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2 除霊




 ほどなく、俺たちは霊が出没するという現場に到着した。二棟の校舎の間にはさまれた中庭の一角。渡り廊下に近い隅に、庭木に囲まれて長方形の跡がくっきり残っている。ウサギ虐殺事件後、早々に撤去された金網張りのケージが置かれていた場所だ。
 二人の先生はまったく気づかぬふうだったが、俺たち二人と一匹(さんにん)は、ここへ近づく間にも、すでにその気配を感じとっていた。もちろん、最初に察知するのはいつでもキムだ。近くに霊の存在を感じると、いつも耳をピクッと動かして鼻をクンクンさせ、空気の臭いを嗅ぐ。彼の緊張は、リードを通じて俺にも伝わってくる。
 学校を指して、〝霊のたまり場〟なんていう表現がよく使われる。七不思議とか、君も漫画や小説でしょっちゅう耳にするだろう。本当のことを言うと、霊圧の高さに関しては、それほどたいしたことはない。
 注釈しておくと、霊圧って単語には二種類の用法がある。一つは、その一帯に満ちている霊気の密度がどのくらいあるか。これは気圧のようなものと思えばいい。もう一つは、ある霊が周囲に放射している霊力の強さを測るもの。こっちはむしろ電圧に近いイメージだ。
 コンクリートにおおわれた人工の場所はどこも、深い森や高山、湿地、海など、自然がより多く残されている場所に比べれば、霊圧はずっと低い。ただ、そうした場所に充満している霊気は、人間に対する害意を持たないのが普通だ。
 そもそも、霊とはいったい何なのか──?
 それは、生命現象の〝本質〟に深く関わるテーマでもある。俺みたいな若造に、そんな大それたことを講義する資格があるとは思わない。けど、これは母さんや遼子先輩に、そして、だれよりキムやベルに教わったことだ。これからみんなに、なるべくわかりやすく説明できるよう努力してみたい。
 生きものはみな、死を迎える。病気やケガ、老衰で。いちばん多いのは、他の動物に食べられることで。さまざまな理由で、身体のあちこちが機能しなくなり、やがて呼吸や心臓が止まる。通常は、この瞬間のことを〝死〟と呼ぶ。
 でも、実は死というのは、一瞬でパッと生から切り換わるもんじゃない。身体を形作る細胞は、だんだんと働くのをやめて壊れていく。ゆっくりと死に絶えていく。そうやって元の形が崩れ、しまいには土に還ることになる。物質を構成している分子にまで分解される。もともとその一つの生物に備わっていた固有の情報、オリジナルの個性が、そこで完全に失われる。これが死の完結──。
 つまり、死に始めて死に終わるまでの一部始終が〝死〟だ。死ってのは、点じゃなくて線なんだ。長短はあるけど、それなりに時間のかかるプロセスなんだ。
 そして、肉体の死に伴い、身体という器に収まっていた〝心〟も、そのどこかの過程で死ぬことになる。
 じゃあ、〝心〟ってのは何なのか? 心とは、生命によって作りだされる〝場〟のこと。その仕組みや原理については、世界的に有名な心理学者や大脳生理学者だって、遼子さんや母さん以上にはっきりした解答を持っているわけじゃない。
 脳との関わりが深いのは確かだけど、それがすべてでもないんだ。脳死した心臓の提供者の記憶が、移植を受けた人の中で甦った──なんてエピソードが口にされるとおり。
 要するに、心のあるなしは、必ずしも脳の大きさや有無によるわけじゃない。心とは、人間だけじゃなく、基本的にどの生きものにも備わっているものなんだ。
 いずれにしても、心よりも身体のほうが先に死ぬ。人間の場合、心のほうが先に死んでしまうケースもしばしばあるけど。つまり、二つの死の間には時間差があるわけだ。肉体が失われてもまだ生きた状態で残っている精神が、すなわち俺たちが〝霊〟、あるいは〝霊魂〟と呼んでいるものだ。言い替えると、霊とは自然現象、生命現象の一部ってことになる。
 霊には大きく分けて三種類ある。
 まず、人間以外の生きものの霊。野生動物に幽霊なんているのかって? 意外に思うかもしれないけど、実を言うと、ほとんどが幽霊になる。
