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7 真の敵




 瞼を開くと、そこはほとんど真っ暗だった。到着したのがわからなかったくらいだ。キムの目に緑の光が灯っているのがわかる。彼の感覚を通じて、俺にもぼんやりとこの世界の様相が見えてきた。
 まるで砂漠のような荒涼とした風景。いや、本物の砂漠以上だ。生命の気配がまるでない。地面は砂というより、モルタルを砕いた欠片のようだ。その上には枯木一つ生えていない。
 いや、一本だけがっしりした木が生えているのが見えてきた。絵本の中に出てきそうな曲がりくねったその木の、地上から三メートルほどの高さにある枝の上に、動くものが見える。人が二人と猫一匹。
「遼子さんっ!!」
 駆け寄る俺たちの姿を見て、彼女の顔にパッと笑みが広がった。が、すぐに厳しい表情に変わる。
「先に報告してちょうだい! 被害者とのコンタクトはどうなったの? 手抜きしてきたなんて言ったら承知しないわよ!?」
「大丈夫です。接触には成功、遺体は飼育舎の近く、動物たちの墓の下にあります。鑑識の荒木さんに通報済み。こどもたちは……魂滅しました」
 大きく安堵のため息をもらすと、少し申し訳なさそうな顔をして微笑んだ。
「上々。後でチューしてあげる♥ キムにだけど」
 俺もニヤリと笑みを返す。冗談を口にする余裕が彼女にあるのは何よりだ。
 キムのあげる威嚇の声にハッと気づき、意識を別の対象に向ける。
 木の下で獲物を見上げていた小柄な男。つい数時間前までは模範的な教師を演じていた凶悪犯・前田には、どす黒いオーラがまとわりついていた。
 俺や遼子さんの目を欺いて、正体を隠し通せていたっていうのか!? それどころか、キムの鼻までごまかしていたことになる。そのうえこのすさまじい霊圧は、とうてい人間のものとは思えない。
「オーラのほうは偽装ツールを使ってたみたいね。でも、それだけじゃないわ。よく見て、彼の隣を!」
 黒い靄のようなかたまりが次第に形をとり始める。キムのうなり声がひときわ大きくなった。
 あ、あれは……イヌ!?
 姿を現したのは、シベリアン・ハスキーに似てより大柄な犬種、アラスカン・マラミュート。アラスカのイヌイットの部族名からその名をとったそり犬だ。狩猟犬も務めるこの大型犬は、人間に対しては従順だが、イヌ同士の群れの中では激しい闘争によって序列を確立させる。日本などの都市で飼われている子は、攻撃性を抑えてより温和な気質を残す改良が施されているけれど。
 これで最後まで残っていた謎が解けた。キムのマーキングが女の子たちに通じなかったのは……すでにこいつにマーキングされていたからだ。それも、飼育舎跡地ではなく、あの子たちの霊体に直接。
 遼子さんが解説を加える。
「ふつう、弔いを受けられない霊は、主に自分が死んだ場所や死体のそばにつなぎ止められる。これが地縛霊。けど、より上位の霊に強制されれば話は別。前田はその霊犬を使って、こどもたちの霊を好きなときに移動させ、監視させた。私たちが調査に行ったときのようにね。まさに番犬ってわけ。
「今井君の霊を隠れ蓑にされていたとはいえ、別の霊犬の臭いを嗅ぎ分けられなかったのは、まだまだ二人とも修行不足の証拠ね。でも、セラピストとしての腕は見上げたものだわ。大型犬に脅されていたこどもたちの霊までなだめることができるなんて、正直私もびっくりよ。さすがキムだわ。迅人君もね」
 遼子さんにそこまで誉められると、なんだか照れくさいや。でも、いまは浮かれてる場合じゃない。気を引き締め、敵に注意を向ける。
 目の前にいるアラスカン・マラミュートは、激しい憎悪の感情を辺りに撒き散らしていた。そのオーラは、今居の部屋に現れたニュータイプに少し似ている気がした。
 それにしても、この子は人の霊が似せて作ったこけおどし、まがいものの動物霊じゃない。まさか──。
「キムと同じ霊界救助犬!? こんな人でなしがこの子をトレーニングしたハンドラーだっていうのか!?」
「そうじゃないの、迅人君。詳しい説明は後でするけど、この男は霊犬を購入したのよ。自分の欲望を満たすための道具として」
