どのくらいの時間がたったろう。閃光と轟音がやっと収まり、うっすらとまぶたを開く。
奇妙な情景が広がっていた。さっきまでいたパレスの最上階と、果てしない宇宙空間と、本来ここにあるはずのキャンパスの情景が重ね合わさったみたいだ。
巨大なバケモノの姿はどこにもない。スニッターも。
悠美はどこに!?
あ、いた──ジェイクの腕の中。
「やったのだ! 勝ったのだ!!」
「よっしゃあ! さすがだぜ、大将!!」
歓声がわき起こる。テツと拓也がホームランバッターみたいに両手をパンとたたき合わせ、小気味よい音が鳴る。ファルコと美由は手をつないでクルクルと踊っている。
ジェイクがそっと悠美を床に下ろす。
彼女は命の恩人であるパートナーに飛びついた。
「ありがとう、ジェイク……」
だが、ジェイクはそっと彼女の手をはがすと、神妙な顔つきでじっと見つめて言った。
「マスター……お別れです」
「え?」
きょとんとして悠美が見上げる。
「スニッターは最後に彗星の質量を消費し尽くしてしまいました。おまけに、術者である彼は死んでしまった。みなを元に戻す方法は一つしかありません。彼の行使した力をすべてリセットします──私の命に代えて」
みんないっせいに彼のほうを振り向く。
悠美は大きく目を見開き、わななく声で言った。
「そんな!? だめよ、ジェイク!! どうしてあなたが犠牲にならなきゃいけないの!?」
「私は、あなたの家族となるはずだった彼を救うことができませんでした」
「仕方がなかったのよ! スニッターが自分で選んだ運命だったんですもの! 悪いのは、彼を苦しめて災いを自ら招いた私たち人間よ! あなたには何の罪もないわ!」
「マスター……他に方法がないのですよ。私はあなたに幸せになってほしい。あなたの笑顔を、あなたの日常を取り戻さなくてはならない。お父上やお母上、お友達と暮らすいつもどおりの日常を。それこそが、あなたにとっていちばんの望みなのですから」
「違うわ! だって、私の望んでる幸せな日常の中では、あなたがいつでもそばにいるんだもの! あなたが欠けちゃ意味がないわ! あなたがいなきゃだめなのよ!!」
「マスター……どうかわかってください」
「いや! いや! いや!」
悠美は駄々をこねるこどものように何度も首を振った。
「ジェイク、やめなさい! これは命令よ! そんなことは主人の私が許しません!!」
「いいえ」
ジェイクは穏やかに、それでも頑として拒否した。
「どうしてなの!? あなた、私の言いつけに背いたことなんて一度もなかった!」
「あなたも、私に無理強いをしたことなど一度もありませんでしたよ」
目を細めて微笑む。
「お願い、いかないで……私、あなたがいなくちゃ生きていけないよ……」
「大丈夫、大樹がいますよ。彼は勇敢な男です。私に代わって、あなたをいつでも支え、励ましてくれるでしょう。私が保証します」
「ヒロなんか要らない! あなたじゃなきゃだめなの!!」
ちょっぴりショックだった。相手がジェイクであればこそ許せたけれど。
「マスター……私もできることならいつまでもあなたのおそばにいたいと思う。しかし、いずれは別れのときが必ず来ます。それがたまたまいまだっただけのこと。幸福な人生とは、生きた時間の長さで測られるものではありません。私は十分幸せだった。あなたのそばにいることができたから。あなたの笑顔を取り戻すことさえできるなら、たとえいまここで果てようとも、私は本望なのです」
涙をあふれさせながら、悠美はジェイクの顔を仰いだ。
「どうして私のためにそこまでするの?」
「あなたが、私のすべてだからですよ」
自分の胸にしがみついてむせび泣く悠美の髪を、ジェイクは毛づくろいでもするようにそっとやさしくなで続けていたが、やがて意を決したように最後の言葉を口にした。
「さようなら、マスター」
俺はとても見ていられなかった。ミオに向かって嘆願する。
「ミオ……なんとかならないのか!?」
「ニャらニャイこともニャイわ……」
「え!?」
俺が驚きの声をあげたとき、突然、周りの情景がミルクのような濃い霧にかき消されて見えなくなった。
悠美もジェイクも、他のみんなも、全身を柔らかな光のまゆに包まれたまま、ピタリと動きが止まる。そういう俺も体が動かせない。
ただ一人、ミオだけが何の変化もなく、じっと俺のことを見つめていた。
一体何が──
「ちょっとの間、時間を止めたの」
いつもの肩をすくめる仕草。そんなことまであっさりできちゃうなんて、ミオってほんとにすごいエスパーネコなんだな。
「時間を止めるニャンてのは、ESPとしてはたいして高度ニャテクニックじゃニャイのよ。もっとも、その間にできることは、知覚と思考と意思疎通くらいのものだけど」
(へえ……。で、ジェイクの命を失わずにみんなを元に戻す代わりの方法ってのは?)
