僕の部屋にたどり着くや否や、フラウは部屋のすみからすみまで縦横無尽に駆けめぐった。箪笥の裏から机の下、本棚の後ろ、果てはクズかごの中まで。カーペットの縁をめくってその下に侵入し、モコモコと移動していく。そのさまは、まるでマンガの中にしか登場しない高速のモグラだ。一通り調べ終えると、今度は別ルートで同じ場所の探索を再開したり。よくこんなところに潜りこめるなあと感心するほど狭い隙間にまで、ひょろ長い体を無理やりぐいぐいと押しこんでいく。これじゃネズミだって逃げ場がないだろう。
「ううん……それにしてもフェレットって、本当にテンションが高いなあ」
ジョニーが僕とまったく同じ感想をもらす。
部屋を三周して、フラウはやっと一息ついた。全身がすっかりほこりまみれだ。掃除機も届かない場所に平気で入っていくんだもの。ジョニー用のスリッカーブラシを《僕》にかけてもらう。それから彼女は、カーペットの上で自分でも毛づくろいをしながら、点検終了後の感想を述べた。
「ふう、とりあえず一巡して満腹って感じ♪ でも、あなたってわりかし優等生さんなのね。ドキドキするようなものが見当たらないわ。あなたの年ごろなら、火遊びの一つや二つしてもよくなくって? あたいほどの大冒険とまでは言わないけどさぁ」
……。そばに座ってフラウの仕草をながめていたジョニーが、そこで彼女に向かって話しかけるようにつぶやく。
「キャットフードとかでも一応は代用が利くみたいだけど、やっぱり専用のフェレットフードを買ってこなきゃね。飼い主が見つかるまでは、とりあえずうちで暮らさなきゃならないだろうし」
それを聞いて、彼女はパッと目を輝かせた。
「まあ、あたいのためにフードも用意してくれるんですって。なんて素敵な人なんでしょ♥ 悪の秘密結社はやっぱり撤回しなきゃ。ジョニー最高! ジョニー万歳! ジョニーに座布団百万枚!」
《僕》の足もとに近寄って立ち上がり、どっかの動物園のレッサーパンダみたいなおねだりポーズで媚びを売る。現金なやつだ。
「おいおい、フラウ。僕に協力してくれる気、あるんだろうね?」
僕が非難の目つきでそう問いただすと、彼女はすました顔で答えた。
「もちろんあるわよ。あたいは正直者のフェレットだもの、二言はないわ。三言も四言も五言も……二十言くらいは保証するわよ。その先はわかんないけど」
フラウの二十言なんて、あっという間な気がするぞ。
「ともかく、あんたが悔しい気持ちも、早いとこ元の体を奪還したいのもわかってるつもりよ。このままじゃ、人間として立つ瀬がないもんねぇ。ほっといたらガールフレンドまで取られかねないし。クククク♪ まああたいとしては、おもしろけりゃ別にどっちの味方したってかまわないんだけど」
気安く請け合ったそばからこれだもの、こっちはますます不安になってくるよ。
案の定、フラウは豆粒大の瞳をキラキラさせて、もう一度《僕》を見上げた。
「ところで、フードはやっぱりうちのファームのブランド品にしてくれるとうれしいなあ♥ それと、おやつはなんてったってピーナツバターのクランチよね♪」
僕は一つため息をつくと、前足の上に顎を乗せて目を閉じた。
次の日、ジョニーは僕のためのトイレ用品を買うついでに、フラウの餌や寝床にするハンモックなど、必要な品々をペットショップで手に入れてきた。それらの購入費用は僕の貯金箱から出されただけに、複雑な心境だったけど。
《僕》に変身したジョニーは、翌日からさっそく中学に登校した。僕としてはやっぱり一抹の不安を拭えず、できれば一緒についていってやりたいくらいだった。
そんな僕の心配をよそに、《僕》のほうは前の晩から学校へ行くのを心待ちにしている様子だった。沙織さんとだって僕自身よりうまく会話できたくらいだから、きっとクラスに溶けこむ自信もバッチリなんだろう。