 樹上で遼子さんが説明を続ける。
 彼女たちが避難できたのはジョルジュのおかげだ。この木も彼の特殊能力の一つ、その名も〝自前キャットタワー〟。ちなみに、木の種類はマタタビとのこと。
 ジョルジュは享年が若く敏捷性も衰えていないので、もしその気になったら、大型犬が相手でも互角に戦えただろう。決して隙を見せないことが前提だが。とはいえ、遼子さんと小学生の女の子を守りながらでは不利は否めない。そこで、緊急避難所を設けたのだ。
 しかし、マラミュートは木の根の周りを掘り返し、三人を瀬戸際まで追い詰めていた。俺たちが駆けつけるのがもう少し遅れていたら、本当に危ないところだった。
「遼子さんは、いつから前田先生が怪しいとにらんでたんですか?」
「今居君が教え子だってのが、そもそもできすぎだと思ったけどね。でも、疑いを持ったのは最初に会った日からよ。あの夜の会話で、君の下の名前を知っていたことが引っかかったの。私は君を紹介するとき、犬伏君としか言わなかったのに」
 前田が薄笑いを浮かべて口を開いた。
「この期に及んでよく舌が回る人ですね。後で説明する時間があるとでも? それから、正確には買ったのではない、レンタルしたのです。犬伏という名の赤い髪の男からね──」
 犬伏だって……!? 呆然となる俺に向かって、前田は続けた。
「君たちのことは彼に教えてもらったのです。この機会を利用してあなた方をつぶしたかったんでしょう。あなたもまた、同じ家の人間からずいぶんと忌み嫌われたものですねえ、迅人君」
 俺は拳を握りしめながら、一度は信じかけた、尊敬しかけた人をにらみつけた。
「前田先生。俺は……あなたの言葉が本物だとばかり思ってました。こどもたちに、相手の痛みのわかる人間に育ってほしいと言っていたあなたに、そのこどもたちをなぶり殺すようなまねができるわけないと……」
「なるほど……。君は猫咲君と違って経営者肌ではありませんね。教師にはなおさら向いていない。いま、若い教師がどれだけ激しいストレスを抱え、心を病み、休職したり辞めたりしているか知っていますか? ご存知のとおり、うちで免職になった教師もいましたけど、別に彼らが特殊というわけじゃありません。うちの二人の場合は、私が背中を押してやったんですけどね。じゃあ、それはいったいなぜだと思います? 教室が、こどもたちが荒れているというのは、原因ではなく結果です。その原因は、教職という仕事の本質にあります。
「あなたは今回、世の中きれいごとではすまないということを学習したわけだ。そのきれいごとをこどもたちに説くのが、私たちの仕事です。聖職者、人格者、人徳者、熱血と正義の人のイメージを押し付けられて。でも、こどもたちが実際に大人から……親や私たち教師から学ぶのは、まさにその正反対のことです。本音と建前を使い分けること。黒を白と言い含めること──。
「人間には上も下もなく、だれもが生まれながら平等で自由と権利を与えられている──私たちはそうこどもたちに吹きこみます。しかし、所得、学歴、階級、宗教、人種、国籍、その他のさまざまな差別で満ちあふれているのが現実の世界。いくら平和の大切さをうたっても、銃も、核も、地雷も、軍需産業も、戦争の口実も、一向に世の中から消える気配がない。犯罪もテロも民族紛争もない世界が到来するなどとは、だれも信じちゃいない。人の命は地球より重いとどれだけ説こうが、正義の名のもとに人を殺すこと、しかも無実の女こどもを巻き添えにすることすら、自らに認めてしまうのが大人たち。民主主義、人権、平和、生命の尊重、エコロジー、エトセトラエトセトラ。いずれも無意味なお題目にすぎません。死者に念仏を聞かせるのと同じくらいね──。
「そして、こどもたちは実によく私たちのことを見ているものだと、つくづく感心させられますよ。私たちの言葉の空虚さを見抜いているのです。私たちの訓え説く内容が全部絵空事にすぎないと知っているのです。こどもたちはみな、気に入らないクラスメイトを殺すシミュレーションを日々行っている、ゲーム感覚でね。彼らに影響を与えているのは、暴力的な漫画やゲームじゃない、ノンフィクションの世界そのものです。フィクションはむしろ代償行為として楽しんでいるにすぎません。ほんのちょっとした弾み、きっかけがあるかないか、それだけの違いにすぎないのです──それを実行できてしまった子と、〝ふつうの子〟との間にある差はね。
