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8 ミスターとの約束




 僕とジョニーが体を交換してから十日ほどが過ぎた。
 その日、学校から帰宅した《僕》はえらく上機嫌だった。あれから、彼は部屋に戻るとその日一日の出来事を僕に語って聞かせるのを日課にしていた。僕の体を借りている手前、一応報告のつもりなんだろう。
 今日はちょっとした事件が発生したらしい。実は、2ーBの立てた文化祭の企画に対して、全学級・部活の委員から成る事務局から「ただの模擬店じゃおもしろくない」とダメ出しを食らってしまったのだ。で、HRの時間にもう一度企画を再検討することになった。といっても、いまから演劇に切り替えようったって時間が足りない。残された道は、ただの模擬店じゃなく、独自のアイディアを盛りこむこと──。
 ここで実行委員の二人が提案したのが、ドッグカフェスタイルの喫茶店。
 後から判明したことだけど、クラスメイトの半数以上が家で犬を飼っていたこともあり、このアイディアはなかなか受けがよかった。《僕》が例のカードをちらつかせたおかげで、あの熊沢さえ反対しなかった。レオンさまさまだ。家庭科の先生にサポートしてもらって衛生面の課題もクリアし、事務局の了承も得られた。
 こうして《僕》と沙織さんが中心となり、いろいろと追加の新企画も進行中だと、ジョニーはニコニコしながら話してくれた。
 浮かない顔のミスターと遭遇したのは、それから間もない日の散歩でのことだった。
「どうしたの、ミスター? なんだかテンション低いわねぇ。初めて翔太……じゃない、《ジョニー》に出会ったときみたい」
 いつでもハイテンションのフラウが尋ねると、ミスターはため息をついた。
「はあ……。実は、沙織お嬢さんの通ってる学校で、今度豊饒祭っていうお祭りが開かれるんですけど、僕がそこでアジリティの実演をすることになっちゃったんですよ……」
「あら、よかったじゃないの。これでミスターの株も急上昇、東証一部上場も間近って感じねぇ。さっそく買い占めとかなきゃ♪」
 その件は僕も聞いていた。文化祭のドッグカフェでは、クラスのみんなにできるだけ犬同伴で来てもらい、しつけ教室とか、ボールやフリスビーを使ったゲームなどをやる予定だった。
 それらの企画の一つとして、経験のあるミスターがみんなの前でアジリティのデモンストレーションをしてみせることになったんだ。
 実は、沙織さんのお父さんは消防関係の仕事をしていて、ミスターを家で引き取ることになったのもその縁だったとか。なんと、彼のご先祖は、一九八八年のアルメニア地震のときに活躍した筋金入りのレスキュー犬なんだそうだ。その血を受け継いだお母さんも、日本の東京消防庁のレスキュー犬部隊に所属し、今も現役で立派に仕事をこなしているという。
 レスキュー犬や警察犬、盲導犬などの使役犬には、ジャーマン・シェパードやラブラドル・レトリーバーなど特定の犬種が採用されることが多い。けど、それは仕事向きの学習能力や性格を備えた子を優先的に育ててきた結果にすぎない。逆にいえば、資質さえあれば犬種そのものは問われない。
 ダルメシアンはもともと猟犬ですらなく、大型犬としては珍しく家庭犬として育成されてきた品種だった。そのせいか、性格的には結構おちゃらけた子が多いらしい。それでも、映画に登場したタレント犬みたいに賢い子も多い。ミスターのお祖父さんやお母さんも、他の災害救助犬に引けを取らない優秀な犬だったんだろう。
「へえ! あんたのお母さんってバリバリのキャリアウーワンなんだぁ。そんな立派な血筋を引いてるなら、あんたも救助犬になればよかったのに。それとも、父ちゃんがダメだったの? ダメシアン?」
「いや、それが……一応目指してはいたんですが、試験に落ちてしまいまして……」
