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18 スニッター




 次のフロアで階段は行き止まりになっていた。正面には扉が一つあるきりだ。
 ここにスニッターと悠美がいるのか……。
 俺とジェイクは慎重にその扉を開いた。
 中の風景はいままでとはガラリと異なっていた。半球状のドームを半分に割ったような大きな部屋の、その切断面にあたる部分が全面ガラス張りの展望窓になっている。その外には星空が広がっていた。
 もう夜になったのか? いや、時刻はまだ午後になったばかりのはず。それに、外の星々はまたたいている様子がないうえに、地平線も見当たらない。
 もしかして、これは彗星の上からながめた景色なんだろうか?
「マスター!」
 俺が目の前の景色に圧倒されていたとき、傍らでジェイクの声がした。
 プラネタリウムのようなこの展望室に並んだ椅子の一つに、彼女は一人座っていた。
「ジェイク……」
 悠美は面を上げてこちらを見ると、弱々しく微笑んだ。なんだかひどく疲れてるみたいだ。よく見ると、彼女の目は濡れていた。
 彼女のもとへ歩み寄ろうとしたとき、もう一つの声が聞こえた。
「そうか……クン=アヌンたちを退けたのか。まあ、こうなるとは思っていたのだが……。よく来たな、人間の少年。そして、ローフ」
 ローフ?
 声のするほうを見やると、展望窓の手前に小さな人影がいるのに気づいた。新来の客に背を向けてきらめく星空をながめていたその人(犬)物は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
 金色の毛皮も、二又の尻尾もない、何の変哲もないビーグルだった。どういうわけか頭にターバンのような白い布を巻いており、褐色の大きな三角耳がその間から垂れ下がっている。
「お主がスニッターか?」
 警戒心をあらわにするジェイクに、スニッターは奇妙に馴れ馴れしい口ぶりで話しかけた。
「実に五年ぶりだな、ローフ……といっても、そなたは覚えていまいが。私と、そなたと、フィルサがここで再会するのは、あらかじめ定められた宿命だったのだ。どうだ、生まれ故郷に戻ってきた感想は?」
 ジェイクは戸惑いを隠せずに聞き返した。
「お主の言っていることは何のことだか私にはさっぱりわからぬ。第一、私はローフではない。ジェイクという名がある」
「ジェイク……あなたは、ここで生まれたんですって。この研究所で」
 突然の悠美の台詞に、ジェイクはいささかショックを覚えたようだった。いらだちを隠そうともせずに言う。
「マスター……私にとって、生まれた場所などどうでもいいことです。私の家はあなたの家であり、私の主、私の家族はあなただけです。いまも、これからも!」
 悠美は、わかっているとうなずいた。
「どうでもよくはないぞ、ローフ。私とそなたは由縁を同じくする兄弟に等しい。同じESP遺伝子を共有するという意味でもな」
「スニッター。私にしてくれたお話を、この二人にも聞かせてあげて」
 悠美が促す。
 以下は、スニッターが俺たちに語った、彼自身の生い立ちにまつわる物語だ──
 この研究所は、表向き私立の大学法人と、大手製薬会社が協同で設立したことになっている。だが、看板には出ていない第三の出資者がいた。防衛省だ。
 そして、地下の研究室では極秘のプロジェクトが進められていた。ESP=超能力の研究──。
 もっと具体的に言うと、その発現に関わる遺伝子を割り出そうというものだ。超能力自体の研究は各国の機関でこっそり続けられてきたが、いまだにめぼしい成果はあがっていない。そこで、まず遺伝子から突き止めてしまおうというのが、この研究の主眼だった。
 世界中にいる本物の超能力者から抽出したDNAを統計的に解析することで、すでにそれらしい遺伝子の目星は付いていた。人体にそのESP遺伝子を導入する前に、さも当然とばかり動物実験が行われることになった。産業廃棄物の山から再生した、新興住宅地の一角、だれの目も引くことのないこの土地で。
 問題は、実験に使用する動物を何にするか。過去の実績、実験に伴うリスクと有用性、その他諸々の理由で最終的に選ばれたのは、マウスでもチンパンジーでもなく、人間にとって身近なイヌとネコだった。そして、幾千もの胚の中から、強力なESP遺伝子を持ち、無事に育ったのが、ビーグルのスニッター、ベルジアン・シェパードのローフ、ネコのフィルサだった。
 俺はそこで愕然となって話を遮った。
「ネコのフィルサって、まさか……!?」
「そうだ、少年。そなたの推察のとおりだよ」
 それだけ言うと、スニッターはさらに話を進めた。
 彼は三匹の中で一足先に生まれた、最初の完全なESP動物モデルだった。遺伝子が脳の働きに関与していることまではわかっていたから、研究者たちはさらにESPのメカニズムを追究するべく、大脳皮質の活動電位と行動の相関を示す地図の作成に入った。
 悠美が顔を両手でおおう。俺には最初、彼の言うことがよくわからなかった。