「私たち大人にとって、そもそもこどもとは、投資すべき社会資本であり、将来の社会を支える構成部品にすぎないのです。その部品の中には、国家の中枢を担うMPUクラスの優秀な装置もあれば、いくらでも替えの利く末端の歯車やネジもある。クラスの中でさえ、こどもたち自身の手で、そうした選別を行っている。そうやって、毎年何人もの今居君もまた世に送り出されるのです。社会がそれを求めているからです。彼自身がそう感じていたように、成功者の影には彼らを引き立て、支える存在としての落伍者が必要なのですから。今風にいえば負け組ですか。
「そうした現実をすべて承知しながら、なおかつ私たちは、きれいごとを並べたて続けなくてはならない。真っ白に塗られた絵を提示して、その下に隠された真っ黒なキャンバスを見通せと、教え導いているわけだ。まさに道化師です。
「だが、一人の人間にすぎない教師が、あまりにかけ離れた理想と現実との狭間に置かれたとき、精神を破綻させずにいられると思いますか? 心を壊さずにいられると? そんなことができるのは、土屋君のように恐ろしく鈍感で単細胞な人間か、さもなければ、妥協を重ね、常識の鋳型に自分を無理やり押しこみ、現状に埋没することをよしとできる優柔不断な人間だけです。生身のこどもではなく、デスクと札束と、すでに穢れきった大人を前に、時計に合わせて仕事をしていればいい、一般の公務員やサラリーマンであれば、雑作もないことでしょうがね。
「私はこの仕事に長く就いているので、もう慣れっこになっていますが、ときには叫びだしたくなることもある。人間、バランスが必要です。模範的な教師を演じ続けるのは、それはそれはしんどいものです。心の均衡を保つべく、自らの心の暗部に錘を吊り下げる必要があるのですよ。
「一時、私はギャンブルに相当凝りましてね。競馬で大穴を当てたのが、そもそもの発端でした。私の心の暗闇は、この世界の日の当たらない影の部分に、必然的に引き寄せられていきました。大勢の人間が、花に集まるハチのように群がってくる。彼らを利用することで旨味を得る人間も。そう……君の一族のようにね。
「私は自分の究極の願望を満たし、心の均衡を見出すことができた。こどもたちに注ぎこんでカラカラに干からびた心を、こどもたちに潤してもらうことができた。愛情をこめ、一年間じっくり手塩にかけて育てた〝果実〟を心ゆくまで味わい、呑み干すことができた。この白虎のおかげでね……」
 そう言って、マラミュートの背をたたく。それから前田は女の子を指差しながら続けた。
「今年、私の受け持ったクラスにその子が転入してきたのが、最初の誤算でした。私は心霊現象に詳しいわけじゃないが、その子が来たとたん、ほかの生徒もそろってオバケが見えると言い出してね。君のご親族にもアドバイスをもらったうえで、かつての教え子の中から適当な対象を選んでスケープゴートになってもらったわけです。今居君と君たちに責任をかぶってもらっている間に、白石君にも次のペットになってもらう予定だったのですが……まあ、あなた方を少々甘く見すぎていたようですね。してやられました。だが、私だっていつまでも甘美な夢が続くと思っていたわけじゃない。お二人をもって最後の晩餐とさせてもらいましょう。本当は、女子高生は趣味じゃないんですがねぇ……」
 前田の長広舌を聞いているうちに、前田に、彼のような男をバックアップすることで利益を得てきた犬伏家の者に──身勝手な人間の大人たちに対する怒りがふつふつとこみあげてきた。
「あんたが世の中に絶望しているからといって、こどもたちにそれを押し付けるな! そんな大人の理屈で命まで奪われてたまるか! それが人間の本性だというのなら、人間以外の動物たちのほうがよっぽどマシだ! あんたたちが手本になれないというのなら、黒を白と教えられないというのなら、いいよ、何も教えなくて。あんたたちが教壇に立つ必要なんてない! なぜなら、キムがいるからだ!! 真っ黒に汚れた大人たちにうんざりさせられるこどもたちだって、この子たちには失望しやしない──この子たちは本物だから! 真っ白な命だから!!」
