前ページへ         次ページへ



3 人命救助(ライフサポート)




 俺はキムと正面から向き合うと、お互いの額をくっつけて目を閉じた。精神を集中し、外界の情報をすべて遮断する。
 何も見えない。何も聞こえない。伝わってくるのは、キムの温もりだけ。
 やがて、真っ暗なトンネルから脱け出たかのように、景色が開けてきた。いまいたはずのアパートの一室とはまったく違う。辺り一面濃い霧でおおわれている。足もとの感触から、大小の丸石がずっと敷き詰められているのがわかる。霧の奥に、アリ塚みたいな影がいくつも浮かんで見えた。
 キムのリードを手に、まっすぐ、ゆっくり歩を進めると、サラサラという水の流れる音が聞こえてきた。石の原が切れたその先に、濁った水がどこまでもうねっている。海じゃない、川だ。向こう岸はあまりに遠すぎて見えない。けど、水は左から右へ、等しい速度で流れていた。まるで揚子江かガンジス川か、大陸を流れる大河川みたいな感じ。
 わかるよね。これが賽の河原。そして、三途の川──。
 本当は、そんなものはどこにも存在しない。魂はどこへいくわけでもなく、次の命に受け渡されるまで現実世界を漂っている。
 にもかかわらず、幽霊たちはまったく別のもの、別の世界を見たり体感したりしている。肉体を──外界の情報を伝える感覚器を失った霊魂は、代わりに自ら作りだしたイメージの中を漂流することになる。霊界とは、現実の世界と重なり合ったイメージの世界なんだ。
 そして、彼らはときに、その二つの世界を行き来する。俺たちも。
「迅人君。君とキムにとっては初めての本格的な救助ミッションになるけど、今回はさらに特殊要素が絡んでる。ニュータイプが関わっているうえに、対象が被害者じゃなくて加害者だわ。わかってると思うけど、私の指示どおりに動いてね。教えたとおりにやれば、大丈夫、きっとうまくいくわ」
 遼子さんとジョルジュが俺たちの隣に並ぶ。俺はうなずくと、川の面に目を凝らした。
 第一発見者のキムが、一声軽く吠えてみなの注意を促した。手でひさしを作って、彼が鼻を向けたほうに目をやると、はたして人影らしきものが見える。
 それは部屋で伸びていた若い男性と同一人物だった。ずいぶん小さく見えるけど、距離感はここではあてにならない。霊界に常識は通用しないんだ。
 不意に彼の姿が大きく、あるいは近くなったように感じた。これも意識を向けた結果だ。むしろ画面がズームアップされたというのが正解だろう。
「なんだ、お前たちは!? 何しに来たんだ!?」
 こちらに気づいた男のほうが声をかけてきた。かなり神経質そうな印象だ。しばらくそいつの様子を観察してから、遼子さんは尋ねた。
「あんただよね? 近所の小学校でウサギたちを殺害するイカレたまねしたのって」
 男が警戒の色をあらわにする。
「だったら何だ? いまさら俺を捕まえようってのか!?」
「そうね……それも一興だけど、あんたを裁くには、警察に突き出すくらいじゃ不足でしょ。だから、どうしたものか、ちょっと考えてるとこ」
「裁く? くく……俺をか? 俺を裁くのか!? おまえが!? 俺を裁けるつもりでいるのか!? ヘヘ……」
 男は舌なめずりをすると、目をぎらつかせながら言った。
「できると思ってんのか? できると思ってんのか!? くく……いや、できないね。できるもんか! なぜなら俺は──」
「死ぬんでしょ? 自分で」
 言葉を先取りされ、一瞬間が空く。
