自宅に帰る沙織さんを《僕》が近くまで送っている間、僕はひたすら後悔の念に駆られていた。
本当に取り返しのつかないことをしてしまった。なんとか元の自分に戻ることはできないだろうか?
そもそもジョニーの仕業なんだから、彼だったらこの変身を解く方法を知っているはずだ。でも、彼のほうで教えてくれる気がない限り、僕にそれを知る術はない。
ジョニーのやつは、僕の言葉が聞こえているんだかいないんだか、ともかくわからないふりをしている。いまの彼は、僕と入れ替わることで手に入れた人間の身分を満喫しているみたいだ。沙織さんとだってあんなに楽しそうにおしゃべりして……。再び犬に逆戻りする気はさらさらないだろう。となると、僕にはもうどうすることもできない。
「《ジョニー》。ちょっと散歩にでも行こうか」
部屋に戻ってきた《僕》=ジョニーが、朗らかな笑顔で《ジョニー》=僕に向かって言った。
僕は不承不承彼の後に従い、家の門をくぐった。ジョニーは僕にリードを着けなかった。部屋飼いの件も含め、一応僕への気配りのつもりなんだろう。もっとも、姉さんはジョニーを平気でノーリードのまま連れだしていたんだけど。
「沙織ちゃんってかわいいよねぇ。犬好きな点も気に入ったし」
家から出て数分もしないうちに、ニコニコしながら《僕》が話しかける。僕は邪険に尻尾を一振りしてそっぽを向いた。
人が犬に向かって話すとき、たいていそれは独り言だろう。けど、こいつの場合、僕が人語を解するのを承知のうえなわけで、要するにあてつけ以外の何物でもない。こいつのニヤケた顔を見ているだけでも、腹立たしくて仕方がなかった。顔自体は僕のものなんだけど……。
「今度、一緒に散歩に行こうって、学校で彼女に持ちかけてみようかな。《ジョニー》もきっと友達になれると思うし」
……。僕の友達はダルメシアンのほうだっていうんだろ? ミスターっていうくらいだから、当然オスのはずだし。いや、別にメスだったらどうってわけじゃないけど。
ジョニーのやつ、自分はもうすっかり沙織さんのBF気取りなのか。本当は僕がそっちになるはずだったのに……。
僕はまたムシャクシャしてきた。後ろ手を組んで口笛を吹き始めた《僕》の気の緩んだ隙に、ダッとばかり駆けだす。
「あっ!? ちょっと《ジョニー》ってば、待ちなよ! あいたっ!!」
どうやら《僕》は何かにつまづいて転んだらしい。ジョニーも人間の体にまだ十分なじんでいなかったんだろう。運動神経もスポーツ音痴の僕のままだし。僕は彼の叫び声も無視して走り続けた。
道の角を曲がって《僕》の姿が見えなくなるところまで来て、僕は足を緩めた。《ジョニー》の足で全力疾走すれば、のろまな《僕》の足じゃ追い着けるはずがない。
かまうもんか。少しぐらい困らせてやらないと気がすまないや。もしかしたら、転んだ拍子にケガでもしたかな? まあ、もともと僕の体ではあるけど、戻れないんじゃ気にかけたってしょうがないし。ジョニーのやつも、人間の体の不便さってものをちょっとは思い知ればいいんだ。
住宅街の間を抜ける緑道を、一人──いや、一匹でトボトボと歩く。いまさら嘆いたところで始まらないけど、それでも僕は自分の運命を嘆かずにはいられなかった。歩きながらも、長い口から漏れるのはため息ばかり。
僕は自分を、何をやってもダメな人間だと思いこんでいた。けど、さっき沙織さんと和やかに会話を楽しんでいたのは、間違いなく《僕》だ──中身はジョニーだとしても。
確かに、社交的な性格のジョニーだからこそ、気軽に話しかけることもできたんだろう。でも、沙織さんにしろ他の友達にしろ、勇気を振りしぼって積極的に話しかけて仲良くなろうと思えば、きっと僕にだってできたはずだ。
なんで早まって自殺しようとしたんだろう? なんでジョニーとの取引に応じちゃったんだろう? 本当にバカだった。もう一度元の自分に戻って、一からやり直したい!
虫のいい望みだってことはわかってる。確かに自業自得だ。けど、もう何もかも手遅れなんだろうか? リセットボタンを押して、元の人間の体に戻ることは、二度とできないんだろうか……?
ふと、感度の上がった僕の耳に、何かの騒ぐ声が聞こえた。猫、かな?
