10 翔べ、翔太！
「みなさん、本日はお集まりいただき、どうもありがとうございましたっ！ これから当ドッグカフェ２―Ｂのメインイベント、三匹のワン君によるアジリティの競演を行いまーす！」
司会進行を務めるクラス委員の鮎川さんが、観客に向かって元気いっぱいの笑顔を振りまく。もっとも、原稿は沙織さんが用意したものだ。
「さて、みんなはアジリティって聞いたことある？ テレビとかで知ってる人も多いと思うけど、ドッグスポーツの花形的存在ですね。あんなにいろんなことできちゃうなんて、ほんとすごいよねっ。今日はそのアジリティ、生でワン君たちにたっぷり観せてもらいます。興味ある人とワン君は、ぜひドッグカフェ・バウワウにも行ってみてください。ちなみに、本日ここにある障害も提供していただきました。それじゃ、今日演技してくれる三頭のワン君と飼い主をご紹介します。はい、拍手―っ！」
僕たち三匹は、三人のマスターと一緒に一歩前に進み出た。
「右から順に紹介していきますね。まずは当クラスのマドンナこと鹿野沙織さん宅のダルメシアン、その名もミスター！」
「もう……由香里ちゃんたら！」
苦笑しつつお辞儀する。ミスターも犬語でみんなに向かって。
「こんにちは、みなさん。僕、ミスターっていいます。沙織お嬢さんのお宅でお世話になっています。お嬢さんはとてもいい人です」
「ダルメシアンって知ってるよね。有名なあの一〇一匹ワンちゃんだよ。さあ、今日は映画のタレント犬に負けない演技を披露してくれちゃいます！」
場内からは盛大な拍手。続いて僕の番。
「さて、大型犬のダイナミックな演技に続いて、小型犬の代表選手として今日参加してくれたのが、２―Ｂきってのシャイボーイ狛井翔太君宅に住む天才犬、シェトランド・シープドッグのジョニー君でぇっす！」
同じように拍手が巻き起こる。
「よぉ、ジョニー、応援してるぜ！」
「おいらもおいらも」
「ジョニーの兄さん、がんばってくだせえ！」
人垣と犬垣の間からレオンたち三匹が声援を送ってくれる。僕は沈んだ声で応えた。
「ありがとう、みんな……」
「最後を飾るのが、サッカー部期待のホープ、猪口圭輔君のボーダー・コリー、ファルシオン君！ 今日はどんな華麗な演技を見せてくれるかな？」
猪口と一緒に紹介されたボーダー・コリーは、見るからに利発そうな子だ。
「会衆の諸君。君たちは今日という日を生涯忘れることはないだろう。私の光速の走り、その目にしかと焼きつけてくれたまえ」
「わあ、光速の走りだって。セナみたぁい。キャラ的にはバカ彦君とかぶってる気がするけど……」
フラウも目をパチクリさせる。確かに強烈なキャラだなあ。
「さあ、じゃあ司会のおしゃべりはこの辺にして、主役の三匹の演技をとくとごらんくださーい！」
隣の沙織さんが小声で《僕》に尋ねる。
「いけそう？」
当初の予定では、一番手は僕のはずだった。けど、僕の尻尾は後足の間に入ったままだ。とうとう最後の最後まで、練習では一度もコースを通してやることができなかった。
僕は二週間前にミスターと約束したことを後悔していた。
結局、僕は犬になってもダメ男の地べ太のままなんだ──。
「ジョニーさん。プログラムと違いますけど、僕に先に行かせてくれませんか？」
さっきまで会場の熱気にすっかり呑まれているように見えたミスターが、凛とした声で言った。
「で、でも……」
「大丈夫、僕に任せてください」
そう言って、沙織さんを促すように自らスタート地点に立つ。
「ミスターのほうが準備オーケーみたいなので、一番手は彼に務めてもらいましょう。それじゃあ、用意、スタート！」
鮎川さんの笛の音を合図に、ペアが駆けだす。
僕とフラウはミスターに、ギャラリーの全員を生徒とみなして、講義でもするつもりでやるようにとアドバイスした。けど、いまのミスターは僕一匹に注目していた。僕一匹のためだけに走ろうとしていた。
そして、もちろん沙織さんのために……彼女に自信を持ってもらうために、模範的な教師をやりきるという課題を自らに課したのだった。
タイヤジャンプ、スプレッドバージャンプ、Ａフレーム……すべてのトライアルを完璧なまでにこなしていく。それもせっぱ詰まった調子ではなく、余裕たっぷりに、マイペースで。最初の日に見せたような自信のなさは、影も形も見られない。
リラックスしきったミスターの動きが、沙織さんの緊張をもほぐしているのがわかる。二人は、この晴舞台を思う存分楽しんでいた。