「そうさ。けじめは俺が自分でつけてやる。おまえたちには俺を裁かせないぜ。そんな権利はないんだからな。そうとも。いくら地団太踏んで悔しがったって、お前たちには俺を裁くことなんかできやしない。やれるもんならやってみろ! やってみろよ!」
 男が一歩、二歩と後退する仕草を見せる。けど、俺たちとの距離感は変わらない。
「どうした!? 捕まえてみろよ! 裁いてみろよ!!」
「んー、いいわ。やめとく」
 遼子さんはいかにも気のなさそうな声で答えると、マニキュアも塗っていないきれいな爪をいじりはじめた。
「いいよ、死んで。そのほうが手間要らずでこっちとしても助かるし。さあどうぞ」
 俺たちが救助にとりかかるのは、彼女の合図があってからだ。でも……ううん、いいのかな? 遼子さんが推理したとおり、こいつがウサギ殺しの犯人だってことは、これではっきりしたけど。
 遼子さんの意外な言葉に、男は一瞬戸惑いの表情を浮かべた。が、やがて一人で勝手に納得したように、顔を引きつらせ、口角泡を飛ばしてまくし立てた。
「もしかしてあれか? 俺がこれから死ぬところを見物しにでも来たのか!? そうか……俺を裁くなんて嘘っぱちなんだ。俺の死にざまを笑いにきただけなんだろ!? そうだ、きっとそうに決まってる!」
「人が死ぬとこ見ておもしろがるやつなんていないけど、あんたがそう思いたいんなら、勝手にそう思ってれば?」
 男は乾いた笑い声をあげた。
「ハ、ハ! そうか。そうなんだ! そんなこったろうと思ったぜ。お前らも連中と同じだ。どいつもこいつも同じなんだよ! いいぜ、死んでやる! 死んでやるよ!!」
 そして、四方八方に聞こえるようにと大声で怒鳴る。
「死んでやるーっ!!  死んでやるーっ!!」
 バシャバシャと川の中央に向かって走っていく。水は男のくるぶしまでしかなかったが、水深が変わる様子はない。本人は一所懸命走っているつもりなんだろうが、いつまでたっても一向に先に進まないようだ。
 三途の川は生と死の狭間にある危険な領域だ。本来なら、生身の人間が訪れるのは、まさに今際の床に就いたときだけ。川床で足をすべらせ、流されれば、そこで一巻の終わりだ。俺たち特殊な訓練を重ねてきたプロの霊能力者でさえ、ひとつ間違えば命取りになる。
 けれど、この男の場合、威勢のいい啖呵を切った割には、本気で自らを死に追いやる覚悟まではできてないように見える。彼がこの場にいること自体、ひどく場違いな印象を受ける。こどもの行水につきあってやってる気分だ。
 男はいったん立ち止まり、こちらを振り返った。目を飛び出さんばかりにむき出して、同じ言葉を繰り返す。
「死んでやるぞっ!!」
 舌なめずり。五秒くらい間が空いてから、言葉をつなぐ。
「俺が死ぬのは全部お前らのせいだからな! お前らが悪いんだからな!!」
「ふうん」
 遼子さんの素っ気ない返事。男は反対側を向きかけたものの、またしゃべりだした。俺たちに向かって、オースケストラの指揮者のタクトさながらに、震える指を突きつけながら。
「親父は無能なろくでなしだった。上司にも同僚にもそう呼ばれ、罵られてた。ムシャクシャした親父は、家に帰って酒をあおっては八つ当たりで俺を殴った。お袋はウスノロだった。世間体を気にして鏡を見てばかり。被害妄想を抱いて、買物やパーマから帰ってきては、近所のだれそれに陰口をたたかれたと大声でわめき散らす。しかも全部俺の、息子の出来が悪いせいにされるんだ。そのまま飯も作らず布団を被っちまう。とばっちりを食うのはいつも俺だ!