 フラウに尋ねられ、ミスターは面目なさげに答えた。なんでも、厳しい訓練を受けた犬の中でも、テストに合格して実際に救助犬になることができるのは、百頭のうち三、四頭くらいしかいないらしい。
 そんなに狭き門なんだ。宿題やテストがなくていいやと思ってたけど、犬の世界も結構大変なんだなあ……。
「やっぱ父ちゃんがダメシアンなのよ」
 ……。
「で、家庭犬として沙織お嬢さんのお宅にお世話になりまして。僕は障害訓練の成績が特によかったこともあって、せっかくだからと、お嬢さんがアジリティの教室に通ってくれてたんです。けど、この春に行われた地区大会のときに、また失敗してしまいまして。練習ではうまくいくんですけど。僕、どうも本番に弱いたちみたいで……」
 ミスターもお母さんの素質はちゃんと引き継いでいるんだろう。でも、どうやらギャラリーがいると実力を発揮できないタイプらしい。
「なるほど、アガリ症の犬ってわけねぇ。まあ、自信ないなら無理しなくていいと思うわよぉ? 当日、お腹痛! とか言ってさぼっちゃえば?」
 フラウが軽いノリでそう勧めると、ミスターはさらに沈んだ顔になった。
「でも、お嬢さんをがっかりさせたり、みんなの前で恥をかかせるわけにはいきませんし……」
 それを聞いたフラウは、僕のほうをビシッと指差して言った。
「そういうことなら、《ジョニー》、あんたの出番よ!」
 僕は前足を重ねて空を見上げながらうなった。
「ううん……」
「なにあんたまで渋い顔してんのよぉ? レオンのときにしくじっちゃったんだし、今度こそ失地挽回しなきゃ。それに、ミスターのためになって、沙織嬢の笑顔も見れて、あんたの目的も果たせるんだから、一石三鳥じゃないの」
 僕だってミスターを助けるのがいやなわけじゃない。けど──
「具体的にどうすりゃいいのさ? いまの僕じゃ、励ますくらいのことしかできないし……」
 ボソボソとつぶやく僕に、フラウが頬をふくらませる。
「もう、翔……じゃなくて、《ジョニー》はいつもそうやって後ろ向きの発想ばかりしてるからいけないの! 今度からあんたのことダメティって呼んじゃうぞぉ。ダメシアンより語呂が悪いけど」
「そんなこと言ったって……」
 僕がなおも渋っていると、フラウはおもむろにポンと小さな手をたたいた。
「そうだ! まぁたまたいいアイディアをひらめいちゃった。もう、フラウちゃんてばなんて天才的な頭脳なのかしら♥ このままフェレットにしておくのがもったいないと思いませんこと?」
「どういうアイディアなの? 教えてよ」
 また前置きが長くなりそうなので、先を促す。
「あんたも出場するのよ、文化祭の日に。下手っぴな素人犬が前座を務めれば、ミスターだってちょっとはリラックスできると思わない?」
 うへえ、僕にまであんなサーカスの曲芸みたいなまねをやらせようっていうの? 確かに一理あるけど……。でも、僕だって本当はミスターに負けず、人前で何かをするのは苦手なんだぞ。
 と、僕が抗議しかけたとき、《僕》の声が聞こえてきた。
「ねえ、沙織ちゃん。文化祭のときは、僕も当然《ジョニー》を連れていくけどさ。どうだろう……この子にもミスターと一緒にアジリティをやらせてみよっか? ミスターは大型犬でいかにもプロっぽい感じだけど、経験の浅いシェルティのこの子がやるところを見せれば、みんなにももっと親しんでもらえると思うし」
「それ、いいアイディアかも! ジョニーだったらきっと、ほんのちょっと練習するだけで、すぐに上達すると思うわ。才能ありそうだし」
 僕は首をかしげた。まるで、いまの僕らの会話を聞いていたかのようなタイミングのよさだ。まあ、こっちとしては好都合だけど……。
 ジョニーには、僕がミスターを助ける動機まで悟られないようにしなきゃな。
「今度の土曜日に、この子の予行演習を兼ねて教室に行くんだけど、そしたら狛井君たちも一緒に連れてってあげる。アジリティにどれくらい興味を示してくれるか、後はジョニー本人次第だけど、ね」
