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1 僕はもう死にます




「まったくこの子ったら、何をやらせてもダメなんだから」
 ついさっき、母さんに言われた小言。
「いかんな、そんなことじゃ。翔太の名が泣くぞ、翔太の。せっかく苦心して付けてやったのに」
 こっちは父さん。
「地べ太にすれば? 今日から狛井地べ太。そのほうがお似合いよ。ジョニーのほうがよっぽどお利口で素直じゃない。爪の垢でも煎じて飲ませよっか?」
 たまたま家に帰っていた志穂姉さんまでが、追い討ちをかけるように口にする。ちなみに、ジョニーっていうのはうちで飼っている犬のこと。
 台所に立つ母さんの、「あんたなんか産まなきゃよかった」と言いたげな、うんざりしきった背中。新聞を読む父さんの、「いくらこの子に期待してもしょうがない」というあきらめ顔。弟の僕より犬のジョニーのほうが大事な姉さんの冷たい視線。
 去年より軒並下がった一学期の通信簿を見せたときより、なお悪い。まあ、授業をサボったのがバレて、先生から呼び出しを受けたんだから、仕方ないけど……。
 家だけじゃない。学校にいても同じ。
 駅前の商店街でぼおっとしていたら、たまたま昼休みの時間に巡回に出ていた生活指導の先生に運悪く見つかった。ひととおり説教を食らったあと、僕は五時間目の授業が終わる間際に、こっそり二年B組の教室に戻った。
 おそるおそる後ろの扉を開き、中に足を踏み入れた僕を、みんなが振り返ってマジマジと見つめる。まるでクラスの一員じゃない、新しくやってきた転入生みたいに。いや、転入生だったら歓迎してるか。
「狛井のやつ、もう終わってるよな」
「落ちるとこまで落ちたんじゃねーの?」
「翔太っつうより地べ太だろ」
 教室のあちらこちらで、クスクスと忍び笑いが漏れる。学校でも家でも同じあだ名を付けられるなんて……。いくらからかわれても、言い返す気力もない。
 僕はじっと下を向いたまま、自分の席に着いた。先生は眉をしかめただけで黒板に向き直った。沙織さんまで気まずそうに僕から視線を逸らす。
 狛井翔太って、やっぱりダメなやつだよな──。
 今日一日、学校で、家で、僕がみんなから浴びせられた言葉。
 今日一日、だれからも誉められていない。いや、この一週間、この一月、この一年、だれかに誉められた記憶なんてない。
 それって僕のせいなの?
 違う。意識してダメな人間になりたがるやつなんていやしない。勉強の出来もスポーツの出来も、確かにクラスじゃ下から数えたほうがずっと早いよ。でも、それは自分なりに努力した結果だ。だれが好きで嫌いになるもんか。
 僕にはこれといった特技や趣味と呼べるものもなかった。だれにでも得意なことがある──小学校のころから先生にさんざん聞かされてきたけれど、そんなきれいごと、僕にはうっとうしいだけだった。
 個性とか、自分らしさとか、そういうものがあったらどんなにいいかと、僕だって思う。でも、本当に得意なことが何もないんだもの、しょうがないよ。
 心の底から親友と呼べる友達もいない。別に、友達が欲しくないわけじゃないんだ。でも、マンガの中みたいに熱い友情を語れるわけないじゃないか。冒険も戦いもない日常の生活でさ。
 大体、友達がたくさんいるのは、周りの注目を浴びる才能や、他人を惹きつける魅力に生まれつき恵まれた人だけだ。反対に、僕みたいな落ちこぼれには、だれもあえて近寄ろうとしない。悪ぶって不良グループに加わりたいとも思わない。せいぜいパシリをやらされるのがオチだし。
 僕が特別なわけじゃないんだ。ちょっと勉強が苦手。ちょっとスポーツが苦手。これといったとりえもない。そんな子、どこにでもいるはずだ。ひょっとして、君だって身に覚えがあるんじゃないか?