「残念ニャがら、代わりにニャる方法ってのはニャイの。でも、あたいとクロスケとで失う寿命を折半すれば、彼は死ニャずにすむわ」
(なんだって!? 一体、どのくらい?)
「そうね……三年か四年か……五年か……」
俺が不安になって問い詰めると、ミオは目を落としながらそこまで答えて言葉を濁した。
だめだ、それじゃ二人とも、結局残りの寿命をほとんど使い果たしてしまうようなもんじゃないか。
「今度のことはね、あたいにも責任があることだから」
(どういう意味?)
「あたいには、スニッターの計画を事前に阻止しようと思えば阻止できた。でも、そうしニャかったの……」
ミオは俺の正面に立ってじっと目を見つめた。
「あたい……一度、こうしてあんたと話をしてみたかったんだ」
(ミオ……)
「でもね……わかったの──」
目を伏せてかすかに微笑む。
「あたいたちの間に、言葉ニャンて要らニャかったんだって。ま、それがわかっただけでも収穫だったけどね。だから、ツケを支払うのは仕方ニャイわ」
(だからって、何年も寿命を失うなんて!)
「クロスケの言ったとおり、幸せニャ時間はあっという間に過ぎちゃうわ。どんニャに必死に願っても、祈っても、いつまでも続く幸せニャンてありはしニャイ。でもね、本物の幸せってのは、いつまでも手もとに置いとけるのよ。あんたたち人間って動物は、そこのところをわかってニャイけどね。午睡の中で、あたいたちはそれを取り寄せて、繰り返し、繰り返し、味わうことができる……。だから、悔いはニャイのよ」
(そんなの、いやだよ……)
俺は悠美と同じように駄々をこねた。
「あんたには悠美がいるじゃニャイ。わかってるのよ。彼女のこと、好きニャンでしょ?」
(悠美のことなんてどうでもいい!)
「さっきの彼女の台詞、怒ってんの? あんニャの冗談に決まってるじゃニャイ。あたいたちの鼻はごまかせニャイのよ」
(違う! 俺がいちばん好きなのは──)
そこでいったんためらったけど、思い切って告白した。どうせ心は読めるんだし。
(ミオなんだ!)
彼女は少し困った顔をしてクスリと笑った。
「おバカさん。あたいは人間の年齢でいえば、あんたのお母さんとたいして変わんニャイんだからね。人間の成熟が遅いから、相対的に若く見えるだけで。そんニャことより──」
俺の首を曲げて悠美たちのほうに向けさせる。
「あの二人には、もう少し執行猶予を与えてあげてもいいと思わニャイ?」
抱き合う悠美とジェイクをじっと見つめる。
親子でも恋人でもなく、それらにも劣らない強い絆で結ばれた不思議な関係。二人で一つの命──。
いまジェイクを失ったら、悠美の魂も半分に砕けてしまうだろう。彼女が心の底から笑える日もなくなるだろう。
俺は涙を飲んでうなずいた。
(わかった。でも、条件がある。三等分にしよう。俺と、お前と、ジェイクの三人で。それならいいだろ?)
われながらいちばん賢い解決法だと思った。本当だったら、自分の寿命をあらかたミオに譲りたいとこだけど。
「わかったわ……」
ミオもうなずいた。
ミオの顔が近づく。彼女のいまの姿も、もう見納めなのか……。彗星の落ちた夜、変身した彼女に出会って以来のことが走馬灯のようにまぶたの裏に浮かぶ。
わかってる。いつものミオに戻るだけだ。だから、悲しむ必要なんてないはずだ。だけど──
不意に意識が現実に引き戻される。ミオの顔はすぐ目の前にあった。ドキッとする。宝石のようなオッドアイに目が釘付けになる。
彼女がまぶたを閉じた。互いの額がそっと触れ合う。それは、キスよりも深い親愛の証だった。
「ありがとう、大樹。あんたの命、一日分だけもらうわね」
(な──!?)
