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6 犯人




 二日後、俺たち二人と二匹(よにん)は、再び里見第三小学校の敷地内へ潜入した。
 今居にもそれなりに重要な任務をしっかり果たしてもらっている。怪しい格好で校内をうろつきまわり、警備員の目をひきつけるという……。いい気味半分、気の毒半分というところ。
 それ以上に大事な使命を帯びているのがジョルジュとキム。俺も初めて目にするジョルジュの能力、〝パイドパイパー〟が今回の鍵だ。
 笛の音で街中のこどもを操り、さらってしまったハーメルンの笛吹き男の伝説は知っているだろう。でも、実はこどもたちを呼び集めたのは笛吹き男じゃない。街からネズミを追い払った、彼のパートナーのネコだったのだ──と、遼子さんは説明した。
 ジョルジュって、もしかしてドイツのネコの血を引いているのかな? そんなウンチクまで知っている遼子さんもすごいけど。まさか笛吹き男の子孫ってわけじゃあるまいに。彼女に関する謎がまた一つ、増えてしまった。
 遼子さんが、ジョルジュの首輪をあらかじめ用意していた鈴付のそれと取り替える。彼はキムの背中にピョンと飛び乗った。遼子さんはもう一つの必須アイテム、フルートを取り出し、唇に押し当てた。ミュージックスタート。
 俺のやることはといえば、校庭のトラックで演奏に合わせて引き運動。それも、ジョルジュを乗せたまま……。こりゃ、笛吹き男っていうより、サーカスの曲芸だな。
 遼子さんにハンドラーの指導を受けるようになって以来、彼女の言うことを疑ったことは一度もない。けど、今度の大技については、さすがに半信半疑だった。
 ところが……フルートと鈴の音、ジョルジュのテノール、八本の足の規則的なステップに耳を傾けているうちに、二百メートルのトラックを一周半ほどした辺りで、なんだか頭がフワフワしてきた。もしかして、一五歳の俺に対しても効果覿面なんだろうか? 俺、一応ハンドラーなのに。
 ふと校舎のほうに目をやった俺は、腰を抜かさんばかりに驚いた。校庭に面した廊下の窓という窓に、こどもたちが鈴なりになっていたからだ。いまは授業中のはずなのに!?
 やっぱり遼子さんはすごいや、ジョルジュも。
「ストップ!」
 遼子さんの指示でキムを立ち止まらせる。ジョルジュが最後に一声大きく鳴いた。
「ファァアアアオォォウ!」
 こどもたちの波がいっせいに動きだした。整然と列をなして運動場に押し寄せてくる。大人たちの罵声や悲鳴が聞こえるが、生徒の間に動揺はない。先生たちは、学級どころか学校崩壊が起こったと、てんやわんやの大騒ぎになっているだろう。
 小学生たちはみな、全校集会さながらに校庭に整列した。どの子も夢見心地の顔つきだ。視線の先、教壇の上に立って生徒たちを見渡しているのは、キムとジョルジュ。催眠誘導時のこどもたちは一時的に霊感がアップしているため、全員の目に二匹の姿が見えているはずだ。
「こ、こらっ、お前たち! 二度と来るなと言ったはずなのに! 一体全体これは何のまねだ!? うちの生徒に何をした!? すぐに警察を呼ぶぞ!!」
 土谷氏が蒸気機関車みたいに湯気を立てて怒鳴りこんできた。
「あら、土谷先生。私たち、誠心誠意を尽くして依頼を完遂したつもりでしたのに、先生には代金をいただけなかったばかりか、インチキ呼ばわりまでされてしまったもんですからね。おかげで、うちは看板にキズが付いて、それはもう深刻な打撃を被っておりますのよ。で、この際、三流扱いでもかまわないから、マスコミに盛大に書き立ててもらうのも一興かと思いまして。これは、そのためにお子さん方に協力いただいたデモンストレーションですの。知り合いの記者にも先ほど連絡を入れたところですわ。これって、絵になりますでしょ~? 見出しはこんな感じでどうかしら? 『事件と不祥事相次ぐ里見第三小学校で生徒集団ストライキ!』 そうそう、警察の方にお越しいただくのも名案ですわねえ。ワイドショーで放映してもらえば、お互いきっと全国区で有名になれますわ♪ どうぞお呼びになって♥」