「学校でだって同じさ。先公のやつは俺をできそこないとバカにする。テストの答案用紙を返すときだって、わざとらしくため息をついて、周りに点数を見せるように渡したり。クラスの連中は、ケンカの強いやつ、勉強のできるやつから、順に弱いやつ、できないやつをいびっていく。俺はそのカーストの最下層ってやつさ。女子だって俺のことを毛虫でも見るような目で見て笑い者にする。俺から一メートル以内に近寄らず、俺の触れたものには素手で触ろうともしない。
「いつだってそうだった! それが世の中なんだ! 強いやつが、自分より弱いやつをいたぶって、ストレスを押しつけて、のうのうとしてやがる。世の中、そういう仕組みにできてるんだ! 才能だの実力だのと言葉で飾っても、要は強いやつらが常に勝つってだけの話だろ。力のあるやつ、金儲けのうまいやつ、人をだますのが得意なやつ、格差社会で勝ち残るのはそういうやつらばかりじゃないか。そして、いちばん下の下の、どん底に来るのは、いつもいつも俺だ! そう、人間なんてそこのイヌと何も変わりゃしないのさ。俺みたいな負け犬が生き残る道なんてないんだよ!!」
 ううん……他の部分はともかく、最後の一点については同意できないな。イヌたちの順位制は、人間の競争社会と違って、もめごとをなくして犬間関係を円滑に運ぶ知恵で、勝ち犬も負け犬もない。だから、捨てイヌの保護施設なんかでは、いくら数が多くても、いさかいもなくみんな仲良く暮らしてるんだよね。まあ、そもそもそんな慣用句があること自体おかしいんだけど。どうせなら、〝勝ち犬〟という用語を作って欲しいよな。
 ははあん……俺にもだんだん読めてきた。
 人生に悲嘆して自殺を何度も試みる自殺志願者。といっても、市販の睡眠薬を一ビン飲んだり、練炭やら漂白剤やらを買いこんでまねごとをしてみたり、せいぜい手首の皮を一枚切る以上のことをやる度胸はない。
 他人に迷惑をかけない分にはまだいい。最悪なのは、自分を殺すことに失敗し続けたあげく、矛先をこどもや動物など、自分以外のもっと弱い者に向けてしまうタイプだ。
 遼子さんを見やると、欠伸を噛みしめている。ジョルジュにも伝染ったぞ。差し当たって、キムの出番はなさそうだ。
「でも、なぜ俺なんだ!? 全部お前らが悪いのに! 世の中が悪いのに! 俺はごめんだ! 他のやつらのためのストレス解消の道具じゃない! 俺はイヌじゃない! もうまっぴらなんだ!!」
「で、自分より弱い標的を見つけたってわけ? それってサイテーだと思わないの?」
 遼子さんは言葉以上に鋭いナイフのような視線を投げつける。ありったけの軽蔑の念がこもってる感じだ。たぶん、男からもっと情報を引き出すための演技なんだろうけど……。
 あくまでつれない態度に、男はさらに声を張り上げた。
「悪いかよ!? 他の連中がやってるのと同じことをしただけじゃないか! 俺だけが責められる筋合いはないだろ!? 他にどうしろっていうんだよ!? そうやって積もり積もった他人の重荷を一人で押しつけられた俺は、一体どうすりゃいい!? そんなの不公平だろ! なんで他のやつらじゃなくて、俺ばかりが犠牲になるんだ!? 俺が負け犬の役立たずだからか!? 世の中に不用だからか!? ウサギよりもか!? 虫ケラよりもか!?」
 そこで俺と男の視線が合ってしまう。
「お前もか!? お前もそう思ってんのか!?」
 やっぱりフラレた。
「いや、俺に聞かれても……」
 遼子さんが横目で俺をにらみ、肘で小突いた。黙ってろというサインだ。
