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3 こんなはずじゃ……




 目を開くと、僕はなんだかずいぶん狭くて暗いところにいた。
 どこだろ、ここは? どうも頭がすっきりしない。いままで何をしてたんだっけ? 確か授業を抜け出して、それから、ええっと……ぼんやりした頭で記憶をたどろうとするが、はっきりと思い出せない。
 さっきから体中がムズムズ、ゾワゾワする感じで、妙な違和感が拭えない。とりあえず、この居心地の悪い場所から出ようと、僕は足を一歩踏みだした。
 そこは見慣れたはずの僕の家の玄関だった。でも、いつもと違う。どこがどう違うのかうまく説明できないんだけど、なんというか全体的に……そう、異様に大きかった。ドアのノブの位置が目線よりはるかに高い。まるで自分が小人にでもなった気分だ。
 突然、たったいま目覚めたばかりのように意識がはっきりしてきた。
 僕がいたのはジョニーの犬小屋だ!
 後ろを振り返って赤い三角屋根の小屋を見つめ、再びわが家に向き直る。家が巨大化したわけじゃない。僕の体が小さくなったんだ──犬のサイズに。
 顔に手をやろうとしたけど、それはもう手じゃなくて、指の一本も満足に動かせない前足だった。
 一体どうして!? 一瞬、息もつけないほどのパニックに襲われる。
 そこでようやく、僕は自分が犬になった経緯をすべて思い出した。
 もう一度前足を見る。〝交換の儀式〟の前に握ったジョニーの前足にそっくりだ。鏡の前に立てば、そこに映っているのはきっと、パッとしない中学生の男の子ではなくて、シェルティの長い鼻面のはず。
 ここに至って、僕はやっとことの重大さに気づいた。毛皮におおわれた前足の間に鼻先をうずめ、なんとか気持ちを落ち着かせようと努力する。
 まさか、本当にこんなことになるとは思わなかった。ジョニーのやつにまんまといっぱい食わされた気分だ。体をとっかえっこしようと持ちかけられて、やすやすと応じたのは僕自身だけど……。
 自殺するのも犬になるのも、これまでの人生を捨てるという意味じゃ、たいした差はない。ジョニーの提案に首を縦に振ったのは、そう思ったからだ。自分を殺すことに比べれば、犬にでもなるほうが抵抗は少なかったし。
 けど、いざ実際に犬の身になってみると、人間だったときとはあまりに勝手が違いすぎて、戸惑うばかりだ。
 うめき声をあげようとしたけど、横に大きく裂けた口から漏れたのは、「ヒンヒン」という鳴き声だった。
 しばらく考えをめぐらせているうちに、少しずつ冷静さを取り戻す。そうなると、今度は細かいことが気になり始めた。
 犬が首輪をはめ、鎖でつながれるのは当たり前のことだと思ってたけど、いざ自分が拘束されてみると、これほど神経に障るものはない。僕が動きまわれるのは、せいぜい三メートルの範囲。自由を奪われるとはどういう意味か、僕は初めて知った。ジョニーはいつもそれほど気にしているふうには見えなかったけど。
 それとも、あいつも本当は、こんな狭苦しい小屋につながれているのがいやだったのかな? もしかして、これって一種の仕返しなんだろうか? でも、家族の中で僕だけがこんな仕打ちを受けるのも割に合わない話だ。
 と、敏感になった僕の耳に、家の中の声が聞こえてきた。ちょっと鼻にかかったようなあの声の主は、ほかでもない《僕》だ。
「──そういうわけだから、安心してよ」
「へえ……これから、私がいない間も翔太がジョニーの面倒を見てくれるっていうの? あんたにしちゃずいぶん殊勝な心がけよね」
「ほんと、どういう風の吹き回しかしら? 雪でも降らなきゃいいけど」
「アッハハ」
 姉さん、母さんと談笑している《僕》の声を聞いているうちに、無性に腹が立ってきた。
 二人とも、なんでそんな簡単にだまされちゃうんだよ!? そいつは僕じゃない! ジョニーなんだ!!