 生物の授業で習ったと思うけど、動物の種はすべて、一組のオスとメスから生まれた子のうち、おとなにまで育って次の子孫を残せるのは、平均すればたったの二匹だけだ。でないと、自然界のバランスが崩れちゃうからね。残りは、病気になったり、天敵に食べられたりして、それまでの間に死んでしまう。そうやって、自分の子孫を残すことなく命を落としてしまった生きものたちは、代わりに……幽霊を残すことになる。
 海や森に満ちているそうした動物たちの霊は、白っぽく光るもやみたいなものだ。ときどき、元の生物の姿がぼんやりと判別できることもある。それらの霊魂は、時間が経つうちに、千々に分かれ、混じり合い、溶け合って、新しく生まれる生命にとりこまれていく。
 肉体が子孫を残したり、あるいは他の生きものに食べられたりして受け継がれていくように、心もまた循環しているんだ。自然の中を廻っているんだ。
 そうした生きものたちの霊が、現代の都市社会に生きる俺たち人間と直接関わることはまずない。ましてや、害をなすわけもない。ある程度霊感を備えた人にとって、そこに〝在る〟とわかるだけだ。昔ながらの狩猟採集生活を営む一部の先住民族は別だけど。いまなおアニミズム信仰を抱き続ける彼らが敬う精霊こそは、まさしく動物たちの霊にほかならない。
 そして、人間の幽霊も、かつては他の動物たちのそれと何の違いもなかった。文明というものを手にするまでは──。
 人間は自然の枠組みを外れて、どんどん増えていった。一方で、霊気に満ちた豊かな自然は次第に失われていき、人間自身の内にある生命力も衰えていった。それに伴って、幽霊の性格も大きく様変わりした。
 まず、〝後悔〟というものが生まれた。他の動物の場合は、唯一〝子孫を残せなかった〟という想いが、それにちょっぴり近いものだろう。あるいは、後悔する内容が人と他の動物とで大きく違うという言い方もできるかな。そして、人間の場合は、後悔の原因を数え挙げたらきりがない。もしかしたら、その全部が、動物たちのたった一つのそれに比べれば、取るに足らないつまらないものかもしれないけど。
 人間がふつう幽霊と化す理由は、この後悔だ。肉体の死を受け入れられない精神状態が、物質的基盤を失ってなお魂をさ迷わせる原因となる。人間特有の感情が、他の動物とは異なる第二のタイプの幽霊を生みだす原動力になったんだ。そのせいで、幽霊のまま居座っている期間も延びた。
 こうして幽霊になった人は、生きている人と見かけがそっくりだ。俺たちにはすぐ区別がつくけど。このタイプの霊は、一つの場所にじっととどまってブツブツつぶやいたり、ビデオを再生するみたいに同じ行動を繰り返していることが多い。街中で生きている人の中に、四、五十人に一人の割合でこうした幽霊がまぎれこんでいる。通常、大きな害をなすことはない。けど、「成仏させてくれ」と関係者に頼まれれば、引き受けることもある。
 最後に、人間の霊が特殊化する場合がある。後悔よりも新しく、もっと強い、怨恨や憎悪といったおなじみの感情によって生まれた霊──。
 第三の霊の姿は、人間であったときとはだいぶかけ離れている。ときには、元が人間とはとても思えないこともある。生きている人に対して、命に関わる実害を与えることもある厄介なタイプだ。さらに、邪念によって霊気を吸収して、強化されたりもする。まさに除霊すべき対象だ。
 いや、もう一つのタイプがあったっけ。そう……キムやベル、ジョルジュたち。彼らは動物だけど、人間の幽霊みたいにはっきりした姿を持ち、まるで生きているみたいに行動できる。動物と人間の幽霊のいいとこどりって感じだな。
 なぜ、イヌやネコの霊にそれが可能なのか? よくはわからないけど、たぶん、彼らが人間の心と野生動物の心の両方に深く接し、両者の橋渡しをする存在だからだろう。だからこそ、霊界救助活動に取り組めるわけだ。本当は、必ずしもいいことばかりじゃないんだけど……。
 ちょっと長くなっちゃったけど、大体こんなところでわかったかな? それじゃ、話を戻すことにしよう。