「だれもそんなこと言ってないけど、あんたがそう思うなら、たぶんそうなんじゃないの? まあ、ウサギより役に立たないやつなんて、世の中にゴマンといるけどさ。それにね、あんたと違って、もっと生き続けていいはずなのに生きられない命だってゴマンといるのよ。そのほうがよっぽど不公平でしょ? 私たちも暇じゃないのよ。さっさと自殺でもなんでもすれば?」
 またしばらくの沈黙。男は癖になってるらしい舌なめずりを始めた。言葉を探しているようだ。
 もし、相手が悪霊に引きずりこまれかけている犠牲者なら、まどろこしい手続きなど一切なしに速攻で救助にとりかかる。だが、遼子さんも指摘したとおり、今回のケースはかなり特殊だ。
 男は生きながら霊魂が肉体から引き剥がされ、オバケと化して小学校を騒がせたあげく、元の身体に戻れずにいる。これは本来なら非常に危険な状態といえる。
 ところが、霊界に潜入していざ対面してみると、三途の川の浅瀬でウロウロしながら泣き言を並べ立てるばかり。一見救助が必要な状況には見えない。自殺未遂と幽体離脱を常習的に繰り返すうちに、この生死の境界領域に対して一種の免疫ができてしまったのか。それとも、やっぱりニュータイプが絡んでいるせいなのか。
 遼子さんには確固たる算段があるんだろうけど、俺にはどうやったらこの男を〝救助〟できるのか、見当がつかない。男を説得して連れ戻すことができるなら、キムにも負担をかけずにすむし、それに越したことはないんだが。いずれにしろ、いまは彼女の指示があるまで待機するよりない。
 と、男の表情が奇妙にゆがんだ。輝きの失せどんよりと淀んだ目は、まるで死んだ魚のようだ。
「ヘッヘッ……死んでやるとも……。だがな、覚えとけよ。いずれ痛い目を見るのはお前らのほうだ。ざまあみろだ。お前らは何も知らねえのさ。俺になぜあんなまねができたと思う? あいつに唆されたんだよ。お前らはみんな、あんなやつらが暗がりで蠢いていることに気づかない。俺みたいな人間を格好の標的にして、いい気になって何もかも押し付けてきたツケを支払わされることになるのさ……ヘッヘッ。
「耳もとであいつはささやいた。
《コレカラ、オ前ガ自分自身ヲ救済スルタメノトッテオキノ方法ヲ教エテヤロウ。誰デモイイ、がきヲ刺シャイインダ。ドウセソイツラハ将来オ前ト同ジ目ニ遭ウカ、オ前ヲセセラ笑ウ連中ニ加ワルダケダ。ダカラ、オ前ガ吐ケ口ニシタッテ一向ニ構ワナインダヨ。ダロ?》ってな。
《がきナンテタダノ肉ノ塊サ。オ前達ガ日頃口ニシテル肉ヤ魚ト同ジダ。肉ヲ切リ裂ク時、ないふヲ通ジテ伝ワル感触モ、アガル悲鳴モ、屠殺場ノ豚ト何モ変ワリャシナイゼ。慣レリャドウッテコトハナイ。ソノウチ快感ニ変ワル。オ前ガコレマデ溜メ込ンデキタモノヲ全部吐キ出シテヤレ。気分ガすかっトスルコト請ケ合イダ。イキナリにんげんノがきガキツケリャ、他ノ肉デマズ試シテミルトイイ。ソウダナ……手近ナトコロデ、小学校デ玩具ニサレテルうさぎデモばらシテミナ。ソウスレバ、俺ノ言ッテルコトガ正シイトワカル。ナニ、遠慮ハ要ラナイ。オ前ガ手ニカケナクタッテ、がきドモニ粗末ニ扱ワレテ死ヌノガおちナンダカラヨ》
「で、いつのまにか俺は校庭に立って、血まみれのナイフを握り締めてたってわけだ、ハッハッ! まあだが、俺はこどもまでは手を出さなかった。いいか、ガキを拉致ってどうかしたのは俺じゃない、俺じゃないぜ。まあ、怖気づいたわけでも、そいつを信用しなかったわけでもないがな。どうせ、俺の次に負け犬扱いされたやつが、代わりにやってくれるだろう。世の中が変わらない限り、いくらでも犠牲者が出続けるのさ。それで十分だぜ。どうだ、俺は死ぬけど、この腐れた世間に殺されるけど、ガキどもに手はかけなかったんだぞ!? 俺はそこまでクズじゃない! だから──」