 玄関のドアがガバッと開き、僕はたじろいだ。そこに立っていたのはまぎれもなく《僕》だった。鏡や写真じゃない実物の自分と向き合うのは、なんだかとても奇妙な感じだ。
「やあ、《ジョニー》。小屋暮らしは窮屈だろ? 今日から僕の部屋へおいでよ」
 僕は途方に暮れて、にっこりと微笑む《僕》の顔を見上げた。

 鎖を解かれた僕は、本来なら僕のものであるはずの部屋に迎え入れられた。
 犬小屋で鎖につながれっ放しだったのを解放してもらったんだから、ここは礼を言うべきなのかもしれない。けど、いかにも主人面をしてくつろいでいるジョニーを見ていると、感謝する気分も半減だ。
「後でちゃんとしたトイレも買ってくるけど、それまで部屋のすみにペットシーツを敷いた段ボールを用意してあるから、そこで用を足してね。もう仔犬じゃないんだから、大丈夫かな?」
「おい、ジョニー! 一体どういうつもりだ!? 最初っから、こんなふうに僕をハメるつもりでいたのか!?」
 ジョニーはきょとんとして、しばらく僕の顔を見つめてから、こう言った。
「どうしたの、《ジョニー》? お腹でも空いたかい? わかってると思うけど、ご飯は散歩の後だよ」
 しらばっくれてるのかな? それとも、ひょっとして、本当に僕の言っていることがわからないんだろうか? さっき体を交換する前には、確かに犬のジョニーのしゃべる言葉を人間の僕にもはっきりと理解できたのに。もっとも、いまの僕の台詞は、自分の耳でも「ワンワン!」としか聞こえないんだけど……。
 僕は意思疎通の試みを放棄し、ふてくされてカーペットの上にゴロンと横になった。

 《僕》に変身したジョニーが部屋を留守にしている間、僕はこのとんでもない状況をどう受け止めるべきなのか、必死に頭を働かせて考えた。
 いまのところ、ジョニーは母さんと姉さんに正体がバレることもなく、うまく僕の身代わりを演じている。あの二人で大丈夫なら、父さんは言わずもがなだろう。
 ジョニーはただでさえ頭の切れる犬だった。変身前に彼自身が言ったとおり、僕のことをそばで観察してきたから、僕らしく振る舞うこともさほど難しくないに違いない。このままずっと《僕》が僕になりきっちゃうことも、十分ありえる。
 僕らが心と体を交換するとき、ジョニーは「お互いの記憶はそのまま引き継ぐ」と言っていた。だから、《僕》が学校の勉強とかで困ることもないだろう。少なくとも、僕自身以上には。下手をすると、テストで僕よりいい点を採って、成績が上がっちゃうかも……。
 もっとも、もし《僕》が何かヘマをやらかしたとしても、《ジョニー》になった僕にはどうすることもできない。どのみちこの世とおさらばするつもりだったんだし、僕の後釜が恥をかいたところでどうってことないもんな。
 ジョニーと取引したことを後悔するつもりはない。するもんか!
 そう自分に言い聞かせ、元の体とジョニーのことより、ジョニーの体に収まった僕自身の今後に思いをめぐらせる。
 室内飼いへの昇格をみんなに納得させてくれたことに関しては、やっぱりジョニーに感謝すべきだろう。夜中も犬小屋で一人寂しく過ごすなんて、いまの自分にはとても耐えられそうになかったから。
 問題は、この先はたしてジョニーに代わって犬になりきることができるかどうか、だ。部屋の犬用トイレを使うのはまだしも、道端で堂々と用を足すのはかなり勇気が要りそうだ。ご飯が毎日同じドッグフードばかりなのも寂しい。第一、いかにも不味そうだし。いまから不安が募る一方だ。
 僕が思案に暮れていたとき、玄関のチャイムが鳴った。
 最初は宅配便か押し売りだと思ったけど、そうじゃない。犬になったせいで敏感になった鼻が、来客の匂いを嗅ぎつけ、僕の知っている相手だと教えた。
 ムム、この匂いは──もしや!?
「あ、あの……こちら狛井翔太さんのお宅ですよね?」
 これまた敏感になった耳に、インターホンに向かっておずおずと話しかける女の子の声が聞こえてきた。
「翔太ぁ! 鹿野さんて子が心配してお見舞いに来てくれたわよ。まったくもう、しょうがないんだからあの子は……」
 母さんが玄関で叫ぶ。
 やっぱり沙織さんだ! ダッと駆けだそうとして、踏みとどまる。
 そうだ、今の僕は《ジョニー》だったんだ……。
 僕の代わりに《僕》が出迎えた。さもうれしそうに顔をほころばせて。
「こんばんは、狛井君。ええっと、その……大丈夫?」
「うん。ごめんね、心配かけちゃって。明日はちゃんと学校行くからさ。それにしても、わざわざ訪ねてきてくれるとは思わなかったなあ」
 沙織さんはモジモジした様子で、宿題のプリントを手渡しながら《僕》に答えた。
「ううん。なんだか狛井君一人に責任を押し付けちゃったみたいで……。ともかくごめんなさい。文化祭のほうは、クラスのみんなもちゃんと協力するって言ってくれてるからさ。元気出してよね?」
「そっか。よかった。それならすったもんだした甲斐もあったってもんだな」
 そう言ってジョニーが笑う。おいおい、すったもんだしてさんざんな目に遭ったのは、お前じゃなくて僕なんだぞ?