「うん。ありがとう、沙織ちゃん」
 成り行きでもあるし、とりあえず見るだけでも見てみよう、と僕は思った。沙織さんにおだてられてその気になった部分もあるけど。
 ミスターとフラウを振り返る。
「まあ……僕もアジリティのこと、詳しく知ってるわけじゃないし、一応どんなものかこの目で確かめてから決めることにするよ」

 土曜日の午後、僕はジョニーに連れられる形で、沙織さんと約束した場所を訪れた。もちろん、フラウも一緒だ。
 やってきたのはドッグカフェ・バウワウ。家から自転車で十五分ほどの距離だ。沙織さんに聞くまで、同じ町内にこんな店があったなんて知らなかった。今度姉さんにも教えてあげなくちゃ。
 肉球マークを象った看板の隣に、沙織さんがミスターと並んで立ち、手を振っている。
「あっ、狛井君! すぐわかった、ここ?」
「いやぁ、一回通りすぎちゃったよ」
 バウワウはパッと見たところ普通の喫茶店と変わらなかった。知らない人は、近くを通ってもきっとそれと気づかないだろう。
 今日の沙織さんはジーパンルックだ。動きやすい服装にしたんだろう。学校や散歩のときにいつも目にするセーラー服やジャージ姿もかわいいけど、私服も新鮮でいいなあ……。
 僕が見とれていたら、頭の上にポンと手を置いて彼女がクスッと笑った。
「フフ。ジョニーったら、私がポケットにジャーキーを忍ばせてるのわかったんでしょ? 後でうまくできたら、ご褒美にあげるからね」
 沙織さんに案内されてドアをくぐる。入ってすぐのところには物販コーナーがあり、各種の犬グッズが並べてある。海外からの珍しい輸入品もあり、結構品数豊富だ。奥の喫茶室はいかにも洒落た感じ。いまはポメラニアンとトイ・プードルをそれぞれ連れたおばさん二人が、ケーキをつつきながら愛犬自慢に花を咲かせている真っ最中だ。喫茶の隣はトリミング・ルーム、いわゆる犬の美容室になっていた。中ではコッカー・スパニエルがおとなしくシャンプーされている。
「やあ、いらっしゃい、二人とも。待ってたよ」
 カウンターの向こうから、眼鏡をかけたブルドッグ顔のおじさんが、人好きのする笑みを浮かべて僕らを歓迎した。この人がバウワウの店長みたいだ。こちらからも会釈する。
「こんにちは、マスター」
「はじめまして。お世話になります」
 教室に通っている沙織さんが懇意にしていることもあり、店長には今度の文化祭の企画の件でいろいろ援助してもらっていた。当日に使用するアジリティの用具一式も、店から借りることになっている。
 アジリティのスペースは店の屋上にあった。店長の後について階段を上り、練習場に出る。
「さあ、ここだよ」
「うわあ!」
 《僕》が思わず歓声をあげた。僕も実際に目にするのは初めてだったので、新鮮な驚きを覚える。一昔前のデパートの屋上にあった遊戯場にちょっと似てる気がしなくもない。
「うちは屋根の上にあるから、よそのサークルほど広くはないんだけどね。本当は犬の肩高に応じて小型・中型・大型の三クラスに分かれていて、トライアルのサイズもそれぞれ違うんだ。けど、別に兼用でもかまわないし、うちは本格的な訓練コースというわけじゃないからね。ここは犬を連れて遊びに来る人たちに開放して、自由に使ってもらっているんだよ」
 さて、ここらでアジリティについて説明しておこう。《僕》が沙織さんに資料を借りてきて、夕べ二人で一夜漬けで勉強したんだけどね。
 アジリティとは、いわゆる犬の障害物競走のこと。その歴史は意外と浅い。障害馬術の犬バージョンとしてイギリスで始まったのが一九七〇年代のこと。日本に入ってきて、愛犬家の間で名前が知られるようになったのは、それこそここ十数年の話だ。
 日本では、犬種の登録で有名なJKC(ジャパン・ケンネルズ・クラブ)公認のサークルが各地にあり、地区大会なんかも月ごとに開かれている。もっとも、競技会といっても、トップブリーダーが競い合うドッグショーほど華々しくて格式ばったイベントじゃない。だから、大会に出て入賞しても、カップと一緒にもらえるのはせいぜいドッグフードってとこ。