 遼子さんは一つため息をついて男の話を遮った。
「もういいわ。状況は大体呑み込めたから。けど、自分の罪を他人になすりつけるのは感心しないわね。ニュータイプに唆されたといっても、あんたはウサギ殺しの実行犯。あんたはクズよ。殺したのがウサギだったか人の子だったかなんて関係ない。自分に生きる勇気がないからって、他の者が生きる権利を奪った。意気地なしの卑怯者。そんなバカなまねする前に、さっさと死んじゃえばよかったのに……」
 男はプルプルと唇を震わせ、言葉も出ない。電卓でもたたいてるみたいに無意味に指を動かし、盛んに瞬きを繰り返す。一秒間に十回以上してそう。
 大丈夫かな、遼子さん? ますます追い詰めちゃってるように見えなくもない。どっかの国みたいに、あんまり刺激すると暴発しそうで怖いよ。
「私たちはね、あいつらを追ってるとこなの。いずれ必ず尻尾をつかんで必ず潰してやるわ。ここにいるのもそれが理由。あんたのことなんて別にどうでもいい。ところで……あんた、死んだ後に自分がどこへ行くのか、知ってるの?」
 男は一瞬たじろいだ素振りを見せたが、空元気を絞りだすように胸を張った。
「知ってるさ! 知ってるとも! 地獄だろ? あれだけのことをすれば、地獄行きに決まってるよな……。もちろん、覚悟はできてるとも! でも、地獄だろうとどこだろうと、こんな世界で生きていくのに比べりゃ、よっぽどマシさ!!」
「アハハハ!」
 それを聞いた遼子さんは、いきなり上半身を折って大声で笑いだした。しばらく笑いが止まらない。その間、ジョルジュはサーカスの玉乗りよろしく、彼女の両肩や背中の上をバランスをとりながら行き来する。彼女はようやく目ににじんだ涙を拭くと、言葉を継いだ。
「残念、ハズレ。あんたみたいなバカでもわかるように説明してあげるわ。いい? 天国だの地獄だのってもんのはないの。もちろん、生まれ変わりもね。大昔のエライ人がね、人々の死に対する恐怖や苦痛を和らげようとして、それから、あんたみたいなダメ人間がバカなことするのを思いとどまるようにって、頭をひねってこしらえたフィクション。まあ、後者の効用はあまりなかったみたいだけど。だから、いろんなタイプの人にウケがいいように、バリエーションがそろってるわけ。嘘八百。
「本当のこと、教えてあげる。この先には何もないの。あんたは消えてなくなるの。存在するのをやめるの。ジ・エンド。あんたの時計の針は止まる──永久に。世界はあんたをここへ置き去りにしたまま、未来へ向かって進んでいくのよ。あんたが出会ったような幽霊ってのはね、魂のダストシュートに放りこまれる途中で引っかかってるだけなの。一度死んだ命は二度と再び還ることはない。行く場所も用意されていない。わかった?」
「う、嘘だ……」
 男がわななく声で言う。
「あんたが信じようと信じまいと、残された選択肢はひとつよ。生きて償うか、ここでジ・エンドか。償う気がないなら、さっさと消えなさい」
 そこで遼子さんは後ろを向くと、感情のない声で一言言い放った。
「さよなら」
「嘘だーっ!!」
 ガポッ! 男が不意に沈んだ。急に背が立たないほどの深みにはまったみたいだ。波間でもがきながら、男は本心からの悲鳴をあげた。
「た、たすけて……!」
「行きますか?」
 俺は我慢できなくなって遼子さんを見たが、彼女は首を横に振った。
