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12 三匹目の願い




 ジョニーは僕の部屋の窓辺にもたれかかるようにして、じっと庭を見ていた。
 僕が部屋に入ると、彼はゆっくりとこっちを振り向いた。だまってじっと僕を見つめてから、もう一度庭に視線を戻す。
「あの桜の木……」
 僕は彼の隣に並んで窓の縁に前足をかけ、外を見下ろした。彼の視線の先にあったのは、庭のひとすみに植えられた一本の桜の木だった。今年に入ってからは、毛虫にひどくやられたせいか元気がない。
「僕がこの家にやってきたときにね、姉さんが僕たちの出会いの記念にって植えたんだよ。もうあれから十年になるんだな……」
「フラウが死んだよ」
「そうか……」
 僕がポツリとつぶやくと、ジョニーは哀しげに目を伏せ、組んだ手に顎を乗せた。もう、犬語がわかることを隠すつもりもないようだ。
「フラウにはずいぶん助けられたね。彼女のおかげで、僕たちぎくしゃくしないですんだんだもの。でも、そうか……僕より先に逝ってしまったのか……本当に最後までせっかちな子だったなあ……」
 僕は庭からジョニーに視線を戻すと、噛みつかんばかりにうなった。
「やっぱり僕のしゃべってること、全部わかってたんじゃないか! もうその手は食わないぞ! なんでこんなバカなまねしたんだよ!? 聞いたぞ。お前、僕と体を交換するために、自分の命を引き換えにしたんだってな!?」
「ありゃりゃ、もうバレちゃったのか。まあ、〝契約〟自体は割と知られてるしね。使う動物は滅多にいないと思うけど」
 苦笑しながら頭を掻く。
「ふざけてる場合じゃないだろ!? いいか、ジョニー。この際一つはっきり言っておくぞ。僕はまだ二匹分の願いしかかなえていない。三匹目の契約はだれともしない。お前はずっと《翔太》のまま、僕は《ジョニー》のままだ。お前が何と言おうと、僕は人間に戻る気はない。犬でいたほうがよっぽど気楽でいいや。人間に戻って、またいやな思いなんかしたくない。そんなのまっぴらごめんなんだ!」
 僕が一気にまくしたてると、ジョニーはちょっとおかしそうに眉を吊り上げた。
「おや? でも、君は元に戻る方法をフラウに聞きだして、必死になってレオンとミスターを助けたんじゃなかったっけ?」
「うるさい、つべこべ屁理屈を言うな! ともかく、僕はもう、これ以上お前の思いどおりになんかさせないからな!」
「翔太……君には悪いけど、もう契約期間は終わったんだよ」
 終わった……? 戸惑い気味に尋ねる。
「ど、どういう意味?」
「君はもう、願いを叶えちゃったんだ。三匹目の分も」
 えっ!? だれだ、三匹目って? サンジかミントだろうか? いや、あの二匹とは契約の手続きなんて交わしてないし……。
 困惑する僕に、彼は穏やかな声で先を続けた。
「実を言うとね。君は最初っから条件を満たしていたんだ。僕との体の交換に応じてくれたときにね。つまり、一匹目の成約者が僕だったんだよ」
 ……。うかつだった。確かに、とりかえっこしたいという彼の願いに応じたことになるのか。でも、そんなの反則だ……。
 僕はがっくりとうなだれた。
「どうして……どうしてこんなまねしたんだ? 僕に意地悪したいというのはわからなくもないさ。でも、ちょっとしたいたずらじゃすまないだろ!? そのために命まで失うなんて……」
「いたずらでしたつもりはないよ。まあ、翔太にちょっぴり意地悪を働きたいという気持ちもなかったわけじゃないけどね。フフ」
「じゃあ、どうして?」
「翔太。僕のことがそんなに心配かい?」
「当たり前だろ!」
 ジョニーは僕の長い顔を両手で挟んで、じっと僕の目を見つめた。
「翔太、自分の命を捨てようとしてたのは君のほうだぞ?」
「そ、それは……」
 僕は言葉に詰まってしまった。
「君が死んだりしたら、母さんも父さんも姉さんも、沙織ちゃんだってとても悲しむよ。僕が君と入れ代わった理由は一つ、志穂姉さんが泣くところを見たくなかったからだよ」
「姉さんが泣くって? いっつも僕のこと、地べ太地べ太ってバカにしてるくせに。泣いたりなんてするもんか……」
 僕がちょっとすねたように口をとがらせると、ジョニーは苦笑しながら言った。
「そりゃ、君が何事につけ後ろ向きで自分に自信を持てずにいるもんだから、発破をかけようとしただけさ。愛情の裏返しだよ。わかってるだろ?」
「そんなことあるもんか。いつも言ってたもの。僕じゃなくてお前が弟ならよかったって」
「本気でそんなこと思ってるの? 君も犬をやってみて、実感したはずだよ。僕たち犬の鼻は、人の心を敏感に嗅ぎとれるってこと。大学が決まって家を出るとき、一体姉さんがだれのことを一番心配してたと思う? 君のことだよ。僕なんかよりもね」
