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1 最悪の1日




リューイのことを決して忘れない。
独りぼっちになって、絶望に打ちひしがれていた私を、そっと励まし、支えてくれたリューイ。
私にたくさんのことを、何よりも大切なことを教えてくれたリューイ。
私のために、私なんかのために、すべてを投げ出して逝ってしまったリューイ。
私の永遠の恋人、リューイ──。





*  *  *  *  *  *

 私は呆然とその場に立ちすくんだ。
 目の前に、人がうつ伏せに倒れている。
 サフラン色のセーラー服を着た女の子。そのスカートの裾をべったりと赤黒く染め、アスファルトの上にまで流れ出しているのは……血だ。
 女の子はピクリとも動かない。
 あのセーラー服の色は、私の通っている小桑野中だ。ショートに短く切りそろえた髪は、私みたくほとんどおかっぱに近い。年のころは一四くらい。私と同じ。
 私にそっくりな女の子?
 違う。
 あれは私だ。
 悲鳴をあげようとした。でも、口からこぼれ出たのは、「ミャー」というか細い鳴き声でしかなかった。

 一体どうしてこんなことになっちゃったんだろう??
 大きな影があわただしく行き交う中、私は草むらにじっと隠れて、ただブルブルとふるえていた。
 これは夢だ。悪い夢。もちろん、そうに決まってる。
 早く覚めろ! こんないやな夢、早く覚めろ!! 
 私は必死に祈った。足の裏を通じてじんわり伝わってくる冷たい土と、やけに大きな砂利の感触の、そのリアルさを振り払うように。
 どれくらいの時間が過ぎたろう。ドカドカと地響きを立てて路上を行き来する黒い影と、ガヤガヤいう声、百頭のゴジラが年末のオバチャン第九をがなりたててるみたいな大騒音──後から思えば、あれはたぶん救急車のサイレンの音だ──がいつのまにか途絶え、辺りがしんと静まった。
 一部始終が片付いても、悪夢のほうは終わらなかった。
 どうしよう? このまま何も変わらなかったら……もし、いま起こっていることが夢じゃなかったら、どうしよう!?
 とてもじゃないけど信じられないできごとが、突然私の身に降りかかった。いっぺんに二つも。
 一つ。私が死んだ。
 死んだ? ううん、まだそうと決まったわけじゃないわ。そんなことやすやすと決められちゃたまったもんじゃない。たまるもんですか!
 でも……正直、あれはもうダメっぽかった……。あの血の量。ありえない方向に曲がった右足──私の大事な踏み切りの足、審美的観点からいっても自慢の種だった右足──。なのに、イテテのイとも声をあげず、くったりと道路に横たわってた。完全に電池切れてた。まるで道端の石っころみたいに。
 そして、もう一つ。いまの〝これ〟はなんだ??
 じっと手を見る。ポワポワした毛に覆われた褐色の手。握りしめようとしたら、短い指の先はほとんど曲がらず、半透明のプラスチックみたいな、弓なりに鋭く曲がった凶器が出たり引っこんだりした。手首を返しててのひらを見ると、真ん中のでかいソラマメ大のを中心に、ピンク色の豆みたいのが、点々と弧を描きながら四つ並んでいる。少し離れて手首のところにもう一つ。
 目の玉を下に向けると、意識して見ようとすればギリギリで見えたはずの、決して高くはないけど、まずまずかわいらしいといえた鼻の頭がない。代わりに、なんか黒い鼻クソのかたまりみたいのが目に入った。鼻そのものが巨大な鼻クソと化したみたいだ。
 鏡の前に立つまでもなく、答えははっきりしていた。
 猫だ。この身体は。
 小学生のころ、犬や猫になりたいと思ったことが一度……ううん、五、六回くらいはあったかもしれない。プニプニの肉球を見て、アレ欲しいとか、宿題やらなくてすむからうらやましいとか、そんなささやかながら不純な動機で。
 でも、少なくともいまじゃない。いま猫になれたところでちっともうれしかない。
 どっちかというと、《信じられないできごと・その1》のほうがありえないことじゃない。私が死んじゃうってことは、まあ一応、ありえる。信じたくはないけれど……。
 でも、《信じられないできごと・その2》はなに? 猫に変身する!?
 そんな話は聞いたことがない。まあ、マンガや童話の中だったら、いくらでも転がってそうな設定だけどさ。実際にそんなことが起こるなんて、やっぱりありえないよ。この二一世紀に、科学の時代にですよ? 魔法少女じゃないんだからさ。
 幽霊にでもなったっていうなら、まだうなずける。地上二メートルくらいのとこにフワフワ浮かんで、自分の死体をながめてるのなら、信じられなくもない。それだって、非科学的には違いないけど。
 それとも、生まれ変わったとか? でも、たったいま仔猫としてオギャア(ニャニャア?)と生まれたわけじゃないしなあ。
 やっぱし変だ。ありえない、うん。
 ありえないってことは夢だ。《その1》を否定する意味でも都合がいい。やった!
 そうよ。私が死んで、おまけに猫になっちゃったなんて、そんなアホらしいこと、夢に決まってるじゃない、フフン──そう鼻で笑い飛ばせれば、どんなによかったろう。
 でも、覚めないよ、この夢。さっきから、一向に。
 じっとしていたら、少し寒気がしてきた。身体が小刻みにふるえる。寒い。この寒さも本物だ。
 冷静に、いま何が起こったのか振り返ってみよう。冷静になんてなれるわけないけど、ともかく気持ちを落ち着けて、冷静に。
 神山栞(こうやましおり)一四歳の九月二八日、再現フィルムスタート──。

