペットだったんだ。人間の家族と同じだなんて、見てなかったんだ!」
「兄貴……」
「お前をなぐったのも、お前よりグローブのほうが大事だったからさ。たかがグローブなんかのほうが……。だから、恨んでいい……憎んでいいんだ……。頼む!」
 テツは戸惑った表情を浮かべ、言葉を失ったようにその場に立ち尽くした。目をつぶると、手を胸に当ててじっと考え込む。
 やがて、彼はゆっくりと目を開き、面を上げた。
「できねえよ。いくら兄貴に頼まれたって、やっぱりおいらには兄貴を憎むことなんてできねえ」
「お前は、たったいまこの人間が懺悔したのを聞いていなかったのか? まったくあきれたものだな。真実が明るみになってなお、偽りの家族の絆にしがみつくとは。どこまでも愚かなやつめ」
 アレックスが哀れみの表情を浮かべて首を横に振る。
 だが、テツはすかさず声を張りあげた。
「違う! バカなのはおめえのほうだ、アレックス! 言葉と理屈で、自分の気持ちまでごまかしてきたのは。そうじゃないのか!?」
 予想もしなかった反撃に合い、アレックスはたじろいだ。
 それから、テツは今度は姿の見えない拓也に向かって、やさしく微笑みかけた。
「おいらいま、振り返ってみたんだ。いままで兄貴や、父ちゃん、母ちゃんたちとすごした日々を。けど……おいらも、兄貴も、毎日ずっと笑ってたよ。悲しい顔や苦しい顔なんか、ちっともしてなかった。おいらは兄貴のこと好きだし、兄貴もおいらのこと好きだって言ってくれてた。うそじゃない。おいらたち、鼻でわかるもん。おいらにとって兄貴は、誰がなんと言おうと、いちばん大事な家族だ。いまも、あのころも、変わりなく。それを壊すことなんて、誰にもできやしない! アレックス。おいらは……おいらはお前みたいに、自分の鼻を信じることをやめて、心を闇に染めたりなんかしないぞ!!」
 両手の絆の剣が、恥辱の暗闇を圧倒して燦然ときらめく。
「おいら、戦法だの策だのって、いちいち考えるのも面倒くせえや。こんな闇、力づくで打ち払ってやらあ! 柴犬流奥義、柴刈無間無影斬!!」
 二本の小刀を頭上に放り投げる。絆の剣はまばゆい光を放ちながら千々に分かれ、無数の刃となって天から降り注いだ。
「ぐおおおっ!?」
 さらなる進化を遂げた絆の力は、恥辱の闇を完全にかき消してしまった。そして、アレックスの心の闇をも。
 彼は槍にすがりつくようにして、かろうじて立っている状態だ。戦う力などもはや残っていなかった。体格と経験値のハンデを克服した若き柴犬の完全勝利だ。
「ねえねえ、今度の技名はどうかな?」
「ううん……イマイチ。どっかで聞いたし。それに柴刈って何だよ、意味ねえじゃん」
「がっくし」
 合流して笑い合う二人を虚ろな目でじっと見つめてから、アレックスは震える声で低くつぶやいた。
「お前たちが互いを信じる姿は、私には見るに耐えん。人間に対する不信と絶望は、あまりに深く私の心に根ざしてしまったから。だが……テツよ。あるいは、お前の言ったことのほうが正しかったのかもしれん。思えば、私の心の暗闇は、私自身が生み出したもので、加藤のせいではなかったのかもしれん。彼は私を責めていたのではなく、私に過大な期待を押し付けた自分自身を責めていたのかもしれん……私と同じように。プライドを傷つけられて戻ってきた私を、ただ何も言わずに受け入れた彼の本当の心を、謝罪の声を、私の耳が、鼻が、聞き取り、嗅ぎ分ける力を失っていただけなのかもしれん……。いまさらそれに気づいたとて、もはや何もかも手遅れだが……」
 彼はいきなり恥辱の槍を自分の胸に突き立てた。あっという間もないできごとだった。
 テツと拓也は、自分の心を壊して死んだように横たわるアレックスを茫然と見つめた。たぶん、彼はもう二度と目を覚ますことはないだろう。
「……なあ、テツ。アレックスの言ったこと、間違ってると思うか?」
「おいらは難しいこたわからねえや」
「俺は……こいつを責める気にはなれないや。結局、イヌとヒトの間も、人間同士の関係と何も変わりゃしないんだよな。保科とジェイクみたいに、お互いを心の底から信じ合える関係もあれば、アレックスみたいに、お互いの心がすれ違ったせいで不幸な関係になったり……。それにこいつだって、事故にさえあってなきゃ、きっと優秀な盲導犬になってたろうしな。
「だけど、もし戻った先が保品や鳴島の家だったら、きっとあいつらはアレックスのこと、本当に解ってやれたと思う。こいつだって自分を苦しめたりせず、幸せな余生を送ることができたんじゃないかな。やっぱり不公平だと思わないか? お前たちの運命が、めぐり合わせ一つで何もかも決まっちまうなんてよ……」
神妙な顔つきの拓也を見ながら、テツが口を開いた。
「……おいらは兄貴の家に来れてよかったと思ってるぜ。ま、たまにゃつまんねえことで怒られて、いやになることもあるけどよ」
「こいつ」
 拓也はテツの頭に手をやると、クシャクシャとなでた。

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