「事前に説明しときますけど、うちはよそのお祓いみたく奇抜なアトラクションは入りませんから。だからといって、ちゃんと〝処理〟はしますんで、誤解しないでくださいね」
 二人の教師に解説した遼子さんに、俺は小声でささやいた。
「始めますか?」
「お願い」
 彼女がうなずくのを合図に、俺はキムの背中に片手を置いた。
「いくよ、キム」
 キムの毛皮をうっすらと取り巻いていたオーラの光が強くなる。彼は、檻のあった地面から、三メートルくらいの高さにある一点をじっとにらんだ。威嚇の低いうなり声が大きくなる。
 と、その辺りの空間が、不意にミラーハウスの鏡みたいにゆがみ始めた。いくつかの小さな固まりが唐突に出現する。それらはやがて、ウサギのちぎれた足や耳の形になった。
 霊を見慣れているとはいえ、俺は思わず顔をしかめた。遼子さんが口をへの字に曲げ、目をぐるりと回してみせる。
「う……こ、これは……!?」
 うめきながら口もとを手で押さえたのは前田先生。ごくふつうの人が示す反応だ。彼のオーラは平均的なもので、少し黄色がかっている。俺と同じで、どちらかというとイヌとの親和性が高いってことだ。
 だが、土谷先生のほうは、ポカンとした顔で宙を凝視し、ときどき首をかしげるばかりだった。空中に〝変なもの〟が浮かんでいるのはなんとなくわかるが、少なくとも、不気味さや恐さを認識できるほどには見えていないってことだろう。
 実は、キムの鋭い眼光とドスの利いたうなり声には、霊の姿を顕在化させる効果がある。数あるキムの能力の一つ、〝眼力〟。霊がふるえあがっちゃうのだ。よっぽどイヌに免疫のある相手でない限り、キムにひとにらみされて隠れ通すことはできない。
 この作業には、依頼者に対象を視認させる意味も含まれている。中には、霊感の低い人、実際には幽霊を信じていない人もいるし。お金をもらってる以上、そういう人にもちゃんと納得してもらう必要があるからね。
 それにしても、土谷先生ほど霊感の低い人も滅多にいまい。彼のオーラは悲しいくらいわずかなもので、しかも無彩色のグレーときていた。これはニュートラル、つまり、どの種類の動物にも相手にされないことを意味している。幽霊が見えたところで気持ちのいいもんじゃないから、本人にとっては返って幸いかもしれないけど。
「さあ、君の分析を聞かせて」
 いつものように遼子さんに促され、腕組みして目前の霊にじっくり目を凝らす。霊界救助犬に除霊の指示を出す前に、霊の正体を見極めるのもハンドラーの仕事だ。俺とキムにとっては、仕事も実地訓練のうちなのだ。これは観察眼を養うと同時に、冷静に霊を分析対象とみなすことで、吐き気や恐怖の感情を抑え、相手に気圧されないようにする訓練でもある。
 ウサギの死体はいずれも本物そっくりに見えたが、血糊の部分が不自然なまでにどぎつい赤色をしていた。まるでペンキをぶちまけたみたいだ。これは霊の作り出したイメージにほかならない。血の色が強調されているのは、霊の執着を示している。自身の流血に対する恐怖心か、もしくは血を見る、見せることで覚える快感が、この霊の〝核〟に違いあるまい。考えられるのは──。
「ううん……無難な線でいくと、ウサギ殺しの事件に触発されて乱された霊場の上に、在校生の事件に対する恐怖心と好奇心がプラスされて形成された、一種の集合霊ってとこでしょうか?」
「こらぁ! そんなオカルトマニアの女子中学生みたいな回答じゃダメ! 集合霊ってのは、霊体の体積は大きいけど、もっと密度が低くて分散してるわ。それに、個々の霊の運動量が総和されるから、動きがより複雑になるの。これはイメージが鮮明でブレやゆがみがないでしょ。震動の周期も回転軸も一定だし。つまり、単体だわ。
「可能性としては二つ。私の見たとこじゃ、二、三十代の独身男性で、スプラッタ・ムービーの鑑賞が趣味。ビデオとDVDの山に埋もれて頓死したみたいな、超情けない死に方をしたんでしょうね、きっと。で、そいつもアホだから、リアルな現場を一度見たかったっていう願望があって、この場所に惹かれて来たところが、そのまま固定されて地縛霊になっちゃった、と。こどもを恐がらせて喜んでる愉快犯タイプね」