 一口にアジリティといっても、しつけ訓練の方針と同じで、主催するサークルによってルールとかは結構まちまちらしい。使役犬のトレーニングの一環として利用したり、競技会で勝てる技術を追求しているところもあれば、バウワウみたいに息抜き感覚で気軽に遊べるところもある。
「さて、私は店のほうに戻るけど、二人はゆっくりしていっていいよ。文化祭までの間、ここは好きなように使っていいからね」
「ありがとうございます、マスター」
 店長は沙織さんに向かって片目をつぶってみせると、下へ降りていった。相手が常連でしかもカワイイ沙織さんだけあって、サービス精神旺盛だ。まあ、今度のうちのクラスの企画はお店の宣伝にもなるだろうし。
 店長がいなくなると、ジョニーはコースを振り返って、自分のほうが遊びたげに目を輝かせてつぶやいた。
「おもしろそう」
「でしょ? アジリティって、本当にゲーム感覚で遊べるものなのよね」
「覚えるのに何ヵ月とか、だいぶ時間がかかるって聞いたけど?」
「まあ、ひととおりマスターして本格的な競技会に出場するつもりなら、ある程度の訓練期間は必要だけど、一つ一つのトライアルくらいなら一発でこなす子もいるのよ。ミスターはレスキュー犬の訓練を受けてたこともあって、基本を覚えるまで一週間かからなかったわ。最低『待て』と『おいで』ができれば大丈夫。もちろん、その子によって向き不向きはあるけど」
「そっか。じゃあ、うちの《ジョニー》なら安心かな?」
 そう言いながら、こっちを見て思わせぶりにウインクしてみせる。
「うん。ジョニーならきっとあっという間に覚えちゃうと思うな」
 沙織さんにそこまで持ち上げられちゃうと、このまま引き下がるわけにはいかないよな……。
 僕が普通の犬だったら、最初は何を期待されているのかわからなくて、右往左往するばかりだったろう。けど、元人間の僕からすれば、こんなのはお茶の子さいさいだ。要は、テレビや雑誌で見たのと同じ具合にやればいいんだろ?
「それじゃ、まずは実際にどんなふうにやるのか、私とミスターが実演するところをジョニーにも見学してもらおっか」
 犬たちにアジリティを覚えさせる早道は、まずほかの犬と飼い主が遊んでいるところを見せることだ。沙織さんはミスターのリードを引いてスタート地点に向かおうとした。
「いまから始めるみたいよ。がんばれミスター!」
 フラウが声をかけると、ミスターは泡を食ったように叫んだ。
「えっ!? ほんとだ、うわ、ど、どうしよう!? ジョニーさんたちが見てるのに」
 ミスターはいかにも困ったように、舌をダラリと垂らした情けない顔で、たびたび沙織さんを見上げている。
「あら、ちょっといま気分じゃないのかなあ……」
 沙織さんはしゃがみこんでミスターの首筋をなでた。
 実際のところ、いくら訓練経験のある犬でも、演技がうまくいくかどうかはそのときの気分次第といっていい。普段は上手にできる子も、テンションが下がっていると、つい他のことに気をとられたりしてリタイヤしてしまうことも多い。アガリ症のミスターならなおさらだろう。
「じゃあ、ミスターの準備が整うまでの間、この子をトライアルに慣れさせておくよ」
 沙織さんに気を利かせて《僕》が言う。
 僕は彼の後ろに従いながら、一つ一つのトライアルをじっくり検分して回った。何種類もあるトライアル:障害は、いくつかのタイプに分かれている。中でもタッチ障害といわれるタイプは、コンタクトゾーンといって黄色か赤に色分けされた部分がある。アスリートドッグ:走者の犬は、このコンタクトゾーンに必ずタッチしなくちゃいけない。
 これらのトライアルの配置や順番は、競技ごとに変わる。レベルが高くなるほど、一コースの障害の数が増え、組合せも複雑になっていく。順番を頭に入れて、的確に犬を導いていくのは、ハンドラー:伴走する飼い主の役目だ。