 前田が歪んだ笑みを浮かべながら、片眉を吊り上げる。
「おやおや、これは人間というより動物の(さが)だと思いますがね。この子に聞いてみるといい。私の晩餐を始める前に、君にはこの子の今夜の獲物になってもらいましょう。さあ、やれ、白虎!」
 白虎と呼ばれたアラスカン・マラミュートは、カッと口を開き、凍ったアザラシの肉を噛み砕く強力な牙をひけらかすようにして、キムめがけて飛びかかってきた。
 二つの身体が絡み合い、揉み合いながら、灰色一色の大地の上を転げまわる。二匹とも本当は身体なんてもうないけれど。二つのうなり声に混じって、ひらめく牙がぶつかり合う音が聞こえる。
 キムは本気で戦っていた。いま組み合っている相手が、打ち砕かなくてはならない〝敵〟だと──さもなければ自分が、そして俺たちが殺されてしまうのだと、判っていた。
 生前のキムは、突っかかってくる気性の荒いイヌと出くわすと、困った顔をして俺に身を寄せてくる子だった。決して臆病だったわけじゃない。争いごとが嫌いだったんだ。だれとでも仲良くしたかったんだ。そのキムが、俺たちを守るために、なけなしの闘志を奮い起こして、果敢に立ち向かっている。
 でも、下になっている時間が圧倒的に長いのは、キムのほうだった。威嚇ではなく痛みの声をたびたびあげているのも。アラスカン・マラミュートと中型犬の雑種とでは、体格も運動性能の点でも比較にならない。力の差は歴然だ。
「キムッ!!」
 キムを応援したかった。遼子さんを、みんなを守るために、戦え! 負けるな! そう励ましたかった。でも、キムが傷つくところは、苦しむところは、見たくなかった。俺はどうしていいのかわからず、ただ彼の名を呼ぶことしかできなかった。
「キムッ!!」
 割って入ろうとしかけたそのとき、小さな影がひらりと舞い降りた。ジョルジュだ。そのまま一気に跳躍し、爪を剥き出しにして白虎の顔面にネコパンチのラッシュを浴びせる。マラミュートがひるんだ隙に、俺はキムを半ば強引に引き寄せた。
 ジョルジュが樹上に戻ろうと反転ダッシュする。白虎はすさまじい咆哮をあげてちょこざいな小動物に猛然と跳びかかろうとした。
 危ないっ!! 思わず目をおおう。だが、間一髪のところで、ジョルジュは遼子さんのいる安全地帯の樹上に帰還した。
 ネコは反射神経に関してはイヌに勝るので、接近戦では分があるが、背中を見せるや否やたちまち立場が逆転する。持久力の点では、ネコはイヌに遠く及ばない。首根っこをくわえられてそのまま振り回されれば、首の骨を折って即死(この場合魂滅だが)は免れない。俺はホッと胸をなで下ろした。
 悔しそうに歯噛みしながら吠え続ける大型犬を、ジョルジュは遼子さんの胸に抱かれながら蔑むように見下ろした。ネコ流のあかんべえってとこか。まったく、たいした神経だ。こっちのほうが心臓に悪かったよ。
 白虎は再び俺とキムに目を向けた。青い目の奥に狂気の灯がともる。
 俺はキムをかばって前に立った。イヌの扱いには自信のあるほうだけど、さすがにこの獰猛な霊犬には足の震えを抑えきれない。
「よせ、キム!!」
 キムがまた俺の前に出ようとしたため、リードを縮めて首筋を抱きかかえる。
 いったいどうすりゃいいんだ!? このままじゃ、俺も、キムも、遼子さんたちも、こいつに血祭りにあげられてしまう──。
 遼子さんが叫んだ。
「迅人君! 非常事態だから、いままで説明もしてなかった奥の手を使うわ。いったんリードを伸ばして!」
「え? でも……」
「いいから、私の言うとおりにして!」
 キムが勝ち目のない敵にまた挑みやしないかとヒヤヒヤしつつ、少しだけリードを緩める。
「キム!」
 遼子さんが鋭く彼の名を呼ぶ。懐から取り出したのは──キムお気に入りのフリスビー……。
 あれ!? 遼子さんが持ってたの??
「ほ~ら、キム! よぉく見てなさいよ~」
 ヒラヒラさせて彼の注意を集中させる。ちょ、ちょっと遼子さん、いったい何を……??