「三途の川を甘く見ちゃだめ。あんなやつのためにキムを危険にさらす気なの、迅人君? 万一流されでもしたら、この子まで魂滅しちゃうのよ?」
 もちろん、そんな気はない。といって、彼女もこのまま放置するつもりはないらしく、次の行動に移った。
「ジョルジュ!」
 彼はもう一回欠伸をすると、あいわかったとばかり着地して川べりに立った。
「フゥゥオオォォゥゥ……」
 例の、首筋がゾワゾワするような鳴き声。と、突然、目の前に一艘の小舟が出現した。
「君に見せてなかったこの子の能力の一つ、〝渡し守〟よ。さ、乗って!」
 びっくりする暇もあらばこそ、キムとともに渡し舟に乗りこむ。ジョルジュが舟のへさきに立った。
 昔は北欧のバイキングがネコを守り神として船に乗せたり、日本でも珍しいオスの三毛ネコなんかが縁起を担がれ、漁師や船乗りから水難を防ぐご利益があると崇められていたという。彼の能力もその辺りから来ているのだろう。ネコのくせに、水を恐がる様子も見せない。もともと死んでいるとはいえ。
 俺がオールを手に持って漕ぎ始める。舟はゆっくりと滑りだし、男のいるほうへ向かっていった。
 男から三メートルくらいの距離に近づいていったん停止。彼は両手をバタバタさせ、本当に溺れかけているように見えた。だが、遼子さんはオールを差し出そうとしない。
 まだ演技だと思ってんのかな? だとすれば、かなり真に迫ってるけど。俺はそこまで見抜く力はないので、遼子さんが合図したらすぐに動けるようにと、自分もキムのリードを短く握りしめ、もう一方の手でオールを操りながら、態勢を整える。
「あんたが全面的に反省してちゃんと罪を償うっていうのなら、助けてやってもいいわ」
 男はもがきながらも、憎悪のこもった目で遼子さんをにらみつけた。
「だ……だれが……」
「そ。じゃ、バイバイ」
 ここまで来ると、ほとんど意地の張り合いに近いな。男はわざとなのか、微妙に「タスケテ」と聞こえなくもない意味不明の言語を発していたが、不意にまるで力尽きたかのように水面下に沈んだ。十秒経過。
 だれかが水に飛びこむ音がした。
「キムッ!?」
 彼だった。
 遼子さんが非難がましい目を俺に向ける。俺は船べりに身を乗り出してキムの位置を確認しつつ、ブンブンと首を横に振った。
 キムは遼子さんと俺の指示を待たず、見ず知らずのサイテー男のために、自発的に飛びこんだんだ。見るに見かねたんだろう。
 彼はやさしい子だった。あまりにやさしすぎて、自分の命まで落としてしまったほど──。
 キムが一回水中に潜り、男の服をくわえて水面に引っ張りあげた。男は意識を失ってはおらず、ただ虚ろな目をキムに向けている。
 俺は男の服を引っつかむと、乱暴に舟の上へ引き揚げた。すぐにキムの救助にとりかかる。彼は舟に上がると、ブルッと身体を振るわせた。全身ずぶ濡れだが、それほど疲れた様子はなさそうだ。よかった──。
「あ、ありがとう……」
「別にあんたのためじゃない。あんたなんかのためにキムの〝寿命〟を縮めさせるわけにはいかないんだ……」
 俺がつっけんどんに言うと、男はしゅんとなってうつむいた。彼のことはそれきり無視して、シャツを脱ぐと、水を滴らせているキムの毛皮を拭いてやる。三途の川の水はひどく冷たい。