途中、終盤のハードルで、ミスターは一回バーを落っことした。でも、僕にははっきりとわかった。その最後の失敗さえも、僕に肩の力を抜かせようと気を配った見事な演技だったってことを。
ゴールしたミスターと沙織さんに、みんなが拍手喝采を送る。飼い主と一緒に集まった犬たちも、興奮のるつぼに包まれていた。
ミスター……ごめん。結局、僕、役に立てなかったね。君は僕なんかいなくたって、一匹で十分にやれたじゃないか……。
ミスターが僕のそばにやってきた。
「ありがとう、ジョニーさん。ジョニーさんのおかげで、僕、今日の舞台をうまく乗り切ることができました。お嬢さんの期待を裏切らずにすみました。本当に、本当にありがとう」
ミスターは深々と頭を下げた。お世辞でも、ポーズでもない、本心からの感謝の気持ちで。僕ら犬の間で、ウソは通用しない。
パートナーのもとに戻ったミスターを、満面の笑顔で沙織さんがもう一度迎える。ご褒美のおやつのジャーキーを手から食べる愛犬をながめる彼女の表情は、本当に幸せそうだ。
結果オーライ、か……。
僕は吹っ切れた。
ミスターのためにやれることは、僕にはもうない。僕が走るのは……僕自身のため。
ジョニーとともにスタート地点に並ぶ。
「マイペースで行こう、《ジョニー》。ファルシオンのことは気にしないで。ドッグウォークはパスだ」
《僕》がささやきかける。僕は聞こえないふりをして、後足で耳を掻いた。
「ダルメシアンのミスターの演技、最高でしたね。見ているこっちまで楽しくなっちゃいました。さあ、続いてジョニー君もスタンバッたみたいなので、彼にもがんばってもらいましょう。用意、ゴー！」
「ゴーオン！」
僕はスタートを切った。ハードル、トンネル、ロングジャンプ。シーソーもＡフレームも無事にクリア。僕はミスターにならい、無心で演技に身を投じた。ゴールの一つ手前までは。
ラストのトライアル。僕が最後までどうしても克服できなかったドッグウォーク。
ジョニーはやり過ごそうとしたけれど、僕はその手前で立ち止まった。
クリアしたい。
だれのためでもない、僕自身のために。
けど、それは見上げるほどに高くそびえ立って見えた。まるで、僕の内心の気持ちを見透かしたかのように。僕をあざ笑うかのように。
観衆がザワザワとざわめきだす。
熊沢が、僕のほうを指差してせせら笑いながら。ストップウォッチを手に隣に立っている猿橋に向かって言う。
「おい、見ろよ。狛井のやつの犬、足がふるえてるぜ。ビビッてんじゃねえのか？ 犬まで地べ太だよなあ。おい、そんなとこで小便漏らすなよ？ 失格になって、猪口の犬に負けちまうぜ？」
《僕》が岩のようにその場を動かない僕の隣にかがみこみ、小声でささやく。
「よくやったよ、《ジョニー》。もう十分だ。ここまでよくがんばったよ……。だから──」
「翔太っ!!」
そのとき、一つの叫び声があがった。レオンたちと一緒に僕の演技を観戦していたフラウだ。
なんで、僕の本当の名前を──
「あなたは地べ太なんかじゃない！ ミスターと約束したとおり、あなたは今日まで一所懸命やり抜いたじゃないの！ 後一息よ！ やればできるわ！ がんばれ、翔太！ フレーフレー、翔太っ!!」
ミスターも含め、その場にいた犬たちがいっせいにフラウを見やり、続いて僕のほうをマジマジと見つめた。水を打ったように静まり返った会場から、別の声援があがる。
「おう、翔太の兄さん、男気見したれや！」
「あっしらも応援するでやす」
「おいらもおいらも」
「がんばって、翔太さん！」
レオンとその子分たちだ。
「翔太さん！ あなたならきっとできます！ できますとも！」
ゴール前で待っているミスターも。
やがて場内のあちこちから、翔太コールがあがり始める。会場はにわかに犬たちの声援でいっぱいになった。人間の観客たちは、何が起こったのかわからずびっくりしている。
「翔太」
かすかに口を動かし、ジョニーがうなずいてみせた。
コンタクトゾーンに足をかける。一歩、また一歩──。僕は慎重に足を繰りだしていった。時計が止まったかのように感じる。
ついに水平の橋にまでたどり着いた。僕はここで一息ついて呼吸を整えると、いよいよ橋を渡り始めた。ジョニーはすぐ隣で、いつでも手を出せるように身構えながら、僕に合わせて歩いていく。
後二メートル、一メートル、そして……僕はついに、地上一メートル二〇の橋を渡りきった。
やった、できたぞ！ 僕はもう地べ太なんかじゃない!!