「それっ!!」
 彼女はフリスビーを思いっきり投げた。
 俺に向かって。
 キムがダッシュした。
 俺に向かって。
「うわっ!!」
 思わずギュッと目をつぶる。遼子さんが大声で叫んだ。
「Let's 憑依(confine)ッ!!」
 なに、その合体ロボの合言葉みたいのは!?──とツッコむ間もなく、目の前が真っ白になる。
 いったん遠のきかけた意識がはっきりしだす。でも、何かがおかしい。ていうより、俺の感覚が、心そのものが変だ。
 キムを感じる。彼の存在を。彼の心を。リードを通じて伝わるより、もっと、ずっと、近く。
 空気の動き、その微妙な流れを感じる。全身をおおう毛の一本一本を通じて。
 空気中を漂うかすかな臭い、長い鼻道を通ってくる微量の分子一つ一つを感じる。遼子さんの匂い、ジョルジュの匂い、会って間もない女の子の匂い。気分が落ち着くいい匂いだけじゃない。胸のむかつく臭いも混じっている。狂気に駆られた中年教師の臭い。一度は力の差を見せつけられた強敵の臭い。
 空気の波動──音を感じる。いつもより数オクターブ高い音まで聞こえてくる。遼子さんの息づかいも、敵の荒い吐息も。自分の心臓が早鐘のように打ち鳴らされる音も。
 視力は変わらない。敵の姿をはっきりと捉えることができる。色も鮮やかだ。ジョルジュが、彼にしては珍しく目を真ん丸くしてこっちを見ている。
 キムも驚いていた。こんなに物がくっきりと見えるなんてすごいや──。
 俺とキムが一つになってる!!??
「やった、成功―っ!! 行けーっ、合体キム迅人―っ!!」
 ……。思い悩むのはとりあえず後にしとこう。いくよ、キム!
 身のうちに力があふれるのを感じた。俺とキムの霊力は、足し算ではなく掛け算されていた。白虎の威嚇の吠え声ももはや恐くない。その牙は、俺の毛皮におおわれた強靭な手足の筋肉をみじんも傷つけることはできない。さっきは目で追うのも楽じゃなかった動きを、いまはやすやすと見切ることができる。
 形勢逆転。
 先方も、いまの俺たちにかなわないことを悟ったようだ。戦意を消失した証拠に、尻尾がだらりと垂れ下がり、足の間に入りかけている。
《帰投シロ、白虎》
 前田がしゃべったのではなかった。声が聞こえてきたのは、前田の手の中にあったケータイだった。彼自身、戸惑っている。
「おい、待て! まだレンタル期間は終了してないだろうが!」
《契約書ヲ読ンデイナイノカ? 乙ガ甲ニ貸与セシ資産ノ損耗・損失ニツナガリ得ル不測ノ事態ガ生ジタ場合、第三条請負業務ノ進捗並ビニ第五条当該資産ノ貸与期間ニカカル規定ハ無効トナル。第四二条ダ》
 それを聞いた前田は、狼狽した声でケータイに向かって喚いた。
「ま、待ってくれ! いまここで見捨てられたら私は破滅だ!!」
《契約外ノコトマデ当社ハ関知シナイ》
「た、頼む!! 追加料金なら払ってやるから!」
《れんたる犬ニ危険任務ヲ遂行サセルニアタッテ通常料金ノ五倍ノ保険料ガ加算サレルガ、ソレデモイイカ?》
 前田が歯軋りしながらうめく。
「わ、わかった! それでいい!」
《担保ハドウスル?》
「マンションでも手持ちの証券でも好きなだけくれてやる!!」
《ヨロシイ。契約更改成立ダ。正式ナ書類一式ハ後ホド自宅ヘ送付シヨウ。デハ、白虎ノ犬柱力ノりみったーヲ解除スル》
 声はそこで途切れた。
 ケータイのスピーカーから、大気をつんざく悲鳴のような怪音が響きわたった。頭が割れそうだ。前田も後ろの二人もとくに影響を受けてないところを見ると、犬の耳にのみ聞こえる超音波、おそらく敵が白虎の制御に使っている犬笛だろう。
 前田がケータイを掲げながら叫ぶ。
「白虎! なんとしてでも私を守りきれ!!」
 俺は頭を抱えていた両腕を離し、前方の敵を見据えた。先ほどまでの怖気づいた様子もなく、マラミュートは再び戦意を取り戻したようだった。その目は、まるでドラキュラのように真紅に輝いていた。
「ウオオォォォーッ」
 オオカミそっくりの遠吠え。キムの心を通じて翻訳を試みた限りでは、〝支援要請〟を伝える内容だった。まさか、ほかの霊犬を呼び集めるつもりなのか!?