 ううむ……な、なるほど。いつものように遼子さんの模範回答を聞かされ、思わずうなってしまう。確かに、まだ小学生の児童たちの恐怖心が呼んだにしてはエグすぎるよな。読みが浅かった。
 遼子さんはそこで、鋭い目つきになって付け加えた。
「あるいは──こいつが犯ったってこともありえる……」
「それって、ウサギを殺した犯人がこいつってことですか!?」
「最近のCGはリアルだから、まがいものの映像作品をもとに〝合成〟したのか、実体験の記憶に基づくのかは、一概に判定できないけどね。でも、やっぱりこの死体、生々しすぎると思わない? 『ウサギたちの沈黙』なんてタイトルのホラービデオ、出回ってないよ。ま、もしこいつの仕業だったとしたら、同情の余地もないけど。キムに眼力を続けさせて。本体をさらけ出してやりましょう」
 キムのうなり声がさらにすごみを増す。しばらく宙に浮かんでブルブル震えていたウサギの肉片は、急速にしぼんで消えた。と思ったら、今度は二つの黒い固まりが出現した。無数の小さなハエみたいな黒点が集まってできているようだ。ぽっかりと開いた髑髏の眼窩にも見える。
「さあ、尻尾を出したわ。このタイプは、人格の名残もとどめない単純な思念のかたまりで、コミュニケーションなんて不可能。これじゃ、犯人かどうか確かめることもできないわね……。いずれにしろ、とっとと魂滅してもらうに越したことないわ」
 〝魂滅(ヴァニッシュ)〟とは、すなわち魂の死、本当の〝死〟を指す。穏やかな方法で消えてもらうか、力ずくで強制的に消すか、やり方はいろいろあるが、俺たちの仕事の基本はこれ。すでに肉体を失って元に戻りようのない霊魂を完全に消滅させることに尽きる。
 キムの背中の毛がブワッと逆立った。オーラも陽炎のように揺らめきながら黄金色の輝きを放つ。不運な霊のほうは、まるで本物のハエみたいに小さな黒点が激しく飛び交い、大きな二つの黒斑は回転と収縮を繰り返している。
 キムが鋭く「ワン!」と一声吠えた。
 バシュッ!
 何かが弾ける音とともに、一陣の閃光と突風が巻き起こる。次の瞬間、黒い影は忽然と姿を消していた。辺りに立ちこめていた禍々しい気配も。
「おお……さすがです……!」
 前田先生が感嘆の声をあげる。土谷先生は相変わらず何が起こったのかわからず、目をぱちくりさせていたけど。
 これにて除霊は完了。
 あまりにあっさりしすぎる? これが霊界救助犬キムの実力だ。というより、むしろ、イヌの幽霊とヒトの幽霊との力量差というべきか。
 動物霊ってのは、人間の霊よりずっと低級で劣ってると、だれもが考えている。俺たちハンドラー以外のプロの霊能力者でさえ。でも、これは間違い。事実は正反対だ。人間の霊は、はっきり言って弱い。激弱。
 なぜか? その原因を作ったのはやはり人間だ。
 生命の重みに違いはない。ヒトっていう動物の生死は、他の動物のそれと何一つ変わらない──現象としては。これは単なる自然界の秩序、一切の先入観を取り払った、すなわち生命活動の停止を指すところの〝死〟のメカニズムの話。
 だけど、人間は、自分たちの種の構成員の命だけは特別の重みがあると考えた。しかも、その価値基準をむりやり現実の世界に当てはめようとした。人の死にのみ神聖な意味を賦与しようとし、仰々しい儀式を催したり、土地を切り拓いて墓地を作ったり、挙句の果てはさまざまな動物を、ときには人間自身まで生贄として殺して捧げたり。おかげで、魂まで含めた自然界の循環の過程がすっかり狂ってしまった。
 ツケは霊界に回ってきた。結果として、人間の霊は他の動物の霊に比べて、吹けば飛ぶほど軽い存在になっちゃったんだ。人間の霊と動物の霊とが衝突したり争ったりすることが、特殊なケースを除いて起こらない──それだけのことなのだ。
 ちなみに、除霊関係者が一般に動物霊だと思いこんでいるのは、全部人間の霊だ。だから、やっぱり弱いんだけどね。