 競技会では、一連のトライアルをきちんとクリアしたかどうかがジャッジによって判定される。採点は減点方式で、ミスがある度にポイントが下がっていく。タイムも計測され、コースごとに決められた標準タイムをオーバーした分だけ減点される仕組みだ。上級コースになるほど、この規定クリアタイムも短くなる。
 今日の練習コースの最初のトライアルはトンネルだった。ビルの窓に設置されている火災用の脱出口みたいなやつ。こんなのは朝飯前だ。ただくぐるだけなんだもの。中にこもっているゴムの匂いが、いまの僕の犬の鼻にはムッときて、ちょっと気になったけど。
「さすが、ジョニーは並の子とは違うわね。初心者の犬は、飼い主の姿が見えなくなるとやっぱり不安を覚えて、すぐに後戻りして入口から出てきちゃうのよ。Uの字型だから、どっちが入口か混乱することも多いし。上級者になれば、飼い主と歩調を合わせて一気に駆け抜けられるようになるんだけど」
 次のやつもトンネルだったけど、今度は出口のほうがやわらかいビニールシートになっている。鯉のぼりの中をくぐっていくみたいだ。さっきのがハードトンネル、こっちはフレキシブルトンネルというらしい。
「わあい、トンネルだトンネルだぁ♪ トンネルを抜けたらそこは雪国なのよねぇ」
 フラウのやつはよっぽどこの障害が気に入ったらしく、さっきから出たり入ったりして一匹(ひとり)で遊んでいる。彼女のことは放っておいて、先へ進む。
 続いて登場したのはウィーブポール。一メートルの高さのポールが十本ばかり、等間隔に並べてある。ジグザグに進むやつだ。最初の一本目は右側から入ることに決まっている。要領を覚えちゃえば簡単だけど、初っ端からできる犬はまずいない。まあ、元人間の僕には楽勝だけど。
 僕があっさりとクリアするところを見ていた沙織さんが、思わず感嘆の声をあげる。
「うそっ、なんでスラロームまで一発でできちゃうの!? ジョニーって、ひょっとして天才犬なんじゃないかしら?」
「すごいです、ジョニーさん。未経験者だとはとても思えませんよ」
 ミスターも目を丸くしている。二人が驚くのを見て悪い気分はしない。けど、少しはセーブしないと怪しまれるかな?
 次のトライアルの手前で、僕ははたと立ち止まった。ハードルだ。先月体育の授業でやったっけ。運動音痴の僕にとって、マラソンと水泳の次に嫌いなやつだった。いまは《ジョニー》の体なんだし、跳べないことはないはずだけど。
 でも……心理的にこの高さは抵抗がある。何しろ、僕の目の位置より高いんだもの。人間でいえば、校庭の鉄棒を跳び越すようなものだ。
 僕は意味ありげにチラチラと《僕》に視線を送った。
「このハードルって、高さの調節ができるんだよね。まだ始めたばかりだから、低い位置から練習してみよっか」
 どうやらジョニーは僕の言わんとするところを理解してくれたみたいだ。ホッと胸をなで下ろす。
 バーの高さを一番低い二五センチのところに設定してもらう。本当は小型犬のレベルなんだけど、それでも僕には高く感じる。ついでに補足しておくと、シェルティは小型犬に分類されることもあるけど、アジリティのランク分けでは体高三五センチ未満がスモールなので、僕くらいなら一応ミディアムクラスに該当する。
 ここで沙織さんの評価を下げるのも悔しいし、体を借りているジョニーにも申し訳ない。僕は仕方なく覚悟を決めて、いったん手前のトライアルのところまで戻った。
「あら、イヌなのに助走をつけるの?」
 沙織さんが口もとに手を当ててクスッと笑みをもらす。うう……笑われてしまった。でも、飛び越すのに失敗したら、もっと恥ずかしいもんな。
 どうにか足が触れずに跳び越えることに成功する。着地のときに足を少しくじきそうになった。用心のあまり、少し勢いをつけすぎたかも。