「キムがね、あんたの命は自分やウサギたちの命にも劣るけど、目の前で死なれるのは後味が悪いから助けてやるって。いいこと? あんたは犯罪者。大勢の命を奪い、こどもたちの心に深い傷を残した。警察に突きだせば、『動物の愛護及び管理に関する法律』第二七条に基づき一年以下の懲役又は百万円以下の罰金。だけど、あんたを警察に引き渡すことはしない。その程度ですむほど軽い罪だと、私は思っていないから。生き続けたかったら、自分のやったことを一生かけて償うこと。それがいやなら、舟から降りてまた川の中に戻ってもらうわよ!?」
 一応補足しておくと、動物愛護法は最近の改正で、罰金額が引き上げられたものの、実際に適用されるケースはほとんどない。この手の犯罪は未だに〝器物損壊〟扱いされてしまうことのほうが多いのだ。諸外国のように運用の体制が整っておらず、警察も及び腰なことが原因だけど。
 男はキムのほうをじっと見つめると、がっくりと肩を落とし、小さな声でつぶやいた。
「……重い……なあ……」
「そうよ。重いのよ、命ってのは。あんた、学校で習わなかったの?」

 気がつくと、アパートの一室に戻っていた。男は意識を失っていたが、先ほどの歪んだ表情はなく、ふつうに眠っているように見えた。
「ご苦労様、迅人君。まだ事後処理が残ってるけど、今日はもう帰っていいわ。キムも大仕事の後でだいぶ疲れているはずだから」
 遼子さんが俺に声をかける。ずっとしかめっ面だっただけに、ようやくいつもの遼子さんらしい笑顔に戻ってくれて、俺もホッと一安心した。
 一緒に霊界から帰還したキムをギュッと抱きしめる。毛皮はまだ乾ききっていないが、心臓が力強く打っているのがわかる。滴る水も、心臓の音も、本物じゃないことはわかっているけど。遼子さんの言うとおり、今夜はゆっくり休ませてやらないとな。
 退出する際に、遼子さんがふとつぶやく。
「迅人君。もし、あなたの……」
 キョトンとして次の言葉を待つ俺の顔を、彼女はじっと見つめていたが、やがて目を伏せて首を振った。
「ううん、ごめんなさい。何でもないわ……」
 もう一度室内を振り返った遼子さんの顔には、霊界にいたとき以上に険しい表情が漂っていた。視線の先には、何も映っていないディスプレイがあった。

 アパートを出て空を仰ぐと、雲の切れ間から明るい星が見えた。風が強いらしく、蜃気楼みたいに揺れ動きながら激しく瞬いている。
 時計を見ると八時半を回っていた。もうそんなになるのか──と意識した途端、胃袋がオーダーを要求しだす。霊界では時間の感覚も常識が通用しない。腹時計も……。
「アハハ、若いねえ、君の胃袋は♪」
 後ろから遼子さんの声。やっぱり聞こえてたか、腹の虫。
「い、いまのはキムですよ」
「こら! そうやって責任転嫁してると、女の子に嫌われるぞぉ」
「そ、それより、事後処理って、また学校へ行くつもりですか?」
 俺は話をごまかすついでに尋ねた。
「とりあえず寄るだけ寄ってみるわ。前田先生が残ってたら、念のためあの男のことを報告しておく。土谷だけだったら、回れ右して後で電話連絡する」
 まあ、その気持ちはわかる。
「だったら、俺も行きますよ」
「迅人君、お腹空いてるんでしょ? それとも、腹ぺこなのはキムのほうだっけ?」
 意地悪だなあ……。
「キムも俺も、出る前におやつを食ってきましたから平気っすよ」
「今日は大仕事で疲れてるはずだって言ったじゃん。もっとキムのこと大事にしなきゃダメだよ?」
「それを言ったらジョルジュだって同じじゃないですか。遼子さんだって、そんなに時間を取る気はないんでしょ? あと少しくらい大丈夫だよな、キム?」
 本音を言うと、ジョルジュがついているとはいえ、こんな夜遅くに遼子さん一人を歩きまわらせるのが不安だったんだけど。でも、キムだってそう思うだろ?