「こんのクソアマァ~!!」
 土谷氏は脳の血管がぶち切れんばかりだ。小学生の前では禁句の暴言まで飛び出した。
「これはいったいどういうことです!?」
 年輩の先生が割りこんでくる。髪型もしゃべり方も、テレビで有名なタレント解説者にちょっと似ている。どうやら今の校長先生らしい。
 その後ろには前田先生の姿も見えた。校長の袖を引っ張っていって、小声でモゾモゾと耳打ちする。
「いえ、例の件で……。はい、それが……」
 しばらく教員同士で話し合った後、校長が俺たちのそばにやってきた。
「ああ、どうも申し訳ない。依頼金については、所定の金額をきちんとお支払いいたしますから、どうか当方の事情もお察しのほどを……」
 上司のほうは学生二人を相手にペコペコとお辞儀してばかりで、やたらと低姿勢だ。不祥事対応がすっかり板についてしまったという感じ。だが、遼子さんも簡単には引き下がらない。
「まあ、お話のおわかりになる先生で、ありがたいお言葉ですわ。ですが、私どものほうにものっぴきならない事情がございまして。何しろ、うちの依頼達成率は百パーセント、未解決のうちに手を引いた事件はいままで一件もございませんの。それが、当ワンニャン・サイコ・ズーオロジー研究所の売り文句ですからね。お手間はとらせませんので、もうしばらくだけお時間を拝借できませんかしら? もちろん、約束を守っていただく以上、当方も守秘義務に関しましては厳守いたしますわ」
 校長先生は少し考えこんだあげく、首を縦に振った。
「わかりました。お任せしましょう」
「こ、校長!?」
「まあまあ、いいじゃありませんか。今回限りということで」
 二人の六学年担任が珍しく声をそろえたが、校長は二人を軽くなだめた。在任中に自分の名前が記事になって、これ以上経歴に傷がつくよりマシだと判断したんだろう。
 土谷先生は、苦虫を噛みつぶしたような渋い顔だ。前田先生も、俺と視線を合わせようとはしない。
 遼子さんはにんまりして頭を下げると、こどもたちのほうへ向き直った。パンと手を一回たたくと、いっせいに催眠術から覚める。
 さっきまで教室で勉強していたはずなのに、なぜ外にいるのかと、だれもがキョロキョロと周囲を見回しながらいっせいにしゃべりだす。中には、「あ、この間のお姉さんたちだ!」という声も。
「ハァイ、みなさん♪ 突然でびっくりしたと思うけど、ちょっとみんなに聞きたいことがあるんだ。お姉さんの質問に答えてくれるかな? ウサギ小屋のところに出るオバケのことなんだけど」
 たちまち私語が活発になる。それでも、校長先生のお話よりはずっと興味をかきたてられるのだろう。熱心に遼子さんの話に聞き入っている。
「じゃあ、まずウサギ小屋のところに出る幽霊を見たことのある人、手を挙げてーっ!」
 ほとんどクイズ番組の司会者のノリだ。こどもたちが元気よく手を挙げる。
 手を挙げたこどもたちの分布を見ると、とても不思議な現象が発覚した。挙手した生徒は、ほとんどある一クラスに集中していたのだ。いくつか見覚えのある顔が混じっている。先日の放課後に俺たちが出会った子たちだ。
「校長先生、あれはどちらのクラスですの?」
「あれは六年二組ですな。前田先生の受け持ちです」
「前田先生?」
 遼子さんがわざとらしく眉をピクッと動かす。校長の脇では、その前田氏が異様に大量の汗を流し始めていた。ハンカチで額をしきりに拭っている。
「一つお尋ねしますけど、今回の件で私たちに依頼をいただいたのは土谷先生と前田先生でしたね? 依頼先等については校長先生へのご相談はなかったんですの?」
「とくに騒いでいるのが六年生だということは聞いていたのでね。土谷君は生活指導全般を引き受けてもらっているし、前田君は飼育動物担当だったから、お二人にすべて一任したのですよ」
「ほぉう……」