先の折れた耳を動かして方向を確認すると、興味本位で声のするほうへ足を向ける。
思ったとおり、そこには一匹の猫がいた。ちょっと大柄な黒いトラじまの猫。そいつは木陰の草むらの中で何かの動物と取っ組み合っていた。ネズミでも捕まえたんだろうか?
近づいてよく観察してみると、黒トラの相手はネズミじゃなかった。もっと大きくてひょろっと細長い動物だ。威嚇しながら前足を振り下ろす猫に向かって、その動物もシャーッとヘビみたいな声をあげながら、噛みつこうとしたり、足蹴りを食らわせたりしている。
僕が接近したのに気づいた猫の気が逸れた。不機嫌な声でこちらに向かって怒鳴る。
「ああ!? なんや犬コロ! 邪魔する気ならワレもいてもうたるで!」
気勢を張っているものの、腰が引けているのは一目瞭然だ。僕は猫から距離を置いたままちょこんと座りこんだ。暴力をふるう気はないという意思表示のつもりで。
「ねえ、君。その子、放してあげなよ? かわいそうじゃないか」
「何がかわいそうなわけあるかい! 他猫が気持ちよう昼寝しとるときに、いきなり鼻の頭に噛みつきよってからに! こんな悪ガキのチビは一度しばいたらなあかんわ!」
「あれ、食べるつもりじゃなかったの?」
僕が意外そうに尋ねると、ネコはうんざりしたような声で答えた。
「こんなくっさいイタチなんぞだれが食べるかい、ボケ! ああ、気分悪いわ! ったく、胸クソ悪うてかなわん」
のっそりと立ち上がって背を向けた黒トラに、さっきまで前足の下で暴れていたその小さな動物が甲高い声でまくしたてた。
「何よぉ、あたいのどこが臭いってのさ? あんたみたいにそこら中しっこ引っかけまわってるオス猫に言われたかないわよぉ! このすっとこどっこいニャロメ! 一昨日来やがれっての! あっかんべえ~だ!」
自分の倍以上ある猫に向かって、その子はちっちゃな舌を思いっきり突き出した。まるで鬼の首でも取ったかのような威勢のよさだ。ほとんど玩具にされてるようにしか見えなかったんだけど……。
「君、大丈夫かい? ケガとかしてない?」
心配して声をかけた僕に、その子はきっと目を向けた。
「あんたもまた余計なことしてくれたものね。おかげで、今日の晩ご飯が逃げちゃったじゃないのよぉ!? 」
「えっ!? き、君のほうが食べるつもりだったのかい? さっきの猫を!?」
驚いて目を丸くする僕に、彼女は挑むような目つきでにじり寄ってきた。
「こうなったら、体で支払ってもらうっきゃないわねぇ。今晩のおかずはあんたに決定! さあ、どこからいただいちゃおうかしら? その長ぁい鼻? 耳もやわっこくて美味しそうねぇ。胃に毛玉がいっぱいたまっちゃいそうだけど。それとも、やっぱりお腹? でも、あんた、あんまし肉が付いてなさそう……」
うわ、小さい体なのにどうもうな動物だ。そういえば、さっきの猫も寝ているところを鼻に噛みつかれたとか言ってたっけ。
縮こまって恐々と見返す僕に、その子はあきれ返った口ぶりで言った。
「やぁだ、何びびってんのよ? 冗談に決まってるじゃない。フェレットが猫や犬を食べるわけないじゃないの。あんたバカ?」
……。そうだ、どっかで見た動物なのに名前が思い出せなかったけど、フェレットっていうんだ、これ。
「まあ、あんたがあたいに食べられたいっていうなら、ほんとに今夜のディナーにしてあげてもいいけど」
そう言ってフェレットはクックッと軽やかに笑った。わざわざ助けに入る必要なんてなかったかも。
「そうそう、あんた。ものはついでだけど、あたい、正直もう三日もろくに食べてなくってさ。お腹ペコペコで死にそうなのよ。お腹と背中の皮がランデブーして、あと十秒でワープゾーン突入って感じ。だからさ、あんたんち連れてって何かご馳走してくんない? さっきのネコマンマ逃しちゃったの、あんたのせいだし。ちなみに、ネコマンマって意味わかる? そのままよ。猫のまんまってこと。あんた、そこですぐにツッコミなさいよ。おもしろみのない犬ねえ」
……。つっこめも何も、こちらが口を開く暇さえありゃしない。
彼女は僕の返事も聞かずに、食客として僕の家にあがりこむことを決めてしまった。僕の背中にピョンと飛び乗って、手綱よろしく長い毛にしがみつき、号令を発する。
「さあ、天竺目指してレッツゴー!」
「うちはいまドッグフードしか置いてないけど、いいの?」