 突然、辺りの景色が一転した。さっきまでは真っ暗な荒野だったのに、一面白い雪原が広がっている。気温が急にぐっと下がったのがわかる。凍るように冷たい雪混じりの風が、容赦なく吹きつけてくる。
「気をつけて、迅人君! 向こうは新たな能力を解放してきたわ!」
 そう叫ぶ遼子さんの声も、吹雪に阻まれて途切れ途切れにしか聞こえない。
 視界はほとんど真っ白だ。この吹雪に加えて、マラミュートの白みがかったウルフ・グレーの体色は保護色になり、姿を見定めることもできない。頭上からたたきつけてくる雪を避けるように手をかざしつつ、前方に目を凝らす。
 すると、驚いたことに、白虎はいつのまにか二頭に増えていた。いや、三頭、四頭……それどころじゃない、いつのまにか自分の周りを大勢のアラスカン・マラミュートがすっかり取り巻いている。
 そんなバカな!? さっきの遠吠えで、これだけの霊犬が応援に駆けつけたんだろうか? いくらキムと合体してパワーアップしたといっても、さすがにこれでは分が悪い。
 マラミュートたちはいっせいに躍りかかってきた。
 両手で振り払えたのは、最初に飛びかかってきた左右のニ頭だけ。その後は、腿から脛から腕から、ところかまわず強力な顎に噛みつかれ、振りほどくこともままならない。急所をカバーするのが精一杯だ。まさに多勢に無勢。
 しかも、一頭一頭の身体能力もアップしているようだった。おそらく気象条件のせいだろう。気温はマイナス二十度を下回っていそうだ。キムの毛皮じゃ、この酷寒を完全にシャットアウトはできない。対するマラミュートはしっかりとした分厚いダブルコート。この程度の寒さなんて寒いうちに入らない。しかも、他の犬種に比べて骨太の大きな足は、雪の上を迅速に移動するのにも適している。こっちは雪に足をとられて大きなハンデを背負わされた格好だ。寒気のせいで動きが鈍くなり、鼻までマヒしてきた。
 一度南アルプスに足を運んだくらいじゃ、雪中での実戦なんて無理に決まってる。そもそも、この風景はマラミュートの故郷、アラスカそのもの。白虎を援護しているのはまさしくアラスカの自然だった。彼の側に有利に働かないわけがない。
「落ち着いて、迅人君! 相手は間違いなく一頭よ! 霊犬一頭の相場はベンツ一台どころか競走馬より高いんだから。これだけの頭数を簡単にそろえられるはずがない。たとえ可能だとしても、前田にはチャージ分の支払能力しかない以上、連中がフォローするわけないわ。本物以外はそいつの特殊能力が生み出した分身なのよ!」
 遼子さんが冷静に分析する。なるほど……。
 ちらっと彼女のほうを振り返る。寒さに弱いジョルジュは、主の腕の中で縮こまり、いかにも哀れな表情を浮かべている。遼子さんは顔色にこそ表さないものの、震えているのが傍目にわかる。あの軽装で寒さがこたえないはずはない。
 前田のやつも歯をガチガチ言わしている。こいつは自業自得だからどうでもいいが。
 白石さんに目を移す。その能力の故に、危うく犠牲になるところだった少女。初めて会ったときのオドオドした表情は、いまはない。荒れ狂う吹雪にか細い命をいまにも吹き消されそうになりながら、彼女は祈るように俺たちのほうをじっと見つめていた。俺とキム、二人の力を信じきった目で。
 負けるわけにはいかない!