 この原理は、ワンニャン・サイコ・ズーオロジー研究所長の猫咲遼子氏によれば、共形霊場におけるウォーレンツ変換および霊子等価原理と呼ばれる。俺には何のことやらちんぷんかんぷんだけど……。
 そういう次第で、キムはあっさりこの哀れな霊を撃退することができたってわけだ。
 と思ってたら、遼子さんは舌打ちしながら苦々しげにこう言った。
「ちっ、やられた。逃げられたわ」
「え!?」
 驚いて彼女を振り返る。
「こいつは地縛系統じゃなかったってこと。ま、特異なケースとして考えられなくはなかったけど。いまのシーン、注意深く観察してた? 思い返してみて」
 俺は言われたとおり、頭の中でフィルムを巻き戻していまの場面を再現してみた。
「そう言えば、最後の瞬間クモの糸みたいなものがキラリと光ったような……」
「ヨロシイ。よく見てたじゃない。あれは肉体と幽体をつなぐ結線。本体は別の場所よ。しかも、ご存命でいらっしゃるってわけ。じゃ、次は臭跡を追ってちょうだい。突き止めたら連絡して。私はジョルジュを連れていくから。あ、その前に〝マーキング〟を忘れずにね!」
 マーキングってのは、逃げた霊が戻ってきたり、別の霊が寄りついたりしないよう、憑かれていた人や場所などの対象へのなわばり宣言をキムにしてもらうこと。このマーキングの厄除け効果は絶大だ。
 具体的に何をするかっていうと……早い話がおしっこをかけるだけ──。たいていの人には、キムに何をされているのか見えないのが救いではある。
「おい、どういうことなんだ!?」
 キムに用を足させている間に、遼子さんがその場を離れようとしたため、土谷先生があわてて呼び止めた。
「一応処置は完了しましたんで、幽霊騒ぎはもう二度と起こらないはずですわ。まだ後始末が残ってますけど。それじゃ、後金の振込みのほう、ヨロシク♥」
 そう言い残すと、遼子さんはスタスタと歩き去った。前田先生がペコリと頭を下げる。土谷先生のほうは釈然としない表情だ。
 二人の教師が職員室に向かった後、俺とキムは次のステップ、霊臭の追跡捜査に入ることにした。霊界救助犬は、霊がその場に残した臭いまで嗅ぎとれるんだ。
 霊ってのは物理的な存在じゃないから、目や耳でその姿を見たり聞いたりすることはできない。じゃあ、どうして感知できるかというと、それがいわゆる第六感、第七感ってやつなわけ。けれど、実際に俺たちが霊の存在を認識するときには、それらは必ず視覚的なイメージや音の形で現れる。それは、脳がもともと生物に備わっている知覚情報に変換してくれているからだ。イヌの場合、霊の特徴をいちばん捉えやすいのは何かといえば、当然〝臭い〟ってことになる。
 嗅覚細胞の数でヒトの五千倍、総合的にみれば十万倍を越えるイヌの嗅覚の鋭さを知らない人間の霊は、どこへ逃げ隠れしようと無駄なことをわかっていない。
 一般の災害救助犬が臭跡を追跡する方法には大きく三パターンある。まずトラッキング。これは地面にじかに染みこんだ臭いを嗅ぎとるやり方。トラッキング中のレスキュー犬は、さながら路上をジグザグに移動する清掃車のごとしだ。二番目がトレイリング。嗅ぎ方はトラッキングに近いように見えるけど、嗅いでいるのは地面そのものの臭いじゃなくて、地表のすぐ上に滞留する空気の臭いだ。最後の一つがエア・センティング。こちらは風に乗って運ばれてくる臭いの分子をつかまえるやり方だ。こっちはガス漏れ探知器みたいに、鼻を上に突きだして探り当てる。
 霊界救助犬の場合、それらに加えて彼らだけが持つ特殊な追跡法がある。その名もソウル・センティング。見たところはエア・センティングに似ているが、彼が神経を研ぎ澄ませているのは、霊界を漂う霊の臭いにほかならない。
 追跡開始。キムがリードを自ら引っ張って俺を誘導するのはこのときだけだ。リードは伸縮自在のフリーリードで、ハーネスにつながっている。キムのハーネスは生前に着けていたものとそっくりだが、よく見ると留め金が付いていない。彼の身体にぴったりフィットしていて、調節の必要がないのだ。
