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8 そのときが来るまで




 俺はまた別の世界にいた。ここが霊界だということはわかる。でも、今居のイメージでも、前田のイメージでもない。
 目の前を三途の川がゆったりと流れている。
 遼子さんの姿はない。白石さんも、前田も。ここには俺以外、だれもいない。
 キムも。
 キム──!?
 憑依合体が解け、さっきまで身の内にあふれていた高揚感がすっかり消え失せていた。右手を見ると、リードがなくなっている。いままで、四年前に彼が霊界救助犬になって以来、家の外に出るときはかたときも離さなかったリードが。
「キムーッ!!」
 俺はパニックになって駆け出した。ジャブジャブと川の中へ入っていく。
「キム、キムッ!!」
 半狂乱になって叫ぶが、返事はない。
 〝魂滅〟という言葉が脳裏に浮かぶ。
 白虎の自爆に巻きこまれたのだろうか? でも、俺も一緒だったはずなのに、どうして?
 まさか……また俺のことをかばったんじゃ……あのときと同じように……。
 キム……逝っちまったのか!? 本当に、もう二度と会えないのか!?
 いやだ……そんなのいやだ……もう一度あんな思いをするくらいなら……。
 バシャーン!
 俺は川の中へ全身を投げ出した。
 さあ、俺も連れていってくれ。キムのところへ。そこが無だろうと、時間の流れも何もない闇だろうと、かまいやしない。彼と一緒に逝けるなら。キムのいない人生なんて意味がない。キムがそばにいてくれたから、今日まで生きられた。キムがいなきゃ、俺はもう生きていけない。
 だれかが俺の服をくわえて引きずりあげた。
 うっすらと瞼を開く。
 キムだ。
〈バカだなあ、迅人は。まったく、早とちりなんだから……〉
 キムが笑った。俺も笑った。
 彼の首筋に飛びついて泣きじゃくる。涙が後から後からあふれ出てきた。
「キム……」
 ザラザラした舌で俺のほおを流れる涙をふき取る。くすぐったいよ……。
〈迅人……。なぜ、君は自分から苦しみを背負い続けるんだい? わかってるはずだよ。君はそんなことする必要ないんだって〉
 俺は首を横に振った。
「いいんだよ……。お前は俺のせいであんなに苦しんだんだ。あんなに痛かったんだ。それなのに、俺はこうやってのうのうと生きている。俺も苦しまなきゃ。苦しみ続けなきゃ……」
〈そんなこと、もうとっくに忘れちゃったよ。ぼくが死んだのは一回なのに、迅人は毎晩死んでるようなもんなんだぞ? 君がそんなふうに自分を責めていると、ぼくまで辛くなっちゃうよ……〉
 俺は首を何度も振り続けた。
「ごめんよ。でも、恐いんだ……。でないと、お前がどこかへ行っちゃうような気がするんだ。自分でもバカだと思うよ。でも、人間ってのは、そういうバカな動物なのさ……」
 キムの心がクスリと笑みを漏らす。
〈……そうだね。ぼくもそう思う。でも、ぼくは人間のそういうとこが好きだよ〉
 それから俺は、彼を抱く腕の力を強めてギュッとしがみついた。
「キム、頼む……どこにも行かないでくれ……俺を一人で置いていかないでくれ……! お前がいなきゃ、俺、生きていけないよ……頼む……」
 キムは目を細めて俺を見て、うなずいた。
〈行かないよ、どこにも。ずっとそばにいるよ。迅人のそばに。迅人がいいと言ってくれるなら〉
「もちろんさ。ずっと一緒にいてくれ。俺がお前のところへいくまで、ずっと……。約束だよ?」
〈ああ、約束だ。いつまでも待ってるとも。迅人がこっちへ来るその日まで、ね……〉
 もう一度、二人/匹(ふたり)で笑い合った。幸せだった。自分の身体が真っ白な光の海に解けてしまいそうなほど。このまま死んでしまってもいいと思えるほど。それくらい幸せだった。他にはもう何も要らないや……何も……。

 瞼を開くと、母さんがいまにも泣きそうな顔をしてのぞきこんでいた。こんなに俺のことを心配してくれたのは、幼稚園のころ四十度の高熱を出して以来かな。
 後ろには見慣れた天井が見える。ここは俺の部屋だ。
 母さんの隣には遼子さんがいる。彼女も心底ホッとした様子だ。ベルがいる。コウタがいる。ユイも、ロッテも、サリーも、みんな俺の枕もとに集まっている。
 キムもいる。
 隣で横になっている彼の頭に手をやると、そっとなでた。
 俺は安心して目を閉じた。部屋の中なのでいまは見えないリードが、俺たちの間をつなぐ固い絆が、死ぬまで、いや、死んでからも、決して切れることはないと、わかっていたから──。