 四方八方から襲いくるすさまじい牙の攻撃をなんとかガードしつつ、どこかに突破口がないかと必死に考えをめぐらす。
 ひらめいた。
 この光景が白虎のイメージから生み出されたものなら、こっちにだって同じことができるはずだ。こっちはキムと二人なんだし。
 目をじっと閉じて、この極寒の原野に打ち勝つイメージを思い浮かべようと努める。でも、なかなかふさわしい場面が出てこない。この寒さに対抗して、ポカポカの春の陽気のようなイメージをふくらませろったって、やっぱり無理な話だ。
 パリパリに凍って柔軟性を失った毛皮に、白虎の鋭い牙が食いこんでくる。いくつもの激しい吠え声。痛みもあいまって、精神を集中することができない。
 ちくしょう、ここまでなのか……。結局、遼子さんたちを守りきれずに、こんなところで終わっちまうのか……。
 フッと痛みが軽くなる。寒さも。
 キムが俺に代わって、痛みを一手に引き受けてくれていた。俺が白虎に邪魔されずイメージ作りに専念できるように。
 俺は焦った。長くキムに負担をかけさせるわけにはいかない。彼が霊体のまま現世にとどまっていられる〝寿命〟を縮めることになってしまう。それだけは絶対に避けなくては。何か……何かいいイメージはないか……。
 あった。今度も、俺を救ってくれたのは、やっぱりキムだった。
 いまの雪原の光景に近いうえに、切り替えが容易でもっとも効果的なシーン。それはほかでもない、南アルプスでの三泊四日の遭難救助訓練のときのこと。北岳の山腹でさんざんな目に遭った後、俺たちは凍えた体で旅館の温泉に直行した。本当はペット禁止だけど、姿の見えない霊犬のキムならかまいやしないと、二人して湯船に飛びこんだっけ。雪山でも一はしゃぎして、風呂でも大はしゃぎ。お前にとっちゃ、実にぜいたくなバカンスだったよな。覚えてるか、キム?
 一面の猛吹雪が、次第に滝のような雨に変わっていく。気温が徐々に上がってきたのがわかる。
「ジョルジュ、バックアップお願い!」
 俺たちの目論見に感づいた遼子さんが、抱きかかえたジョルジュに指示を出す。彼も喜び勇んで鳴声をあげる。
「フゥオオンアァオォオン!」
 さらに、慣れないながら、白石さんも力を合わせてくれた。
 さっきまでの白い吹雪は、いつしか濛々たる湯煙に取って代わられていた。顔を打つ雪も、雨を通り越して熱いくらいのシャワーに変わっている。びっしりと毛皮を覆っていた霜が溶け、かじかんでいた手の感覚も戻る。
 白虎の幻影は、まるで雨にあたった雪像のように溶けだし、崩れていった。残された一頭、本物の白虎は哀れな濡れネズミのありさまで、呆然と立ち尽くすばかりだ。
 一度は復活したふさふさの尻尾が、また股の間に入る。アラスカン・マラミュートは屈強の大型犬だが、暑さにはてんで弱い犬種なのだ。
「ウオオオウウゥーッ」
 悲しげな遠吠え。白虎の〝敗北宣言〟だった。いくら主人に命令されても、勝敗はもう決定的で覆せないと悟ったんだろう。
 彼は尻尾を巻いてくるりと回れ右すると、一目散に駆けだした。
 前田に向かって。
 ま、まさか、こいつらも合体するつもりなのか!?
「いいえ、逃げる気よ!」
 遼子さんの警告の声に、猛ダッシュして白虎を追い抜く。
 最後の希望を絶たれたこともまだ理解できず、目の前の展開にあんぐりと口を開けている変質者の男から、ケータイを奪取する。ネット空間を通じて本当の飼い主のもとへ帰還しようとしたアラスカン・マラミュートは、絶望の表情をあらわにした。
 俺はニヤリと自分の牙をひけらかして、ベロリと鼻の周りをなめまわした。白虎に見せつけるように、毛皮でおおわれた手をぐいと突き出し、敵の脱出口──霊界とインターネットをつなぐ特殊な携帯電話を握り壊そうとする。
 あきらめろ。もう二度と、こんな反吐が出るような悲惨な仕事をお前にさせたりするもんか!
 そのとき、俺の手にあった前田のケータイの画面がチカチカと点滅した。
「しまった! 危ない、迅人君っ!!」
 白い稲光が液晶画面の中央からほとばしり、目前のアラスカン・マラミュートに伸びた。殺人狂に銃や刃物に勝る凶暴な霊をレンタルした悪魔の商人は、最後の手段に〝商品〟を自爆させようとしたらしい。
 俺はとっさに伏せようとしたが、間に合わなかった。遼子さんの悲鳴が聞こえる。
 暗転。

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