 実は、このリードもこの世のものじゃなかったりする。リードの端は俺の右手のひらの真ん中、生命線と運命線の交差する一点を突き抜けて甲の側に出ており、さらに手首に幾重にも巻きつき、皮膚の下に潜りこんでいる。母さんに言わせると、俺のキムに対する執着のなせる業だろうってこと。
 玄関をくぐって表に出ると、このハーネスは自動的に装着される。逆に家の中に入ると消滅する。便利な代物だ。ともかく、このリードのおかげで、俺はキムの存在を常に感じて安心することができる。
 学校の正門を出て、ガードレールに沿って歩道を進む。キムは黙々と地面の臭いを嗅ぎながら、確かな足取りで〝獲物〟の跡をたどっていく。
 こどもたちを騒がせた悪霊の出所はまもなく判明した。小学校からさほど遠くない場所に建てられた一棟のオンボロアパート。キムはその一〇二号室の前でしゃがみこむと、ドアの向こうをこれ見よがしに仰いだ。たちの悪いオバケ騒動を引き起こした犯人は、間違いなくこの部屋にいるはずだ。
 今の俺たちにできるのはとりあえずここまで。オバケになればどんな壁でもすり抜けられそうな気がするが(実際、そういう霊もいる)、キムにはそういう芸当はできない。ふつうのイヌらしくしてくれるほうが、俺としてはありがたいけど。
 遼子さんにメールで報告すると、返事がすぐに届いた。
《上々♥ キムっちには特上のジャーキーをご馳走してあげるべし! 二十分待ってニャ~》
 彼女の言うとおり、プレミアムのやつを買ってあげなきゃな。キムの頭をなでながら、俺は思った。この間、店で入荷したばかりの新製品を見つけたんだ。あれはコウタたちも好きそうだし。
 時計の針は六時を回り、辺りはすっかり暗くなっていた。アパートの建物自体からは、たいした霊圧は感じられない。キムにこっぴどく痛めつけられ、件の霊はきっとヘロヘロに違いあるまい。
 こんなとこで二十分もボケッと待っているのも手持ち無沙汰だ。張り込み中の刑事の気分は、俺には楽しめそうもないや。他にできることもないので、部屋の主でも確認しようと表札をのぞきこむ。
 アパートの廊下の電灯は球が切れかかっているうえに、傘の中にも蛾の死骸が山ほど積もっていて、ほとんど照明の用をなしていない。おまけに、マジックで書きこんだ汚い字だったため、判読は不可能に近かった。かろうじて読める範囲では、カタカナで〝イマイ〟と書いてあるようだ。
 予定時刻を三分オーバーしたところで、やっと遼子さんが到着。彼女にしては早いうちに入る。
 肩の上で一対の目が、街灯の明かりを反射してまぶしいくらいにキラリと輝く。ジョルジュだ。光っているのは大きな紡錘形の瞳だけじゃない。夜になると、この世ならぬ二匹は、全身がオーロラのような淡い輝きに包まれているのがわかる。
 遼子さんは俺たちの姿を認めると、一つこくっとうなずいて近づいてきた。キムがドアの前の場所を譲る。
 軽くノック。返事はない。ノブにそっと手をかけるが、鍵はかかったままだ。
 俺たちはこれから霊の本体と対決しなきゃならない。室内に侵入する必要がある。ピッキングでもするのか、って? いや、そんな危ない橋はもちろん渡らない。
 遼子さんがジョルジュのあごの下をそっとくすぐる。彼は気持ちよさそうに目を細めていたが、やがて一つ欠伸をすると、肩の上に乗ったまま背中を大きく弓なりに曲げ、毛皮をふくらませた。
 不意に、隣の部屋の外にあった洗濯機のフタがバコッと開いた。その向こうに置いてあるプランターは斜め四五度の角度に回転。洗濯機の中にあったバケツがポンと飛び出し、ゴロゴロとアパートの廊下を転がっていく。入口の蛍光灯が二回明滅してすっと消える。続いて、ガチッという鍵の開く音。
 遼子さんがニヤリとし、ジョルジュの額をなでなでする。彼は普段の大きさに戻り、何食わぬ表情で顔を洗った。
 騒霊現象、いわゆるポルターガイストだ。霊の力が、直接物体に働きかける物理的エネルギーの形で現れる現象。
