次の日、自殺を決意した僕は、一日中無言で通した。母さんでも姉さんでも、沙織さんでもいい、だれか僕の異変に気づいて、引きとめてくれないだろうか──という気持ちもまだあったから。でも、そんな虚しい願いも結局空振りに終わった。どうせ僕が生きようと死のうと関係なく、この世界は回っていくんだ……。
母さんを僕の死体の第一発見者にさせるのもどうかと思い、家で死ぬのはやめにした。昨日指導室で説教を食らったばかりだけど、僕はこの日も二時間顔を出しただけで学校を早退し、死に場所を求めて街をさ迷った。
道行く人々は、この時間にウロウロしている僕に目もとめない。先生もおまわりさんも、こういうときに限って現れない。お前は世の中に必要とされない存在だ──だれもが僕にそう宣告しているみたいだ。
さて、どうやって死のうかな? ホームで電車に飛びこむのは、他人にいっぱい迷惑がかかるし、遺された両親が多額の賠償金を支払わされるとか聞いたこともあって、選ぶ気はない。第一怖いし。まあ、よっぽどひどい死に方でもなきゃ、とくにこだわりはないけど。オーソドックスに首吊りにしようか。
その気になれば人は簡単に死ねる。ドアノブとタオルがあれば三十秒でハイ、さよなら──。そう教えてくれたのはだれだったか、ネットゲームで知り合ったチャット友達か、それとも従兄弟のお兄さんだったかは、もう忘れちゃったけど。
むしろ問題は死に場所のほうだ。人気のないところでひっそりと死にたいと思うのが普通かもしれない。けど、僕はそんなふうに人知れず死ぬのはごめんだった。
僕が自殺するのには理由がある。僕の周りにいた人たちには、それを知っておいてほしい。そのために、遺書もしっかり用意してきた。
けど……僕の遺言を読んで、僕への仕打ちを後悔する人、僕のために泣いてくれる人が、はたしているだろうか?
熊沢たちは絶対無理だな。僕のお通夜の席で、葬式まんじゅうを頬張りながら、ゲラゲラ笑ってそうだ。沙織さんはどうかな? 泣いてくれるかな?
ぼんやり考えているうちに、学校の近くまで戻ってきてしまった。通学路からそれほど離れていないところに生い茂る雑木林が目に入る。手ごろな木もあるし。案外ちょうどいいかもな。
重い足取りでしばらく林の中をうろつき、決行のポイントを探す。結局ここに至るまで、だれかに慰留されるどころか、声一つかけられなかった。
最後の最後までダメ男の地べ太のまま、か……。
木の幹にビニールの紐をかけて引っかかり具合を確かめてから、今しも輪の中に首をつっこもうとしたときだった。
ふと、だれかの視線を感じて後ろを振り向く。
だれもいない。
いや、いた。目を下に向けると、そこにいつも見慣れた顔があった。
ジョニーだ。
彼はシェトランド・シープドッグ、いわゆるシェルティ。普通のシェルティは白・黒・茶色の三毛だけど、彼の場合は青味がかったグレーが入っている。志穂姉さんにいわせると、ブルーマールと呼ばれ、ジョニーが家に来た当時はかなり珍しい毛色だったとか。そして、ジョニーは毛色以外の点でも、少々風変わりなところのある犬だった。
それにしても、なんでこいつがここにいるんだろ? 大雪や台風のとき以外、ジョニーの居場所は玄関脇の小屋だ。綱が外れてここまでやってきたんだろうか? もしかして、僕のことを心配して?
けど、ジョニーの僕を見る目つきは、なんだか浮き浮きしているように見えた。まるでこれから散歩に出かける直前みたいに。
考えてみれば、僕とジョニーは一家の中でそれほど親しい間柄というわけじゃない。
今年でちょうど十歳になるジョニーが狛井家にやってきたのは、僕がまだ幼稚園のころ。イマドキの女子大生を地でいく感のある姉さんも、もちろん当時はいたいけな小学生の女の子だった。そして、彼女はいたいけな女の子らしく、新しい家族の一員となったジョニーに首ったけになった。
ただ、ジョニーの場合、仔犬のうちから姉さんの母性本能をくすぐるべく演技力を発揮していたように、僕の目には映った。すでにそのころから、僕は〝弟の座〟をめぐるジョニーとの競争に負けていたんだと思う。
おとなになってからも、ジョニーは典型的な〝よい子〟だった。知らない人にも、うなったり噛みついたりしたことはない。といって、ベタベタ甘えるほど無節操なわけじゃない。犬づきあいも上手だ。
そのうえ、ジョニーはそつなく多くの芸をこなす天才ぶりを発揮した。お手やお座りはもちろんのこと、郵便受けから新聞をとってきたり、合図があるまで鼻の上におやつを乗っけたままじっと待つ芸だってやってのける。こどものころ姉さんが面白半分で覚えさせた芸だけど、レパートリーは二十を下らないだろう。飲みこみも早くて、一つ覚えるのに数日とかからなかった。テレビのペット特集番組に登場する芸達者なアイドル犬たちにも負けちゃいない。
ジョニーは単にお利口な犬というより、要領がいい犬といったほうが正解だった。とりわけ、姉さんと一緒にいるときの彼は、旺盛なサービス精神を見せつけた。その場の空気を読んで、相手を喜ばせるツボを心得ているという感じ。
その点、親や先生の期待に背いてばかりの僕とは、まるきり正反対のタイプだ。自然に、僕は彼と距離を置くようになった。お散歩もほとんど姉さん任せだったし。
こんなことを言ったら笑われるかもしれないけど、僕はジョニーに対して一種のコンプレックスを抱いていたんだと思う。彼もその辺りは察していたに違いない。家族四人の中でも、僕だけ少しなめられていた気がする。おやつを鼻の上に乗せる芸も、僕がやろうとすると、姉さんのときと違ってすぐにペロリと食べちゃうし。
たとえ犬一匹でも、僕の身を案じてくれたのかと思ったのに、勘違いとわかった僕は、一層みじめな気分にとりつかれた。僕ががっくり肩を落としてため息をついたとき──文字どおり耳を疑う出来事が起こった。
「ねえねえ、翔太。もしかして、いまから自殺するとこだったりする?」
僕はハニワみたいに口と目をあんぐりと開けて、ジョニーの顔をマジマジと見つめた。
い、いま、ジョニーがしゃべった!!??