そして、朝家を出たときと変わらない笑顔で帰ってきたことで、それを証明した。
うちの一家三人は、《僕》が自分から進んで《ジョニー》、すなわち僕の面倒を請け負ったり、学校の授業が楽しみだなんて言いだしたものだから、不思議がると同時に大いに喜んだ。母さんなんて、ここしばらく見たことのない笑顔で《僕》を激励し、ご馳走を振る舞ったり、小遣いの引き上げまで約束したほどだ。まあ、僕がこのまま学校に行かず引きこもるんじゃないかと、心配していたからなんだろうけど。
志穂姉さんは、《僕》と《ジョニー》にお土産を買ってくる約束をして、下宿先のワンルームマンションに戻っていった。出る間際に僕のおでこにキスをしていく。いつものあいさつなんだけど、元弟の身としてはたまらなく恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
玄関前の道路まで出て、彼女の後ろ姿を見送るジョニーの顔は、なんだか少し寂し気に見えた。
ジョニーが順調に《僕》になりすます一方、僕は彼ほどすんなりと《ジョニー》の犬の体になじむことはできなかった。僕のほうが心の準備が整っていなかったせいもあるだろう。それにしても、戸惑うことは多い。
ある意味、僕はいったん死んで、犬に生まれ変わったようなものだ。犬になるということ──それは、いままでとは別の世界で生きることを意味する。
ものの本によれば、犬の嗅覚細胞の数は人間の五千倍とか。総合的には、人間より犬のほうが十万倍も鼻が鋭いって話だ。人間が主に目から入る情報に頼っているのに対して、犬は鼻で嗅ぐ匂いをもとに世界を見ている──いや、世界を嗅いでいるというべきかな。
知ってのとおり、お散歩は犬にとってご飯と同じくらい欠かせない優先事項だ。自分の行動範囲をだれが、いつ、どんなふうに利用しているか、性別や健康状態とかも含めた情報を収集する。自分もまた、専用の標識を掲げておく。いわゆるマーキングってやつ。そうやって、頭の中に匂いの地図を描く。
犬の散歩につきあうと、しょっちゅう立ち止まっては、時間をかけて念入りに地面や草むらの匂いを嗅ぎまわる犬に、「なんでそこまで熱心になれるんだろう?」と首をかしげる人も多いだろう。僕もその口だった。
けど、考えてみれば、毎朝新聞の株式欄にすみずみまで目を通す父さんや、電車の中で四六時中ケータイのメールチェックばかりしている姉さんも、やってることは犬たちと大差ないんだよね。周りの視線が気にならないほど、本人が情報集めに夢中になれる点もよく似てるし。ある意味、暇さえあればケータイの画面に見入っている〝近頃の若いもん〟の生態が、じいさんばあさんには理解しがたいのと一緒かもしれない。
実際、毎日のお散歩時の点検は、犬にとっての〝アドレス帳の更新〟に該当する。それほど、犬の社会で生きていくうえでは大切なことなんだ。
ジョニーが最初に説明したとおり、僕たちはお互いの記憶を引き継いだ。僕の場合、彼の知り合いの近所の犬たちに関する情報が主だけど。
ジョニーは散歩中に出会う犬の大半とたちまち打ち解ける社交術の持ち主だけに、ずいぶんと顔が広い。匂いの名刺入れには、一クラスの生徒より多い数の名刺が入っていた。
向かいに住んでいるちょっとカタブツの柴犬ゴン、三軒隣に住んでいる意地悪なダックス姉妹、隣の街区に住むおっとりしたシーズーのおばあちゃん、一月に一度くらいしか出くわさないでっかいバーニーズ──。
中には、散歩コースの臭跡だけで、じかに会ったことのない犬も何匹かいたりする。僕が《ジョニー》として散歩に出かけるときも、そのリストは大いに役立った。