「……なんか、元気そうでよかった」
 沙織さんは少し《僕》の顔を見つめてから、ホッとした様子で微笑んだ。
「ところで、外に小屋があったけど、犬いるの? そのげた箱の上に置いてあるの、お散歩用のリードだよね?」
「ああ、シェルティなんだけどね。《ジョニー》っていうんだ。今年で十歳」
「へえ」
「会ってみる? いまは僕の部屋にいるから、呼べばすぐに来るよ」
 興味しんしんといった口ぶりの沙織さんに、《僕》が持ちかける。
「うん! 会ってみたぁい」
 ジョニーのやつが下から二階に向かって僕を呼んだ。
「《ジョニー》、おいで! お客さんだよ。お前も会いたいだろ? 彼女に」
 そりゃもちろん、せっかく沙織さんが僕の顔を見に立ち寄ってくれたんなら、会いたくないわけはない。でも、一体どんな顔して出ていけばいいんだ……。
 迷った僕が部屋の中をグルグル回っていると、また沙織さんの声が聞こえてきた。
「あら、恥ずかしがり屋さんなのかしら?」
「いや、そんなことないよ。知らない人でも全然人見知りしないし。沙織ちゃんだったらなおさら平気だよ」
 ジョニーのやつ、いきなり彼女のことを下の名前で呼んでやがる。しかもちゃん付けだ。僕が話すときは鹿野さん止まりで、目を真っすぐに見ることもできないのに。
 むかっ腹が収まらなかったけど、彼女をがっかりさせるわけにもいかないと、仕方なく重い腰を上げる。
 廊下に姿を現した僕を見て、沙織さんの顔にパッと笑みが広がった。
 僕がおずおずと彼女のそばに近づくと、身をかがめて喉もとに手をやり、くすぐるようになでてくれる。なんだか恥ずかしいや。
 彼女はうれしそうに目を細めて《僕》に視線を戻した。
「カワイイ♪ 青毛が入ってるんだ。珍しい毛色のシェルティね」
「うん。ブルーマールのシェルティは少ないんだよね。最近ちょっと人気が出てきたみたいだけど。でも、沙織ちゃんが犬に詳しいとは思わなかったなあ」
「うちにもいるのよ。ダルメシアンでね。名前はミスター」
「そうなんだ。ダルメシアンかあ。外飼いなの?」
「ううん。うちも中飼いよ。ミスターもお利口さんだから。いろいろできるのよ。アジリティとかもね」
「へえ。すごいや」
「お散歩には狛井君が行ってるの? ミスターは私が夕方の番で、学校から帰ってから出かけるんだけど」
「うちは姉さんが面倒みてたからさ。今年都内の女子大に入学して、いまはたまにしかうちに帰ってこないんだけど。それからはときどき僕も散歩に行ってるよ」
 本当にときどきだったけどね……。それにしても、もし彼女の家でも犬を飼っていることを前もって知っていれば、母さんに任せずに僕がジョニーの散歩を引き受けるんだったなあ。そうすれば、散歩コースで彼女に会ったりして、もっと早く親密になれたかもしれないのに──僕の体をジョニーに乗っ取られる前に。
「狛井君ってお姉さんがいるんだ?」
「うん。いまちょうど家に帰ってるよ。ついさっき買物に出かけちゃったけど。いたら紹介できたんだけどね。姉さんには未だに頭が上がらないよ、こいつと同じで」
「フフ、そうなんだ。私は一人っ子なの。ちょっとうらやましいかな……。まあ、ミスターが弟みたいなもんだけど」
 談笑する二人をそばで見ているうちに、自分があまりにもみじめに思えてきた。
 いま、沙織さんとおしゃべりし、笑い合っているのは、間違いなく《僕》なのに、僕じゃない。このくらいの会話なら、僕にだってできたはずなのに。彼女とコミュニケーションしようと思えば、その気にさえなれば、こんな簡単なことだったのに……。
 いたたまれなくなった僕は、笑いさざめく二人をその場に残して、トボトボと部屋へ引きあげた。
「あら? どうしたのかしら? 私、嫌われちゃったのかな?」
「そんなはずないさ。きっと《ジョニー》のやつ、僕たちが話しこんでるもんだから、やきもちでも焼いたんじゃないかな?」
「え~、まさかぁ」
 くそ、ジョニーのやつめ。いまに見てろよ……。
 僕は泣きだしたい気分だった。

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