 遼子さんが依頼人の二人に冷たい視線を注ぐ。
「前にも言ったが、おたくを見つけてこの件を依頼したのは私ではないぞ。私はこんな得体の知れないところに頼むのは反対だったんだから!」
 土谷先生が憤然として口をはさむ。前田先生は無言だった。
 遼子さんがこどもたちに次の質問を発する。
「それじゃあ二番目の質問ね。見た幽霊がウサギだった人は?」
 今度は逆の反応。チラホラとしか手が挙がっていない。しかも、六─二は全滅だ。
「じゃあ、何の幽霊だったのか教えてくれる?」
 「女の子!」という声がいっせいに返ってきた。
 さっきよそのクラスでウサギと答えた子がいたのは、単なる見間違いか、思いこみだろう。今居の生き霊が出没していたのは、彼の証言を信じるなら、夕方から深夜にかけてだ。当直の先生や警備員ならともかく、こどもたちが遭遇する機会はほとんどあるまい。
 ここまでの遼子さんの推理は見事に的中した。いよいよこれから事件の核心に迫る質問に入っていく。
「女の子は全部で何人だった?」
「三人」
「年は何歳くらいだったかな?」
「私たちと同じくらい」
「どんな服装をしてた?」
「三人とも裸だった」
「表情は?」
「泣いてた」
 こどもたちとのやりとりを聞いていた校長が、困惑した顔で質問をはさむ。戸惑っているのは土谷先生も同じだ。その奥では、前田先生の顔色がますます青くなってきた。
「あの……どういうことなんでしょうか? 私は幽霊騒ぎというのはウサギの話だと聞いていたのですが。まさか、これは……!?」
 遼子さんは一つ深呼吸すると、一転して真剣な表情で校長の顔をのぞきこんだ。それも演技だけど。
「校長先生。どうやら予測もしなかった方向に事態が進展しそうですわ。ところで私たち、別にふだんから警察の方々と懇ろにしているわけじゃないんですけどね。超能力の類いに頼るなんて、プロファイルのみで強制捜査に踏み切るみたいな危なっかしい話になりかねないんで。けれども、どうしても遺留品や遺体、凶器等が見つからないときは、捜査協力を要請されることもありますわ。とくに、連続殺人や要人誘拐のような重大事件の場合は、私どもとしてもお引き受けするのにやぶさかではございませんの。当研究所の名が表沙汰になることはありませんけど。
「で……もし今回の件が、例えば、こどもが三人も誘拐・監禁されて最悪の事態に至っていたというような、凶悪犯罪に結び付くものであったなら、さすがに私たちとしてもノーリークってわけにはまいりません。おたくも、内々に処理なんて言ってる場合じゃありませんでしょ?」
「し、しかし……もし本当にそうだとしても、何か物証でも挙がらないことには……」
「おっしゃるとおり。でも、ご心配なく。こちらのクラスに確か白石さんという女子生徒がいらっしゃるはずです。霊感水準のかなり高いお子さんなので、真相究明につながる有力な情報を得られるに違いありませんわ。というのも、被害者の女子生徒とは最もシンパシーを得やすい立場なので、実際に霊との交渉をすでに──」
 そのとき、いちばん前に座っていた男の子が立ち上がった。
「白石さん、今日休みだよ! 熱があるって」
「えっ!?」
 これはさすがに遼子さんも想定外のことだ。
 さらに、ふと横を見ると、いつのまにか前田先生の姿が見えなくなっていた。
「あんのじじい!!」
 歯ぎしりしながら罵る遼子さんに、校長先生が震える声で尋ねる。
「そ、それは……ま、ま、まさか、その……三人のこどもを、こ、殺した者が学内にいたと……!?」
「先生、ビンゴですわ! 迅人君っ!!」
 俺を振り向いた遼子さんの顔には、もはやおどけたところは残っていなかった。
「警察にバトンタッチするには、死体遺棄の場所や凶器の特定が必要だわ。私たちで突き止められなくもないけど、時間がない。君、悪いけど、私の仮説の最終確認をしてちょうだい。ウサギ小屋のあった場所にもう一度行って、キムの〝セラピー〟を使うのよ」
「遼子さんはどうするの?」