 でも、《ジョニー》の運動神経をもってすれば、この程度のハードルは難なくこなせることがわかった。そもそも僕のスポーツに対する苦手意識は、自分の身体能力の低さが原因なんだし。この分なら自信が持てそうな気がする。
 ぶら下げたタイヤの中をジャンプしてくぐる輪くぐりのトライアルと、バーを横に並べたロングジャンプのトライアルをなんとかクリア。その次には、予想もしなかった難関が待ち受けていた。
 ドッグウォークと呼ばれる歩道橋だ。上り下りの坂と真ん中の橋渡しの部分の長さがそれぞれ四メートル、橋の高さは一メートル二十ほどある。橋の幅のほうは三十センチもない。この上を歩いて渡らなきゃならないのか……。
 自分が人間のままだったら、せいぜいこどもの背丈くらいの高さに尻ごみすることなんてないはずだ。けど、いまの僕は肩まで四十センチもないシェルティだ。つまり、体高の三倍以上、人間に換算すれば、二階のベランダよりもっと高いことになる。橋の幅だってほとんど両足の幅しかない。それこそサーカスの綱渡りに近い。
 大体、普通の犬は木登りなんてしやしない。犬という動物は地面の上のフィールドを駆けまわってるのが自然だ。だから、地面から足が離れることに対して、本能的な恐怖感がある。自分の歩く板とその下の地面との間に空間があるなんて、犬の常識からするととんでもない。猫やリスみたいに高さに対する抵抗がない動物とは、そもそも決定的に違うんだ。
 僕は上り始めのコンタクトゾーンのところに前足をかけたまま、それ以上先へ進むことができなかった。犬の本能と、スポーツ音痴の元人間として背負っている恐怖心──その二重のハンデが僕をしばりつける。
 テレビのアジリティ犬がいくつもの障害をやすやすとクリアしていくイメージしか持っていなかった僕は、ここへ来て自分の認識の甘さを痛感した。こんなに勇気が要るものだとは思わなかった。
「初めての子はやっぱりドッグウォークでたいてい引っかかるのよね。高くても平気な子もいるんだけど、恐がる子の場合は両側に人がついて補助してあげるの。今日が初めてなんだし、そんなにいっぺんに無理させなくていいと思うよ」
 くそ、初っ端から完全制覇をなし遂げて、沙織さんに天才ぶりをアピールする予定だったのに……。これじゃ、《僕》の面目も丸つぶれだな。
 そのとき、彼女と並んで観覧していたミスターが、僕のそばへつかつかとやってきた。
「ねえ、ジョニーさん。僕がちょっとやってみますので、見ていてもらえませんか?」
 僕の返事も待たず、ミスターはコンタクトゾーンに足をかけた。先ほどのためらった様子は微塵も見せず、さっそうと橋の上を渡っていく。最後のゾーンを下りたところで腰を下ろし、唖然として見守る僕らを振り返る。
「いいですか、ジョニーさん。左右を見ずに、ただまっすぐ前を向いて、自分の降ろす足の先の板だけ注目してください。地面の上に引かれた線の上を歩くつもりになるんです。そうすれば、恐いことなんて何もないですから」
 なるほど、要領はやっぱりサーカスの綱渡りと同じなんだ。あれも、畳の縁とかをイメージするって聞いたっけ。
「ブラボー、ミスター! あなた、やればちゃんとできるじゃないの。これなら次の五輪でメダルも夢じゃないわ♪ まさしく栄光の架け橋だあ! ってね」
 フレキシブルトンネルの往復に飽きて、こっちで一緒にミスターの演技を見学していたフラウも、彼に拍手喝采を送る。
「やあ、さすがミスターだね」
 ジョニーも。
「どうしたのかしら、急に? さっきまで乗り気じゃなかったのに。私と二人で練習してるときみたいにあっさりクリアしちゃったわ。ジョニーに対抗心でも燃やしたのかしら?」
「ていうより、尻ごみしてる《ジョニー》を見るに見かねて、手を貸してくれたんだと思うよ、きっと」
 沙織さんはミスターの傍らにひざまずいて、彼の額の毛をなぞるようにそっと指をすべらせた。あ、あれ? 沙織さん……? 