 だったら、わかると思う。運が悪いだけ。そう、ただ少し運が悪いだけなんだよな──。
 ちょっとは変わるんじゃないかと期待した。これまでと違う、何かいいことが起きるんじゃないかと。集中テストが明けてホッとしたのも束の間、クラスで一ヵ月後の文化祭に向けた準備が始まったときは。
 だれも立候補者が出ず、くじ引きで決めることになった実行委員に、僕は当たった。こういうときに限って当たりを引くんだよな……。僕はいつもながら自分の運の悪さを呪ったものだ。
 けど、次の瞬間、ハズレくじは当たりくじに変わった。二人目の委員に鹿野沙織さんが選ばれたからだ。
 何しろ、沙織さんはクラスのマドンナだ。顔も性格も、B組の女子の中でずば抜けた美人ときてる。
 話し下手な僕じゃ、来年のクラス替えのときまで、彼女と口をきく機会さえ一度もないだろうと思ってた。これは千載一遇のチャンスだ。一緒に委員をやる機会に、あの沙織さんとお近づきになれるかも──そんなほのかな期待は無惨に打ち砕かれた。
 十月末に行われる里見一中の文化祭──里見豊饒祭は、運動部のパッとしないうちの中学が高校並に力を入れている一大行事だ。当日は学校が開放され、父兄だけでなく近隣の住民や他校の生徒も見学に訪れる。県のコンクールに何度も入賞している合唱部を始めとする文化系クラブに加え、各学級も趣向を凝らしたさまざまな企画を競い合う。
 実行委員の初仕事は、まだ未定だったうちのクラスの出し物を早急に決めることだった。熱心な女子のグループが演劇を推していたんだけど、二票差で多数決を征したのは模擬店だった。
 みんなで練習したり、手間暇かけてコツコツ作品を制作することもない。せいぜい教室の内装に凝る程度。当日も、自分が店番のときにちょこっと顔を出すだけでいい。要するに、煮え切らない連中がクラスの過半数を占めたってこと。
 これじゃ、だれもやる気なんて起きやしない。必然的に、実行委員にお鉢が回ってくることになった。
 ホームルームの時間、衛生管理や食材の調達の担当者をだれがやるかでもめにもめ、時間ばかりがズルズルと過ぎていった。職員会議で担任も不在では、だらけムードに拍車がかかるのは避けられない。
「実行委員にやらせろよ。そのためにいんだろ?」
「ハイ、決まり決まり! さっさと帰ろうぜ」
「ウッシ」
 熊沢、猿橋、猪口の三人が口をそろえ、ペッタンコのカバンを手に席を立とうとした。2―Bの問題児三人組だ。マンションの駐車場のすみで三人が煙草をふかしてるところを目撃したこともある。一年坊主相手にカツアゲくらいしてそうだ。僕自身は被害に遭ってないけど──いまのところは。
 そもそも模擬店をやろうと言いだしたのはこいつらなのに。最初からやる気のかけらもなくて、演劇なんてメンドイからというだけの理由で対抗馬を立てたんだろう。
「クラスみんなで分担してやらないと、意味がないですよ!」
 委員として一応説明者の立場にあった僕は、ズバリそのことを指摘した。みんなの前で滅多に発言したことのなかった僕の声は、緊張も手伝ってつい非難の色を帯びてしまった。自分ばかり重荷を押し付けられたくなかったのも本音だけど。
 リーダー格の熊沢が頬をピクッと引きつらせて、僕をにらみつけた。
「おい、狛井。お前、何様のつもりなわけ? それってチョー責任逃れの発言だよなあ。案出してやったのだれだと思ってんの?」
「一人で興奮してんじゃねーよ。女みてえな声出しやがって」
「金玉ついてんのかぁ?」
「チェックチェック!」
 いつも下品なことしか言わない猿橋が、ゲラゲラ笑いながら僕につかみかかってきた。彼に羽交い絞めにされている間に、他の二人がジャージのズボンを脱がしにかかる。