「あの白石って子が危ない。あいつ、今度はその子をねらう気だわ。口封じも兼ねて!」
「だとしたら、遼子さんの身だって危険ですよ!」
 彼女は抗議する俺の肩をたたいて、笑顔を浮かべた。
「人員の最適配置もチーフの仕事! わかってるでしょ? 君もキムも、まだ一人前の霊界救助犬とハンドラーとはいえないわ。君たちがもっと成長するまでは、私の指示は絶対命令だと受け取ってちょうだい。いいわね?」

 全校児童が解散した後(六年二組は自習になった)、遼子さんは白石という生徒の住所を教えてもらい、すぐさまジョルジュとともに彼女の家へ急行した。一方、俺は彼女の立てた仮説を検証しに、中庭にある飼育小屋の跡地へ。
 まだ一人前じゃない、か……。遼子さんの台詞を思い返しながら、俺はため息をついた。
 これまでずっと彼女の指導に忠実に従い、期待に応えてきたつもりだった。遼子さん……俺のこと、いつまでこども扱いするつもりなのかな……。もっと俺たちのことを信用してくれたっていいのに。少なくとも、俺は彼女のお荷物じゃない。自分の面倒くらい自分で見れるし、もう彼女を護ることだってできるはずだ……。そう思うと、ムシャクシャした気持ちがなかなか収まらない。
 飼育舎跡に着くと、俺は精神を集中して任務に専念しようとした。ともかく、手っ取り早く終わらせて、遼子さんを助けにいこう。俺が一人前のハンドラーだと、彼女に認めてもらうためにも。
 遼子さんの推理では、俺たちの前でこどもたちの霊が姿を現さなかったのは、一つには害意を積極的にPRしたがった今居の生き霊がここにいたため。そして、もう一つの理由は、〝加害者〟を避けていたか、あるいは、コントロールされていたため──。
 だとしたら、M氏が同席していないいまなら出てきてくれるはずだ。キムのセラピーの能力を使えば、三人の霊から証言を得られるはず。
 そして、確かに前回訪れたときとは異なる霊気を感じる。
 頼む、急いでくれ。君たちを殺したやつにねらわれて、同じ学校の友達や遼子さんの身が危ないんだ!
 返ってきたのは沈黙のみ。さっきから、捕食者を恐れる草食の獣のような、オドオドとした気配は伝わってくるのだが、それから変化がない。姿を見せてくれようともしない。
 ひょっとして、俺を先生と間違えてんのか? キムだっているんだから、混同のしようなんてないはずなのに──。
 キムが俺の背中に鼻を押し付けた。黒々とした瞳で、俺の目の奥をのぞく。
 わかってるよ、キム……。でも、俺は……遼子さんのことが心配なんだ……。
 キムは俺のことをじっと見続ける。表情が微妙に変わった。顔面筋が発達してないといっても、見る人が見ればすぐにわかる。キムが俺の心をあっさりと見透かせるように。
 そうだよな……。お前だって、遼子さんやジョルジュのこと、心配だもんな。ごめん、キム──。
 俺は心から雑念を締め出した。もちろん、そんなこと完全にできるはずはない。でも、キムが手伝ってくれる。
 裸のままで、うずくまってべそをかいているこどもが三人、目の前に現れた。
 キムの脇腹を軽くポンとたたく。彼が進み出た。こどもたちに向かって輪を描くように、ゆっくり、ゆっくり、近づいていく。いちばん手前のポニーテールの子に、鼻先をそっと押し付ける──俺に対してしたように。
 女の子は一瞬驚いて、恐がる素振りを見せた。が、キムが彼女のほっぺをペロリとなめると、泣き顔は笑顔に変わった。
 簡単そうに聞こえるかもしれないが、〝セラピスト〟の能力はイヌならだれもが持っているわけじゃない。
 要領は、現世で高齢者や心身障害者・児を癒すセラピー犬と大きく変わらない。だが、そもそもセラピー犬・猫の仕事は世間で思われているほど楽ではないのだ。イヌやネコの扱いを心得ていないこどもやお年寄は、ときによると、本人にそのつもりがなくても、ひどく乱暴な扱いをすることがある。そうした場合でも、嫌がったり暴れたりしないでじっと我慢の子でいるスキルが要求される。そのため、どちらかというと、始終ぼえ~っとしているどんくさい子があてがわれることが多い。本当は、社交性に富み人間が大好きな子のほうが、その〝職〟に向いているはずなんだけど……。