 驚いたことに、沙織さんは泣いていた。
「私、誤解してた……。春の大会のときにね、私、ギャラリーの多さにあがってしまって、ハンドリングをミスしちゃったの。それで、ミスターも戸惑ったんだと思う。私、悔しくて……。この子のお母さん、大活躍した救助犬なのよね。だから、ミスターもいろんな仕事を覚えて、うまくやり遂げることに喜びを感じてるはず。レスキュー犬にはなれなかったけど、アジリティの教室に通い始めたとき、この子の目、とても生き生きと輝いてた。それなのに、私のせいで台なしにしちゃったんじゃないか……自信を失くしちゃったんじゃないかって……。今度の文化祭のことも、本当はとても不安だったの。でも、ミスターはアジリティが嫌いになったわけじゃなかったんだね……。私、あなたと一緒に続けていいんだね……」
 ミスターの首筋に抱きつき、頬をよせる。彼は最愛のお嬢さんの頬をペロリとなめ、涙を拭きとった。
「ほら、沙織ちゃんの言うとおり、心配なんて要らないよ。ミスター、君と一緒にずっとアジリティを続けたいってさ」
 二人を見ていて、僕は姉さんとジョニーのあるエピソードを思い出した。
 姉さんの女子大合格を最初に教えてくれたのは、実はジョニーだった。合格発表を見に行った姉さんからの電話がかかってくる直前、彼は廊下をうれしそうに跳びはねながら駆けまわり、僕と母さんにそのことを教えようとした。
 うちでジョニーが急に寝こんでしまったときもそうだ。あの日、姉さんが下宿先で高熱でうなされていたと、後から知った。二人が倒れた時刻はぴったり同じだったんだ。
 一人と一匹(ふたり)は、どんなに遠く離れていてもつながっている。お互いのことを感じ合っている。まるでテレパシーでつながっているみたいに。
 そのころは僕も半信半疑だった。けど、姉さんとジョニーと同じように、ミスターと沙織さんとの間にも、それだけ強い心の絆があったって不思議じゃない……。
 僕はハッと顔を上げた。
「ミスター! 君が本番になると失敗する原因がわかったぞ! やっぱり沙織さんなんだ!」
「え? な、なんでお嬢さんのせいなんです?」
 ミスターが戸惑ったように僕に尋ねる。僕は彼に説明した。
「君と沙織さんは波長がぴったり合ってるってことさ。彼女、大会のときに雰囲気に呑まれてあがっちゃったって言ったろ? つまり、君は自分がアガリ症なんじゃなくて、沙織さんの緊張を感じ取っていただけなんだ。練習時の彼女はリラックスしてるだろ? 道理で君もリラックスしてできるわけさ。でも、人前で演技するとき、沙織さんは無意識に固くなっちゃう。すると、その張りつめた気持ちが伝染して、君までギャラリーの目が気になるように感じるんだよ」
「そんな。僕、沙織お嬢さんが悪いだなんて、思いたくないです……」
 うめく彼を励ますように僕は続けた。
「ミスター、いまこそ彼女に恩返しをするチャンスだろ。そうは思わないか? 君が今度のイベントで堂々と演技に臨むことができたら、沙織さんもきっとみんなの前に立つ自信がつくんじゃないかな?」
「なるほどぉ。《ジョニー》の言うこと、一理あるわね。二人は心が通じ合っているんだから、逆に、ミスターのほうから彼女に自信を与えてあげることも可能なんじゃない?」
 僕の主張にフラウもうんうんとうなずいた。でも、ミスターはまだためらいを捨てきれずにいる。
「僕も、沙織お嬢さんのお役に立てればどんなにいいかとは思います。だけど……」
「大丈夫さ。うまい手がある。君はいま、僕に手本を示そうとして、緊張なしにドッグウォークをやってのけただろ? 要は、ギャラリーの前で自分がテストを受けてるんじゃなくてさ、先生としてみんなにお手本を示しているつもりになればいいんだよ。いまと同じく」
「ええっと、僕が先生で、観客のみなさんが生徒だと思えと?」
「そうそう、そういう理解。いわゆる自己暗示、イメージトレーニングだわね。人間のプロのスポーツ選手だってやってるでしょ? アジリティのアスリートにも必要な訓練法ってことよねぇ」
「ドッグウォークを渡るのと一緒さ。君が僕にしてくれたアドバイスを思い返してごらんよ。高い橋の上じゃなくて、地面に引かれた線だと思うように言ったじゃない? 同じ要領で、観衆じゃなくて生徒だと思いこむのさ」
「僕に……できるかな?」
 僕とフラウに何度もせっつかれるうちに、ミスターの顔も次第に明るくなってきた。もう後一押しってとこか。
 よし……。僕も決心を固める。
「ねえ、ミスター。僕もやっぱり一緒に出場するよ。僕は、当日までに必ず全部のトライアルをこなせるようになってみせる、ドッグウォークも。約束するよ。だから、君も平常心を保てるように努力するんだ。僕たち二匹でがんばろう!」
 僕の最後の一言で、ミスターもやっと気持ちを整理してくれたみたいだ。じっと僕の目を見つめて、力強くうなずく。
「わかりました。僕もやってみせます。一緒にがんばりましょう、ジョニーさん!」

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