「やれやれ。じゃあ、こうしてても仕方ないし、さっさと終わらせましょ」

 母さんに電話を入れ、簡単に事の次第を伝えた後、俺は遼子さんとともに里見三小へいったん引き返した。職員室の灯りはまだ点いている。ドアの隙間から室内をのぞいてみたが、だれもいなかったため、まっすぐ当直室へ。
「これじゃ、入るまでだれがいるかわかりませんね。前田先生か他の先生だったらいいけど、土谷先生だったらどうします?」
「忘れ物したってごまかして速攻トンヅラ」
 ……。ドアを恐る恐る開けると、こちらに背を向けて窓の外をながめている教師が一人。ホッと一息。前田先生のほうだ。
「ああ、君たちは……」
 振り返って俺たちの姿を認めると、柔和な笑みがこぼれる。
「ども。ワンニャン・サイコ・ズーオロジー研究所の──」
「猫咲遼子さんと犬伏迅人君でしたね。どうされました? 何か忘れ物でも?」
「ああ、いえ。最終確認が済みましたもので、ご報告に。実は、今回処理した件なんですが──」
 遼子さんがことの顛末を話しだした。結局、ウサギを装った霊の正体が今居という男の生き霊だったことを告げる。俺は表札を見ただけだったけど、彼女は机の上にあった水道料金の請求書からしっかり本名をチェックしていた。すると、前田先生は深いため息をついた。
「そうでしたか……」
「で、この今居という男なんですけど、どうされます? 警察に通報することも可能ではありますけど、私どもとしては──」
「今度の件については、不問にしてやっていただけませんか?」
 遼子さんに最後まで言わせず、前田先生は頭が膝につきそうなほど深々と頭を下げた。もともとそのつもりだったけど、まさか先方から寛大な処置を嘆願されるとは思わなかったな。
「その子の名前は……覚えています。彼は……十年前の当校の卒業生、私の受け持ちのクラスの子でした」
 教壇に立つ人たちの人名を記憶する能力には、改めて驚嘆を覚える。十年の間に直接担任する生徒の数はざっと四十×十で四百人。俺には絶対無理だなあ。そういや、さっき会ったばかりの俺たち二人の名前もしっかり記憶してたし。
「先生がそうおっしゃるのであれば、私どもとしても異存はございませんわ」
 遼子さんの言葉に、もう一度お辞儀してから、再び窓のほうを向く。
「当時から目立たない子でした。心の内に劣等感を溜めこんでいたとすれば、私にも責任の一端がないとは言い切れません。やさしさも人並みに持ち合わせている子だったはずなんですが……」
 そこで俺たちのほうを向き直り、さびしそうな笑みを浮かべる。
「こどもたちには何より、自分より弱い者への痛みを感じとれる大人に育ってほしい。そのためにも、学童期に命と触れ合う機会をより多く持たせてあげるべきだと思うのです。だから、私はよその学校のように、飼育舎を早々に撤去することには反対でした。異なる意見をお持ちの先生方もいらっしゃいましたし、結局裏目に出てしまいましたが……」
 一口に教師といっても、いろんなタイプの人間がいるんだな……俺は思った。校内で人気投票をしたら、前田先生はきっと上位三位内、土谷先生は最下位レベルだろう。彼は自分を責めたけど、今居の人格のマイナス面はむしろ中学・高校時代に醸成されたんじゃないかと思うし。
「このたびは本当にどうもありがとうございました。謝礼のほうは後ほど振り込ませていただきますので」
 俺たちは先生とあいさつを交わし、当直室を後にした。
 さっき出ていた星は、いつのまにかまた雲に隠れて見えなくなっていた。暗い校舎を振り返ると、うっすらと青白い輝きに取り巻かれているのがわかる。校庭や木立、遊具にも。俺たちにしか見ることのできない霊場だ。
 ウサギの怨霊騒動が一件落着して、霊圧が下がってもいいはずなのに、なんだか全体にざわついている感じだ。まあ、いわくつきの学校だから、まだほかに霊障を抱えていても不思議じゃないが……。遼子さんの表情は暗くてよく見えない。
 俺たち二人と二匹(よにん)は里見三小を後にした。きっと早々にここへ舞い戻ることになりそうだな──そんな予感と、一抹の不安を覚えながら。
 今回の一件は、霊界救助犬キムとハンドラーの俺を待ち受ける過酷な戦いの序章にすぎなかったなんて、このときの俺には思いもよらなかった──。

前ページへ         次ページへ
ページのトップへ戻る