 その点、キムはまさにセラピストにうってつけだ。彼は本当に人間が好きだ。知らない人に対しても、心からうれしそうな顔で応対する。俺がやっかむくらいに。だから、あんな今居みたいなやつでも放っておけずに助けたんだ。
 ちなみに、ジョルジュは〝セラピー〟を発動しない。なぜって、彼は遼子さんにしか心を開かないタイプだから。俺に対してだって、そっけなくあいさつを寄越すだけだし。
 〝セラピー〟の能力は何度か実証済みだったが、殺されたこどもに対して適用したのは初めてだった。でもキムは、俺が信じていたとおり、深い傷を負ったこどもたちの心を融かしてくれた。
 こどもたちの運命、こどもたちの受けた仕打ちについて、詳細は語らない。語れない。
 この子たちは飼われていた。それも、劣悪な環境で飼育された動物とそっくり同じ具合に。水も餌もろくに与えられず、体罰を受け、芸をさせられた。まさに虐待の見本ってとこだ。
 こどもたちの死体が埋められていたのは、あろうことにも学校の敷地の中だった。飼育舎のそばにある、代々飼われてきたウサギやニワトリたちのお墓の下。遺体を焼くのに焼却炉まで借用していた。まさに盲点というべきか。だからこそ、ずっと見過ごされていたんだろう。
 Mは生徒に慕われる模範教師の皮をかぶり、だれにも怪しまれず、疑われない地位を利用して、卒業を控えた生徒の中から毎年一人ずつ、その歯牙にかけてきた。
 遼子さんの顔が利く警察の鑑識担当者の電話番号は事前に教えてもらっていたので、連絡して後のことは全部任せると、俺は頭を抱える校長先生を残し、急いで出発した。
 白石さんの自宅を目指し、キムと一緒に全力疾走する。彼女、無事だといいけど……。いくら遼子さんが頭の回転の速い人でも、生身の男の腕力は侮れない。
 二十分ほどかけてようやく白石家に到着。
 門の前にグレーのバンが停めてある。あの教師のものに違いない。くそ、あいつが姿を消してから何分経つ? キムを同伴させる都合上、どのみち車を借りるわけにいかなかったのだが。一息つく間も惜しんで敷地に入る。
 玄関の戸は開いていた。躊躇せず中へ。
 廊下を抜けてリビングに向かうと、台所に人が倒れていた。あの子の母親だろう。柱に寄りかかって眠っているように見える。床にはお盆と湯呑みが転がっていた。客人にお茶を出そうとしたところで不意を打たれたんだろう。脈拍はとりあえず正常。
 遼子さんの仕業なら、たとえ必要があったとしても、このままほったらかしにはしない。せめてソファーにでも寝かせているはず。ということは──。
 いったん戻って、廊下に面した扉の一つを開け放つ。こども部屋だ。
 キムの毛がドライヤーを吹きつけたかのようにブワッと逆立つ。強烈な悪臭を感じたと思ったのは、キムの感覚がリードを通じて伝わってきたせいだろう。もっとも、この不快な臭いは悪霊のそれだったが。
 そして、異様な姿勢で固まっている三人の人間を発見。
 遼子さんは女の子をかばうようにして。女の子は悲鳴をあげる一歩手前という顔で。霊体のジョルジュは姿が見えない。
 向かい合うようにして、前田先生がいた。足は胡座をかいていたが、まるで相撲の取り組みのように床に拳を突いた格好で、三人のほうをにらみ据えている。顔にはニタニタと気味の悪い笑みが張りついていた。ポケットから尻尾みたいにツンと突き出たケータイのアンテナは、こっけいさを通り越して不気味に見えた。
 張り倒してやりたい気持ちをこらえながら──そんなことをしたって無意味だ──二人の脈だけ確認すると、俺はキムとともに急いで霊界突入の支度にかかった。
 頼む、間に合ってくれ!

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