 ……。
「だからって、お前が死ぬんじゃ意味がないだろ!? お前のことだって、姉さんにとっては僕以上に大切だったんだから」
 ジョニーは頬杖をついて、もう一度庭の桜の木に視線を移した。
「僕も犬にしてはそろそろおじいちゃんといってもいい年頃なんだよね。もう先が長くはない。でも、翔太はまだまだこれからだろ? 僕とはね、いつか近いうちに必ずお別れの時が来るって、姉さんもわかってる。僕が死ねば、姉さんは僕との思い出を大切に胸にしまって、ときどきは懐かしんでくれるだろう。君が死ねば、姉さんはこの先ずっと悲しみだけを背負いこむことになるよ。だから、君とは違うんだ。僕はもう、みんなと一緒の時間を十分満喫したから、悔いはないのさ」
 犬になった僕の目から涙がぽたぽたとこぼれ落ちた。人間のときにこんなに泣いたことはずいぶんなかったのに。どんな映画を観ても本を読んでも、これほど悲しい気持ちになったことはなかったのに。
「僕が悪かったよ。謝るよ。もうしない。だから、なかったことにしてよ……」
「ごめん。もう契約の解除は成立しちゃったから」
「そんな……。僕はお前が生きていてくれるんなら、このままずっと犬のままでいいよ。本当に。姉さんや父さん母さんとだって、沙織さんとだって、会えなくなるわけじゃないんだもの」
 ジョニーはそれでも首を横に振った。
「いまの僕らの状態は決して自然なものじゃない。君はやっぱり人間だし、僕はやっぱり犬なんだ。体と心が、いつまでも別々のままでい続けられるわけじゃないんだよ。心と体にも一種の免疫みたいなものがあってね。このままじゃ、僕の体と一緒に君も死んでしまうことになる。それは僕のほうも同じなんだ」
 どうしようもなく情けなくて、僕はしゃくりあげながら訴えた。
「……姉さん、泣くぞ? いまから電話すれば今夜にでも帰ってこれるんだから、それまで待てよ」
 きっと彼女は、僕が死ぬよりジョニーが死んだほうがいっぱい泣くに違いない。
「……そうだね。彼女が僕のために泣いてくれるのは僕もうれしいよ。でも、彼女の泣き顔は見たくないんだ。僕のわがままだけどさ。彼女には翔太からよろしく言っておいてよ。いままでありがとうって」
 まだ泣き続けている僕に、ジョニーは顔を上げるよう促した。
「さあ、最後の手続きをしなくちゃ。最初のときと同じように、右手と左手を出して。ああ、いまは前足だけど」
 僕が自分で動こうとしなかったため、ジョニーが僕の両前足をそっと握る。額を押し当ててから、ジョニーがやさしくささやいた。
「さあ、目が覚めたら、君はもう《ジョニー》じゃなくて狛井翔太だ」
 そして、ジョニーはもう……。
「僕、眠りたくないよ。眠りたくない」
 ジョニーは黙って僕を見て微笑んだ。
 眠りたくない。僕は頑固に抵抗しようとした。けれど、あのときと同じく、しびれるような感覚とともに、意識がだんだん遠のいてきた。
「翔太。最後にお願いがある。僕が死んだら、あの桜の木の根もとに埋めてくれないかな。あそこで姉さんと君のことを、いつまでも見守っていたいから」
「ジョニー……。ごめん。僕はいい飼い主じゃなかったよね。ミスターと沙織さんみたいに、もっと一緒に楽しく遊んで……アジリティとかも一緒にしたかったなあ」
「そんなことないさ。翔太も僕に素敵な思い出をたくさんくれたじゃないか。姉さんが家を出ていった晩のこと、覚えてるかい? 僕が寂しがってると思って、一晩中そばにいて慰めてくれたの、君だよ。君は本当はとてもやさしい子だもの。だから、姉さんのためだけじゃなくて、君の力になりたいと思ったのさ。それに、アジリティなら二人でたっぷり楽しんだじゃないか。僕が君だったら、あんなに上手にはできなかったよ。でも、僕のハンドリングもなかなかのものだったろ?」
 そう言ってニヤリとする。僕も泣き笑いしながらうなずいた。
「沙織ちゃんとうまくやりなよ? 僕が一応お膳立てしたつもりだけど、彼女と引き続き仲良くできるかどうかは、君次第だからね?」
「バカ……」
「ミスターやレオンたちにもよろしく」
「うん……」
 僕は《僕》の膝に抱かれながら、次第に薄れていく意識の中で、ただ彼の顔だけを見つめ続けた。できることならいつまでもこうしていたい。そう思いながら。
 自分がジョニーなのか、僕なのか、もうわからなかった。僕はジョニーで、ジョニーは僕だ。僕たちの間に境界はなかった。ぼくたちは一つだった。
 とびきりの笑顔。僕自身の。そして、ジョニーの。
 それが、犬になった僕の目に映った最後の光景だった。

fin☆

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