「もったいないなあ。僕がもし人間だったら、勉強したり、友達とおしゃべりしたり、いろんなところを見て回ったり、やりたいことが山ほどあるのに。死んじゃうなんて、いや~、本当にもったいないことしちゃうなあ」
案の定、ジョニーのやつは、自殺を図ろうとした僕の身の上に同情してくれるどころか、まるで物見遊山の口ぶりだった。ニヤニヤしながら、「もったいない」という言葉を連発する。犬が人語をしゃべるという尋常でない事態はひとまず脇に置いて、僕は彼をジロリとにらみつけた。
「お前、そんなこと言うけどな。人間をやるのがどれだけ大変なことか、犬コロのお前にわかるわけないだろ?」
僕がつっけんどんにそう言うと、ジョニーはいたずらっぽく片目を吊り上げ、僕の顔をのぞきこんだ。
「え、なに? ひょっとして、やらせてくれるのかい? 人間」
「何言ってんだよ。そんなこと、僕にできるわけないじゃんか」
僕がボソボソと答えると、ジョニーは僕に顔を近寄せ、悪だくみでも働くようにささやきかけた。
「いや、これがわりかし簡単なんだな。自殺なんかするよりよっぽどね。そりゃそうだろ? 自分の体も心もきれいさっぱり消し去っちゃうくらいなら、僕と君とで心を交換するくらい朝飯前ってもんだ」
「そ、そうなの!? でも、一体どうやって?」
半信半疑のまま、僕は彼に聞き返した。犬のお前と人間の僕とで体と心を入れ替えるだって? そんなこと、逆立ちしようが百回側転しようが無理に決まって──
いや、待てよ? こうやってジョニーの話す言葉がわかること自体、突拍子もないことには違いない。まるっきりでたらめってわけでもなさそうだぞ?
一応せっかく両親に授かった体だ。彼の言うとおり、死んで燃やされて灰になっちゃうのに比べれば、全然マシかもしれない。どうせ死ぬくらいなら、いっそのこと犬になってみるのも悪くないかもな……。
そんな僕の考えを読んだかのように、澄んだブルーの目がキラリと光る。
「ね? なかなかの妙案でしょ? どうせ自殺するくらいならさ、僕と体をとっかえっこしてみないかい?」
「お前、人間の生活習慣とかちゃんとわかってるんだろうな? 僕の体で犬みたいなまねするなよ? なんだかんだ言ってもやっぱり恥ずかしいし」
「その点なら問題ないさ。僕は君のそばで何年も暮らしてきたんだし、くせやなんかも知りつくしてるからね。任せといてよ。それに、お互いのこれまでの記憶は引き継ぐことになるから」
腕組みをして、時計の秒針がさらに何周かする間考えた末、僕は思い切って彼の提案に乗ってみることにした。
「わかったよ、ジョニー。その、体を交換する方法ってのを教えてくれ。ただ……お前が僕に成り代わったって、いい目を見る保証はしないけど、かまわないんだな?」
「もちろんだとも」
これで交渉成立とばかり、ジョニーはにんまりと目を細めた。
「じゃあ、いまから僕の言うとおりにしてくれるかい? 右手で僕の左前足を、左手で右前足を握って。そう。そしたら、僕と額をくっつけ合わせて目を閉じて。一からゆっくり数を数え始めて」
言われるままにジョニーの額に自分の額を押し当て、一から数を数えはじめる。犬の言うことを真に受けるなんて、われながらどうかしてると思いつつ。まだ彼の話を額面どおり信じたわけでもなかった。大体、こんな簡単に人間と動物とが体を交換できるんだったら、昔の人がとっくに試していそうなもんだ。まあ、気休めでも別にいいや……。
二十まで数えたあたりで、だんだんバカバカしくなってきた僕は、もういい加減やめようとした。けど、やめなかった。
いや、やめられなかった。
口が勝手に動いて、念仏みたいに数を数え続けている。そのうち、変な薬でも飲まされたみたいに、周りの景色が奇妙にゆがみはじめた。耳から入ってくる僕の声も、他人の唱えるお経みたいに聞こえる。
頭の中がじいんとしびれたようになり、だんだん眠くなってきた。
ダメだ、眠っちゃ。眠ったら……どうなるんだ!? まさか本当に、本当に犬になっちゃうの!!??
僕は眠気に抵抗しようと、重いまぶたをむりやりこじ開けようとした。ぼんやりとかすんだ視界に、青々としたジョニーの瞳がいっぱいに広がった。それが、人間としての僕の目に映った最後の光景だった──。