鼻と耳がよくなった代わりに、視力が落ちたり、五本の指で物をつかめなくなったり、犬の体になって不便に感じることはたくさんある。けど、いいこともある。なんたって、もうテストや宿題に追われたり、熊沢たちのいじめにビクビクする必要がない。どうせなら、人間に戻るまでの間だけでも、何のしがらみもない犬暮らしを思う存分堪能しなきゃ損だもんね。
そうはいっても、家の中でゴロゴロしてばかりいるのも楽じゃない。いまの僕は、朝夕の散歩の時間以外、基本的に何もすることがない。犬なんだから、日なたでうたた寝でもしていればいいんだろうけど、やっぱり退屈だ。といって、ゲームはもちろんのこと、この前足じゃ漫画を読むこともできやしない。テレビをつけて母さんに怪しまれるわけにもいかないし。
ジョニーが学校へ行っている間は、フラウの話し相手になるのが唯一の気晴らしだった。口を開いているのは、圧倒的に彼女のほうが多かったけど。
人間社会に関する彼女の豊富な知識には驚かされるばかりだ。ちっちゃな体に収まりきらない旺盛な好奇心を満たすため、彼女は飼われていた家の部屋をくまなく物色して、貪欲に知識を吸収したらしい。自称天才フェレットだけのことはある。
フラウはハンモックで寝ているとき以外は相変わらず室内探検にいそしんでおり、当面退屈する暇もなさそうだった。僕もつきあっていろいろ部屋の中に転がっているアイテムについて説明してやったので、おかげでこっちも時間つぶしにはなったけど。
あと、フェレットは誤飲の事故が多いと、ジョニーが心配なことを口にしていたこともあり、彼女には食べ物以外のものを呑みこまないようきつく釘を刺しておいた。手術でお腹から取り出す羽目になったら大変だ。
「失礼しちゃうわねぇ。あたいを掃除機かなんかだと思ってんの? 食べ物とそうでない物の区別ぐらいつくわよぉ。こう見えても、あたいは名だたるお宝鑑定士なんだからねぇ。落ちてるものがどのくらいの値打ちか、ズバリ当ててみせちゃうんだからぁ。例えば、そこのゴミ! それは時価〇円でぇす♪」
そう言ってフラウは耳も貸さなかったけど、それとなく見張るのも、結局僕の仕事の一つになった。
中には、「よく犬なんかやってられるよ」と不思議がる人もいるかもしれない。僕が《ジョニー》としての生活を案外すんなり受け入れられた理由は三つ。
一つには、いまもいったように、フラウが気をまぎらせてくれたこと。
二つめは、ジョニーがサポートしてくれたおかげだった。
部屋飼いの件も含め、彼は細かいことまでさりげなく気を配ってくれた。姉さんや沙織さんほど犬に興味のなかった僕に、ジョニーは役立つ情報をいろいろと教えてくれた。独り言を装って、相変わらず僕の〝犬語〟はわからないふりをしていたけど。
ジョニーに対して言いたいことは山ほどある。けど、僕はとりあえず彼の好意に甘んじることにした。犬に関するウンチクを蓄えておくことは、人間に戻ったときに沙織さんとの友達関係をキープするうえでも役立つだろうし。戻れたとしての話だけど……。
ジョニーが僕に親切にしてくれるのは、やっぱり僕に対する後ろめたさがあるせいなのか。それとも、何かほかに思惑があるのか。それはわからない。いまのところ、僕が自分の体を取り戻すための情報をフラウから仕入れたことに、彼が気づいた様子はない。彼には勘づかれないようにしなきゃ。
そう、僕が当面我慢して犬の生活を続ける気になった最後の理由は、いずれ元の人間の姿に戻れるという希望があったから。そのためには、フラウに教えてもらったように、犬を三匹助けなければいけない。
問題は、条件に見合う犬をどうやって探しだすかだ。散歩のときに会った犬たちに直接話を聞く以外にないけど、悩み事を抱えた犬なんていつになったら見つかることやら、正直見当もつかない。
けど、ある日、それは思いもかけない形で、向こうからやってきた。