「こういうときはあたいの腹ぺこメーターがすべてに優先するのよ。プライオリティナンバーワンよ。ナンバーワンと犬のワン!をかけてちょうだい。さあ、いちいち細かいことは気にしないの。あんた男の子でしょ? 女の子でも一緒だけど」
僕は一つため息をつくと、彼女の命ずるままに家に向かって歩きだした。
「あたいはフラウっていうのよ。マーシャルブランドの箱入娘よ。これ意味わかる? 箱に入れて育てられたから箱入娘。クククク♪ だから、ちゃんとツッコんでちょうだいって言ってるでしょ! ところで、あんたの名前はなんての?」
相変わらずの早口で、フラウが尋ねる。
狛井翔太だよ──そう答えようとして、口をつぐむ。そうだ、それはもういまの僕の名前じゃない。僕は名前もとりかえちゃったんだもの。僕のいまの名前は──
「《ジョニー》……」
フラウは肩越しに僕の顔をじいっとのぞきこんだ。
「……あんた、すっごーくテンション低いわよぉ? 自分の名前がよっぽど気に入らないみたいねぇ。ジョニーってそんなに悪い名前じゃないと思うけどなあ。なんかこう、旅の風来坊っつうか、流しのギター弾き的な雰囲気で。センチメンタルジョニ~~♪なんちって。……ツッコミがないわねぇ。やっぱりそんなに嫌いな名前なわけ? 一体だれに名付けられたの? 飼い主じゃないの?」
名前を付けたのは志穂姉さんなんだけどね。僕もジョニーの名前自体が嫌いなわけじゃない。けど……。
「本当は僕の名前じゃないんだよ」
「何それ? 意味わかんない」
「僕は──」
はたしてフラウは僕の言うことを信じてくれるだろうか? まあ、相手が人間だったら信じられなくて当たり前だと思うけど、動物なら案外疑わないかもしれない。ひょっとして、元の体に戻る方法を彼女が知っていないとも限らないし。
ジョニーのやつが、魔法の力を持った特別な犬だとは思えない。いままで十年間一緒に暮らしてきて、そんな怪しい素振りを見せたことは一度もなかったもんな。まあ、頭は確かによかったけど。
だとしたら、体の交換に関する知識を持っている動物が、だれか他にいてもおかしくはない。
「こんなこと言っても信じないかもしれないけど、僕、実は人間だったんだ……」
フラウは僕の背中から飛び降りると、数秒間固まった姿勢でマジマジと僕を見た。
「ウククククッ♪ 何それ? おっもしろーい! 自称元人間の犬! きっと吉本がスカウトに来るわ。目指せ、Mワングランプリの王者♪」
腹を抱えて地面を笑い転げるフラウを見て、僕は思った。ああ、やっぱり言うんじゃなかった……。
「それマジ? それともボケ?」
「別にどっちでもいいよ……」
僕がすっかりいじけてそっぽを向くと、フラウはまた僕の上に乗り、頭のてっぺんからぶら下がるようにして僕の目をのぞきこんだ。
「ははあん、やっぱりガチなわけね。しかも、相当なワケアリと見た!」
「え? 信じるのかい?」
意外な台詞に僕が驚いていると、彼女はすまし顔で付け加えた。
「ま、あたいの目をごまかそうたってそうはイカの塩辛、カノジョのマスカラよ。だって、マジメな顔してそんなウケねらえる神経の持ち主、そうそういないと思わなぁい?」
……真剣に相談する気が失せるなあ。
「ねえねえ、どういうことなの? 詳しく話してみてよ?」
興味しんしんの目をして僕の背中をつっつく。僕は歩きがてら、ジョニーと僕とで体を入れ替える取引をした経緯をフラウに打ち明けた。自分が自殺しようとした部分は適当にごまかしたけど。
「ふうん……。まあ、そんな話にホイホイ引っかかったあんたがバカだとは思うけどねぇ。あたいがジョニーだったとしても、やっぱりあんたみたいなカモがいたら、そりゃもうほっとかないわさ。口八丁手八丁ブルース・リーはアッチョーてな具合に丸めこんで、とっかえっこしちゃうだろなあ」
……。
「で、君、何か元通りに体を戻す方法とか知らないかい?」
「そーゆーことならまっかせなさーい、ワトソン君♪ この名探偵フラウちゃんの辞書に不可能の文字はないから。たぶん、あんたのおでこと両前足に、契約を交わす際に結んだ〝印〟が残ってるはずよ。ちょっと確認させてちょうだい」
僕とジョニーが交換の儀式のときに触れ合ったおでこと二本の前足を、フラウは鼻をクンクン言わせながら何度も丹念に調べた。〝印〟って匂いでわかるもんなの?