 一般的なポルターガイストは、手当たり次第に物を投げつける幼児に等しく、意図的に錠を回すような高度なコントロールは利かない。この一人と一匹(ふたり)のコンビにして初めてなせる技だ。遼子さんいわく、ジョルジュは生前も各種の扉を開けるのが得意だったそうだけど。こんなのはまだ、彼の能力のうちではほんの序の口にすぎない。ついでに言うと、洗濯機やら何やらが動いたのは、ジョルジュの茶目っ気だ。
 室内は暗かった。汚い台所と一緒になったせまい玄関は、すぐに六畳程度のワンルームにつながっていて、薄く開いたドアの隙間から人工の光が漏れてくる。フィィーンという高いモーター音がかすかに聞こえる。
 ざっと室内の造りを確認した遼子さんは、灯りもつけずに上がりこんだ。俺とキムも後に続く。
 ドアを開くと、ディスプレイの明かりが目に飛びこんできた。その前に人が倒れている。
 やせて青白い顔をした二十代の青年だ。膝を折ったまま仰向けに倒れ、カッと見開いた目で天井を見つめている。いや、その目には何も映ってはいまい。
 キムが〝本体〟の臭いをクンクンと嗅ぎにいく。遼子さんもキビキビした足取りで男に近づいた。
 男に顔を寄せていたキムが、不意に顔を上げ、鼻にしわを寄せて低いうなり声を発した。ジョルジュまで、ライバルを前にした発情期のオスみたいな声を立て始めた。
「グルルル……」
「フゥオオウゥゥ……」
 二匹とも、並の霊が相手のときは、こんな反応はしない。小学校に出張していたのとは別の、もっと強力な霊がここにいる!? キムたちの目と耳が向いているのは──
 突然、つけっ放しだったパソコンのモニター画面からバチバチッと火花が弾けた。
「キム!」
 俺はとっさに彼の首に抱きついた。ディスプレイのほうを振り返ると、色とりどりのモザイク片から成る奇妙なだまし絵のような3Dのグラフィックが画面に浮かんでいる。無機的な数字の羅列にすぎないはずのデザインは、しかし、邪悪な何者かがこちらをじっとのぞきこんでいるような、そんな戦慄を催させた。
 数秒間、ユラユラと振り子のように揺れながら自転していた謎のオブジェクトは、格子状の仮想空間の彼方にできた水平線に向かって急加速し、見えなくなった。ディスプレイに壊れた古いテレビのような斜め縞が生じ、再起動を要求するブルースクリーンに変わる。
 キムの緊張が解けたのがわかる。おぞましい悪霊の気配もピタリとやんでいた。
 遼子さんが駆け寄ってキーをたたく。しばらく試行錯誤していたが、首を横に振ると唇を噛みしめながら言った。
「だめ。リストアされちゃってる」
「いまのは?」
「あれが件の〝ニュータイプ〟よ。今回もどうやら裏で糸を引いていたようね……」
 ニュータイプ──それは、最近登場し始めた新手の霊のことだ。厄介なことにこの霊は、インターネットを介してどこへでも出没する。さすがに、キムの鼻でも臭跡を追うことはできない。
 俺がじかに接触したのはこれが初めてだったが、一瞬背筋の寒くなるのを覚えた。これまでの霊とはタイプが全然違う。
 俺たちが対処してきた霊は、生前の悔いや恨みに縛られて、融通が利かないやつばかりだった。こいつには、生きた人間そのもののような悪意と狡猾さがうかがえた。証拠隠滅のためにパソコン内に残されたデータまで消去したり。それでいて、霊力のほうははるかに高い。人間のものとは思えないほど──。
 俺がぼんやりと考えごとをしている間に、遼子さんはきびきびと次の行動に移っていた。マネキンみたいにポカンと口を開けている男の腕を取り、脈をはかる。
 彼女は少し眉を寄せ、顔を上げて俺のほうを見た。
「迅人君、いきなり本番になっちゃうけど、いい? ライフサポート」
 霊界救助犬の本来業務というべきなのが、霊的要因で命を落としかけた人の魂をこっちの世界へ引き戻す〝人命救助(ライフサポート)〟だ。俺もキムも何度か訓練はしたものの、実践の機会はまだなかった。
 キムの目を見る──いけるよな?
「やります」
 遼子さんがうなずく。
「私とジョルジュがバックアップするから」

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