ミスターのときよりも盛大な拍手が巻き起こった。イヌたちは遠吠えの合唱を始める。
くらっとめまいがした。ぎゅっとまぶたを閉じ、再び開くと、スロープの下の地面が目に飛びこんできた。足もとがふらつく。
ダメだ、もうこれ以上は……。
「翔太！ 翔ぶのよ、ジョニーに向かって！ 翔べ、翔太!!」
フラウに促されるまま、僕は彼の胸めがけて跳んだ。
彼を信じて。彼にすべてを預けて。
ジョニーは僕の体をしっかりと受け止め、ぎゅっと抱きしめてくれた。
僕はゴール前で気をもみながら、コースをじっと見つめた。これからファルシオンの演技が始まる。
「まあ、そんなに心配してもしょうがないよ。なるようになるさ。ファルシオンがポカをやらかしてくれることを祈ろう」
ハードルのバー落ちやトンネルの入り違いくらいなら減点ですむ。けど僕は、最後のドッグウォークの前までクオリファイ：減点なしの出来だったとはいえ、結局ドッグウォークの降り口のコンタクトゾーンを踏まずコースアウトしてしまった。競技会なら完全に失格だ。勝ち目があるとは思えない。
猪口のほうは、すでに勝ったも同然とばかりニヤニヤ顔を浮かべている。
彼に連れられ、スタート地点に立ったファルシオンは、見てわかるほどの興奮ぶりを示していた。フラウも目をしばたたかせる。
「うわあ、何あのテンションの高さは？ いまにも泡吹きそう」
合図とともに、猪口がリードを放した。
「進め、ファルシオン号！ 狛井のドジ犬に見せつけてやるのだ！」
「さあ、諸君！ しかと見届けよ！ いまこそ私は鳥になる！」
ファルシオンは脱兎の勢いでコースを駆け抜けた。トライアルには見向きもせずに。そのまま真っすぐ運動場を走りぬけ、校門の向こうに消える。
「アディオ──ス！」
……。彼もある意味「翔んだ」のかもしれない……。
「てゆーか、ぶっ翔んだやつだったわねぇ」
フラウがそう言って、ククククと声を立てて笑った。
「ワッハッハ！ どうだ見たか、うちの犬の光速の走りを！」
……。猪口はハンドルするどころか、自分も腕組みしてスタート地点に立ったまま傍観している。どうやらアジリティの何たるかをまったく理解できてないらしい。ビデオで研究したって、一体何を観てたんだか。
「い、猪口君、早く追いかけないと……」
沙織さんが困った顔をしながら言う。内心あきれ返っているに違いない。
「バカッ！ 猪口、何やってんだ!? てめえの犬のほうが全然ダメ犬じゃねえか！」
観客席から熊沢が怒鳴る。と、彼の背後に回ったレオンが、いきなり「ウォン！」と吠えた。
「うわっ、や、やめろ、来るなぁ！」
熊沢が走りだすと、レオンと子分たちを始め、周りで見ていた犬たちまで、おもしろがって彼の後を追って走り始めた。
トライアルの間を右へ左へと必死に逃げる熊沢を、犬たちが追い駆けまわす。アジリティのコースは、犬たちの大運動会場へと早変わりした。
ついにレオンに追い着かれた熊沢が、ズボンの裾を引っ張られて「きゃーっ！」と黄色い悲鳴をあげた。フラウが実況をアナウンスする。
「おっ、レオン選手、コンタクトゾーンにタッチしました！ 後一息です！」
こうしててんやわんやのうちに、アジリティ実演会は幕を閉じた。