「ふぅむ、なるほど……。あたいは犬仲間じゃないから完全には解読できないけど、契約の解除に必要な条件は大体わかったわ。ずばりワンコ三匹よ」
「へ?」
素っとん狂な声をあげて聞き返す僕に、フラウは続けた。
「願いを叶えるのよ。何かで困ってるワンコを助けてあげるの。You see ?」
僕はその場でじっと考えこみながらフラウの言葉を反芻した。
犬を助ける、か……。なるほど、いかにもそれっぽい感じだ。けど──
「相手は犬ならだれでもいいの? 困ったことっていっても、具体的にどういう用件なんだろう?」
「それくらい自分の頭で考えなさいよねぇ。あたい自身が体をとっかえたわけじゃないし、それ以上細かいことまではわからないわ。まあでも、依頼の内容はそんなにこと細かく限定されてないと思うわよ? 本犬が何かのトラブルを抱えていて、それをあんたが代わりに解決してあげれば、オーケーなんじゃないの?」
なるほど……。行きずりに知り合ったこの小さなフェレットのおかげで、僕は少し希望の光が見えてきた気がした。
「それにしても、確かにそのジョニーって子、ワルっちゃワルよねぇ。あんたのヒトの好さにつけこんじゃってさ。いまごろ乗っ取ったあんたの体でやりたい放題かも。悪の匂いがもうプンプン♪ もしかして、地球征服をねらう秘密結社の一員だったりしてねぇ」
……。
「地球を征服したいんだったら、僕になんかならないで、どっかの国の大統領とかになると思うよ」
「あら、なあんだ。あんただってその気になればちゃんとツッコめるじゃないの。だったら、今度からすかさずフォローしなさいよねぇ。そうすれば友達百人できるわよぉ。何事もノリがよくなきゃダメ」
ツッコミに関する指摘はともかく、僕はフラウの身の上ににわかに興味がわいてきた。
「ねえ、フラウってどこかの家で飼われてたの?」
僕が尋ねると、彼女は前足で喉もとを掻きながらバツが悪そうに答えた。
「一応ね。三日前に家の人が留守にするとき、台所の小窓を開けっ放しにしててさ。つい外の世界を拝みたくなったのよねぇ。で、出てみたはいいけど、それから探検に夢中になっちゃってさあ。気がついたら、自分がどこにいるかもわからなくなっちゃってたわけ。何しろ、外の世界って広すぎなうえに、探索の対象が山ほどあるんですもの」
ふうん。フェレットっておもしろい動物なんだなあ……。分類上は犬や猫とそんなに離れていない親戚なんだろうけど。
「あっ! いま、あたいたちが薄情な動物だって思ったでしょ? ううん、絶対そう思った顔だわ!」
うわ、勘が鋭いなあ……と思いつつ、あわてて弁解する。
「ち、違うよ。ただ、飼い主の家に帰りたくないのかなあって」
フラウはほとんどない肩をすくめた。
「まあ、戻れるなら戻ってもいいけど。あんたの願いほど切実じゃないわねぇ。例えるなら、家の中の謎はもう食べ尽くしたってとこね。だから、まだまだ当分は外の世界を見て回りたいわ。あんたの家の中を現場検証させてくれるんなら、それも一考だけど」
そう言って、彼女は僕の肩の上でクックッと笑った。
ほどなく、僕らはわが家に到着した。玄関のドアの前で、《僕》がソワソワしながら行ったり来たりしている。
そういや、あいつをほったらかしにしてきちゃったんだっけ。すっかり忘れてた。
「あっ、《ジョニー》! よかった、心配したんだよ? 一体どこへ──?」
そこで彼の目が、僕の背中にコバンザメよろしくへばりついていた小さな動物に釘付けになった。
「あれ? どこで拾ったの、この子?」
フラウは差し伸べられた《僕》の手に、躊躇することなくよじ登っていった。首筋をなでられ、気持ちよさそうに目を細める。
「あらん、男前のお兄さんじゃない♪ 悪の手先だなんてウソ八百、暴れはっちゃく。でもまあ、元があんたなんだっけ?」
《僕》はフラウを肩の上に登らせ、くすぐったそうにしながら微笑んだ。
「この子、捨てられちゃったのかな? それとも逃げてきたのかな? まあ、《ジョニー》が連れてきたんだから、文句はないけどさ。後で、『迷いフェレット預かってます』って張り紙を出しておかなきゃね」
こうして、ヒトとイヌとフェレットの奇妙な取り合わせの僕たち三人/匹は、しばらくの間狛井家で共同生活を営むことになった。