「やめろよぉっ!」
 僕は必死になって叫びながら、三人の腕から逃れようともがいた。けど、腕力でこいつらにかなうわけがない。ジャージの中の短パンにまで手がかかり、背中のシャツの下が見え始める。じかに肌に触れる教室のひんやりした空気に、僕はパニックに襲われた。額にどっと冷や汗が吹き出る。
 沙織さんが顔をしかめながら立ち上がった。
「ちょ、ちょっとやめなさいよ、熊沢君たち! かわいそうじゃないの」
 そのとき、ガラッと扉が開いて担任の鳥羽先生が入ってきた。
「何騒いでんだ、お前ら!」
 要領のいい熊沢たちは、パッと僕から手を放し、何事もなかったかのようにとりつくろった。
「おはざっス」
「会議ご苦労さんス」
「先生、さようなら」
 ニヤニヤしながら自席へ戻る。先生はジロッと教室の中を見回しただけで、声もなく肩をふるわせている僕と視線を合わせようともせず、またスタスタと出ていってしまった。
 僕はただ悔しくて、訴える言葉も出てこなかった。涙が目の端からこぼれ落ちたのは、先生が教室を去ってだいぶたってからだった。
 沙織さんはまだ僕に同情の視線を注いでたけど、痛いだけだった。こういうときに、意中の女の子にかばわれるのは、うれしいどころかなおさらみじめなだけだ。悪ガキどもに石を投げつけられているみすぼらしい犬や猫みたいに、「かわいそう」の一言ですまされるなんてやりきれない。
 僕は進まない議事をうっちゃったまま、無言で教室を飛び出した。
 そうだ。僕なんかが彼女に尊敬されたり、頼りにされるような展開なんて、あるわけなかったんだ。僕と彼女とじゃ月とスッポン、釣り合いっこないのも、最初からわかりきっていた。
 それがつい昨日のこと。
 学校へ行きたくなかった。だから、行かなかった。
 僕は何も悪いことなんてしちゃいない。やりたくもない実行委員を任されて、仕方なく義務を果たそうとしただけ。なのに、なんであんな目に遭わされなくちゃいけないのか? みんな、いじめられる僕を見て見ぬふり。沙織さんだって結局、ちょっと注意する以上のことはしてくれなかったじゃないか。同じ実行委員なのに。どうして僕だけが?
 理由はわかってる。
 僕がダメな人間だから。狛井地べ太だから。
 ちょっぴり運が悪いだけ。それでも、ダメ人間はやっぱりダメ人間でしかない。
 このまま登校拒否児にでもなっちゃおうか、とも考えた。小学校のとき、テストや発表会がいやで、腹痛を装ってズル休みをしたことも何度かあったし。
 でも、中学になったいまは、そんなことをしたって問題を先送りするだけで、何の解決にもならないこともわかってる。それに、いま自分だけ実行委員の責任を放棄したら、沙織さんにだってきっと毛虫みたいに嫌われるに違いない。あるいは、すぐに次の委員が決まって、僕のことなんかあっさり忘れられちゃうかもな……。
 だからといって、他にどうしようもない。道理はわかるよ。でも、我慢して学校へ行ったところで、何一ついいことはない。
 高校へ行ったって、同じことが繰り返されるに決まってる。大人になってからも、やっぱりダメ人間の烙印を押されて、会社の上司や同僚にいびられたり無視されるんだろう──いまの先生やクラスメイトと同じように。だれも僕のことなんて気にやしない。
 毎日毎日、一年三六五日、辛い目に遭うばかり。それが、生きている限り続くんだ……。
 もういいや。何もかもいやになった。疲れちゃった。
 声がひとりでに口をついて出た。
「死のう」

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