 俺たち二人/匹(ふたり)が動ける程度に回復してから、遼子さんがいろいろなことを教えてくれた。
 あの後すぐ、遼子さんの連絡で母さんがベルとともに駆けつけ、ほとんど魂滅しかけた俺とキムを二人と二匹(よにん)で現世に引き戻してくれたのだという。彼女たちには本当に感謝しなきゃ。
 白石さんも無事。霊才を見抜いた遼子さんが、彼女もハンドラーに仕立てようと猛アプローチ中。もしかしたら、強力なライバルの誕生かも!? 俺もうかうかしちゃいられないや。
 囮作戦を実行した今居は、警備員にとっ捕まり、警察に引き渡されてこってり絞られたらしいが、俺たちのおかげでお縄をちょうだいせずにすんだ。その後も遼子さんにまとわりついている。懲りないやつだなあ……。マスターには「恋のライバルの出現じゃないの?」なんて言われてしまった。こっちのライバルは勘弁して欲しい。
 こどもたちを三人も殺した凶悪犯は、もちろん警察にしょっぴかれていった。現在精神鑑定中らしい。里見三小ではしばらくの間、天地がひっくり返ったような騒ぎが続くだろう。元首相似の校長先生には気の毒な話だったが。まあ、どうせ来年には異動してるだろうけど。
 依頼人だったあの先生のことには、俺はもう興味がない。かわいそうに思ったのは、白虎と呼ばれたあのアラスカン・マラミュートの霊だ。そして、あの子に悲しい運命を押しつけた連中に対して、怒りをくすぶらせている。人と自然の橋渡しをするあの子たちの力を、こんなふうに利用するなんて、絶対に許せない。
 母さんは……いままでずっと隠してきた犬伏の血のことを、俺に打ち明けてくれた。
 犬伏家は、まさに代々続いた霊犬使いの家系だった。時の権力者を、あるときは影で支え、あるときは凋落させる、歴史の裏側で暗躍するマフィア一家か隠密組織のような存在。
 世の中を動かすためなら人を平然と殺めることもできる死霊犬のハンドラー。その技術は門外不出の一子相伝の技として受け継がれてきた。母さんの両親、俺の祖父母に当たる代まで。
 特殊な訓練を課すことで、電子の海を移動する能力や、生きたターゲットの精神を破壊する能力までも備えた死霊犬を、生死に関わりなく人の魂を救い出す救助犬へと変えたのは、ほかでもない母さんだった。
 母さんは秘儀を受け継いだ──正確には受け継がされた直後、家を飛び出した。家を捨てた。しかも、それは結婚直後でもあった。その力を手にすべく、犬伏家に養子縁組した俺の父親との。
 ベルを殺されたから。だれよりも、自分の親よりも深く愛していたベルを。
 怒りと悲しみで心が張り裂けんばかりだった彼女は、それでも霊犬となったベルと二人で、自らの意志を貫いた。そして、憎むべき男との間にはらんでしまったこどもである俺を、独力で生み、育ててくれた……。
 彼女は犬伏の姓を捨てなかった。呪ったときもあったが、あえて名乗り続けることにしたのだという。イヌをねじ伏せるのではなく、イヌに伏す者として。
 キムが霊となって戻ってきたとき、そして、俺がハンドラーになることを決心したとき、母さんは真剣に悩んだという。自分と同じ業、同じ苦しみを、我が子にも負わせることになるのではないかと。けれど、自分が犬伏の家と断絶してわが道を進んだのと同じように、俺の選択も尊重すべきだとあきらめた。それで、遼子さんから援助の提案があったときも、受け入れることにしたんだそうだ。
 まさか母さんも、息子の俺にまで犬伏の因縁が降りかかろうとは、予想もしていなかったみたいだけど……。
 いつか、実の父である人と、自分の中に流れている血筋と、対決する日がやってくるかもしれない。覚悟はできている。それでも俺は、母さんの、そして俺自身の選択が、間違いだとはこれっぽっちも思っていない。
 キムが、ベルが、コウタやユイたちが、元気いっぱいにYES!と言ってくれているから──。
 すべて命は、いつか真っ白に清められ、光の中に溶け去ってゆく。どの命も、たった一つ、たった一度きりしかない。そして、そのただ一つの生を精一杯生きる。命はそれだけかけがえのないものだから。
 俺たちは、心の準備のための猶予期間を与えられている分、霊と接することのできないふつうの人々より、幸せだといえるのかもしれない。そのせいで、辛い思いをすることもあるけれど……。
 遼子さんとジョルジュのサポートを受けながら、母さんたちの応援に励まされながら、俺はハンドラーとしての腕をさらに磨いていくつもりだ。命を奪うためではなく、救うために。
 来るべきその日に備えて、憑依の訓練のほうも怠らないつもりだけど……。

 河原で一緒にフリスビーをやっていると、不意に首筋がチリチリしだした。キムも立ち止まって耳をピクッと動かしている。あ、もしや……と思ってから三秒後、着信音。やっぱり──。
 二人で顔を見合わせる。
「さて、今日も仕事だ。遼子さんが待ってる。行こう、キム!」

fin☆

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