それ以上はもう言わせてくれなかった。
真っ白な霧が、俺たち九人の姿をも飲みこんでいく。頭の奥で澄んだ鐘の音が鳴り響いているようだ。次第に意識が遠のいていく。
そして──
いつもの日常が戻った。
もっとも、何もかもが前と同じというわけじゃなかった。
空白の三日間について、大人たちにはまったく何の記憶もなかった。スニッター彗星の消失とからめて、未知のウィルスか化学物質の仕業ではないかとか、いや、彗星に便乗した某国の陰謀だとか、喧々諤々の議論が飛び交った。
けど、イヌやネコたちがいきなり立ち上がって反乱を起こしたという、こどもたちの証言には、だれも耳を貸そうとはしなかった。
しまいには、こどもたち自身も、あれは夢だったのではないかと思いこむようになってしまった。
結局、真相をすべて知っているのは、事件を引き起こした張本人である犬神スニッターに出会い、一部始終を目撃した俺たち未来ヶ丘中2─Aの五人だけだった。
悠美の提案で、このことはみんなの胸の内にしまっておくことにした。
佳世や美由、拓也はかなり不満げだったが、俺は悠美に賛成した。彼女の不安はわかる。スニッターをひどい目にあわせた連中が、力を失ったジェイクに注意を向けないとも限らないし。
ただ、ラッキーとジェイクが演じたような飼い主派と犬神派の対決は、実は俺たちの学校だけじゃなく、各地で繰り広げられていたらしい。いまでもあのときのことを信じている子も大勢いて、そのうちの何人かとネットで知り合って話を聞いたんだ。
スニッターのまいた種は、こどもたちの間で大きく育って、いつか別の形で実を結ぶんじゃないか……俺はそう信じたい。
ラッキーはクン=アヌンにやられたけががもとで、前のように速く走ったり跳んだりはできなくなってしまった。けれど、いまでも進一と一緒に、前よりものびのびとアジリティを楽しんでいる。
佳世は、自分もいよいよ里親になろうと張り切っている。いま、もらい手を探している子イヌの中からどの子を選ぶか、悠美や美由と相談している最中だ。
大人でただ一人真実を知っている煙突女さんは、ニュータウンから引っ越していった。マサヒトを美由に預けて。彼女(名前はレイアに改名)はまだビクビクしたところが残ってるけど、だいぶ落ち着いてきた。ファルコとは最近いいムードらしい。
そのファルコは、以前と変わらぬやんちゃぶりを発揮している。でも、前よりは素直になったみたいだ。最近は駅前の広場で行われるアジリティの大会に出て、その才能を発揮してみせ、他の出場者を驚かせている。
いちばん変わったのは拓也とテツかもしれない。拓也は親に有無も言わせずテツを部屋飼いにし、首輪もハーネスと取り替えた。土日の部活には二人で一緒に登校する。テツは球拾いやキャッチボールの相手もして、いまじゃ野球部のマスコットだ。
悠美は……あれから一度もESPを発動したことはない。触媒の彗星のかけらもないし、よっぽど何かのきっかけがないと使えないのかもしれない。
けど、俺は思うことがある──もしかしたら、ラッキーを生き返らせたのは悠美じゃなくて、スニッター本人だったんじゃないか、本当は悠美にそんな力はないんじゃないかと。
スニッターはただ、悠美とめぐり合い幸せな五年間を送れたローフのことがうらやましかっただけなんじゃないかと……。
彼女はいま、前にもまして熱心に勉強に勤しんでいる。たぶん、獣医を目指すつもりなんだろうな。
ジェイクは、目も耳も足も悪くなり、いまでは悠美の部屋でじっと寝そべっていることが多くなった。黒々としたつやのある毛並みはすっかり色あせて、前足の先以外にも白い毛が混じっている。美しかったころの姿は見る影もない。
けれど、穏やかな眼差しは、いつでもマスターに向けられている。彼は今でも悠美の騎士なのだ。
ミオは先日、俺のひざの上で静かに永い眠りに就いた──
fin☆