「実験の手法自体は何も目新しいもんじゃない。スキナーの条件反射試験の延長さ。私の場合は、餌を手に入れるのにいちいちESPを使わされたというわけだ。私の頭は多数の電極でさながらサボテンのようだったよ。フフ」
 彼のターバンの下を見る勇気はなかった。思わず吐き気がこみあげてくる。
「怒涛のように押し寄せる苦痛の波に耐える方法を、私は自ら編みださねばならなかった。私は痛覚と切り離された観察者の人格を作り、主人格をそちらに移した。そのときから、私のESPは、私自身の客観的な研究対象となった。なんと興味深い世界であることか! 一つの謎を解明したと思っても、その先にはさらなる謎が待ち受けている。果てというものがない。私は知識の探究のとりことなった。もはや、脳をいじくられる苦痛など些末事にすぎなかった。彼らより先に、私はその原理の根本を理解し、自由に操り、強化するすべを知った。へだてた空間を知覚し、物体を移動させ、意思を伝え、あるいは奪う……何事も自由自在だ! 唯一の束縛といえば、アインシュタインの法則くらいのものでな」
「なんだっけ?」
 悠美に聞く。ていうか、中学でそんなの習わないよな。
「E=MC2乗」
 彼女はさらりと答えた。
「ちょうどそのころ、二体目のサンプルとしてフィルサが来た。私は同じ能力を持つ同胞として、この知識と喜びを共有したいと思い、彼女にすべてを伝えた。だが、彼女は私のありさまにすっかりおびえてしまった。彼女は三番目の能力者であるローフを連れて、研究所の外へテレポートを使って逃亡した──」
 そして、俺と悠美に拾われたわけか……。
「私は再び孤独になり、ひどい失望を味わった。だが、長くは続かなかった。それからの五年間、私は実験に携わっていた研究者の意識を乗っ取って外部の記憶デバイスとして活用し、さらに貪欲に知識を蓄えた。そして、機が熟すのを待った──」
 その先のことは知ってのとおりだ。スニッター彗星は、単に彼が超能力を行使するのに必要な〝燃料〟だったのだ。
 彼が彗星の座標を人間たちに教えたのも、軌道を地球に向けさせるためだった。ごくわずかながらだれもに備わっているESPを利用する形で。彗星に多数の意識を集中させることで、それを招き寄せ、自らのESP消費を節約したのだ。
 そして、スニッターは彗星を用い、人間とイヌの遺伝子に特殊な操作を加えた。
 だけど、遺伝子をちょっといじっただけで、イヌやネコが立って歩いたり、しゃべったりできるもんなのか?
 彼に言わせると、動物の持っている遺伝子のセットは、人間の予想する以上に互いに共通しているらしく、そのスイッチが入っているかいないかの違いにすぎないそうだ。解析技術が急速に進歩したおかげで、多くの生物種のゲノムの全塩基配列が解読されているが、それらの遺伝子の機能までわかっているのはごく一部にすぎない。
 分子生物学者たちも知らない眠れる遺伝子群の中には、言語を操ったり、二本足で歩いたり、抽象的な物事を考えたりといった、文明を発達させる必要条件となる各種の能力を発現させるものが含まれている。つまり、もともと動物たちみなに潜在的に備わっている力が、たまたまサルの一種であるヒトで目覚めただけだったのだ。
 そこにもESP遺伝子が関与しているらしい。繰り返される氷期と間氷期、地殻変動と大規模な火山活動、天体の衝突──幾度となく地球に訪れるカタストロフィーを乗り越えるために、ESP遺伝子は進化の先取りをやってのけたのだ。
 スニッターいわく、〝進化の爆発〟や収斂現象、中立進化の非中立性もそれで説明できるとか。詳しいことは、俺にはちんぷんかんぷんだったけど。
「ところで、イヌだけじゃなくネコも操作したのは何でだ? それと、人間のうち俺たちこどもを除外したのは?」
 スニッターはため息を一つついた。
「フィルサの仕業だよ。彼女のESPレベルは私とほぼ互角で、いくつかの点では私をもしのぐのだ。おかげで計画が狂ってしまった。だがまあ、結果的にはよかったのかもしれない……」
 スニッターはそこでじっと悠美を見つめた。
「こうしてそなたと相まみえることができたのだからな」
 その凝視に、俺は内心不安に駆られた。それはジェイクも同じだったろう。
「スニッター。みなの意識を元に戻してほしいのだが。人間の大人たちも含めて。そうすれば、これ以上お主の責任を問いはすまい」
「それはできぬ」
 スニッターは冷ややかに答えた。
「そなたらが種族の違いを乗り越えて和解に至れたのはなぜだと思う? 価値観を再構成することをいとわない若い世代だからだよ。人間をすべて元に戻してみろ。悠美やそなたがいくら奮闘したとて、混乱に収拾はつけられまい。きっと千人、いや、十万人のクン=アヌンが必要になるさ……」
「しかし──」
「いずれにしろ、それはできたとしての仮定の話だ。実際には不可能だ。第一に、人間とイヌの遺伝子操作は連動している。人間を元に戻せば、われわれは再び多くの力を失う。第二に、必要な彗星の質量がもう残っていない」
「うそよ」
 全員が振り返る。ミオが入口に立っていた。

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