*  *  *  *  *  *

 ──いつもどおり六時一五分に起床。
 朝食のメニューは、オレンジジュース一杯にバナナ一本にヨーグルト。起きてすぐだし時間もないから抜きたいとこだけど、ちゃんと食べとかないと朝練に響くから。お通じも異常ナシ。
 つまんないのを承知で新聞のマンガを読み、七時前の天気予報の雨の確率まで横目で確認しつつ、学校へゴー。
 家を出るのがいちばん早いのは私だ。父さんは、ニュースをひととおり見終わってから自家用車で出勤。(だい)なんか、まだグースカいびきを立てて寝てる。
 これまたいつもどおり、太ったビーグルを三匹連れたおばさんと、ランニング一丁のジョギングじいさんを追い抜き、私が通っている小桑野中学校に到着。正門前に立つ学年主任の渋沢先生に軽く会釈すると、校舎には向かわずそのまま更衣室へ。
 チラッとグラウンドに視線を送る。わあ、隆司先輩、もう走ってるよ、さすが……。私も速攻で着替えてグラウンドに出る。
 先輩のそばへ行く前に、くちもとの筋肉をぎこちなく動かしてみる。今日のスマイルはこんな感じでどうかな──? よし。心臓のドキドキを悟られないよう、ひとつ深呼吸。
 それから、何気ないふうを装って、「おはようございまっす!」と声を張り上げる。
 でも、先輩から返ってくる「オッス」という短い返事は、他の女子の後輩部員へのそれとちっとも変わらない。緊張して損した。いつものことだけど……。
 ウォームアップをすませたところで、美夏ちゃんがやってきた。今日も遅刻だ。
 先輩とは違う意味で、声の出し方に気をつけながら「おはよっ!」と呼びかける。
「おはよう」
 素っ気ない返事。目を合わせてはくれない。私も結局、それ以上声をかけられない。
 次の言葉を探しているうちに、美夏ちゃんはそそくさと行ってしまった。
 ……まあ、いいや。午後練のほうが時間あるし、バタバタもしないし……。
 朝練終了。いい汗かいた。
 一時間目の授業は社会、世界史だ。いきなり眠いぞ。こっちは運動後なんだから、こういう時間割はやめてほしいよ、渡辺先生。座席がもう少し後ろのほうならよかったのに。寝させてください。そしたら、大会でベスト8とってみせますから。ダメか……。
 二時間目は国語でしかも古文、三時間目は総合の環境問題、眠い授業が続く。それぞれ五分ずつくらい記憶が飛んでる。四時間目、鈴木先生の英語で寝るのは絶対不可能。私の三倍は授業中寝てる隣の山下君でも不可能。
 今日の給食のメニューは私の大嫌いな竜田揚げ。うげぇ~。地元で採れるおいしい食材いくらでもあるのに。
 食後はクラスのチイちゃん、マリちゃんと夕べのエンタメ番組の話題に花を咲かせる。マリちゃん曰く、「なんか最近の若手お笑い芸人は芸風にオリジナリティがなくてイカーン! もっとこう、時代に対する反骨精神ってもんがないとダメなのよっ!」だって。いや、「お笑い界の現状を打開する方策を四百字以内で述べよ」なんて急にフラレても、お笑い鑑賞歴の浅い私にはさっぱり答えられまへん。
 午後になって眠気倍増、でもがんばってあと二時限分ノルマをこなす。午後練で隆司先輩の顔見れば、気分爽快リフレッシュだもんね。
 ああ、でも、美夏ちゃんと話さなきゃ……。
 やった、授業終了。掃除をちゃちゃっと片付ける。うちの班は今週、屋上階段の当番だったのでラッキーだ。
 教室に戻ってう~んと背伸び。チイちゃんと目が合って、お互い思わず吹き出してしまう。昼間の話の続きに突入しかけたものの、そこそこに切り上げる。
 ブラスバンド部のチイちゃんは音楽室へ向かった。彼女は根性も体力もあるので、陸上にスカウトしようとしたこともあったけど、一年のときからブラス一筋だ。まあ、ブラスは文化系といっても体育系に近いし。腹筋使うもんね、あれは。
 いよいよ本日のメインイベント。私がいま、学校へ通ういちばんの理由。部活だ。
 私が入っているのは陸上部。総勢六十名の部員は文句なしのつわものぞろい。市内の中学との対抗戦じゃ、いつもうちが上位をほとんど独占しちゃうくらい。
 もちろん、私はその陸上の名門小桑野中の花形スプリンター……じゃない。女子のエースはだれかと聞かれれば、全部員が口をそろえて三咲先輩と答えるはず。けどまあ、二年の有力選手の一人ではあるつもり。
 陸上は個人競技だ。リレーなんかもあるけど、走っている間はやっぱりその走者一人の能力にすべてがかかっている。そして、間口が広い。つまり、個性が生きるってこと。
 才能にしろ、努力にしろ、自分の持てるものが全部。運や、メンタルな部分も含めて、そのありったけのものを出しきったとき、そっくりそのまま実を結ぶ。最高の結果──記録(レコード)につながる。そこが、何より陸上の好きなところ。
 バレーとかバスケとか、みんなで参加するスポーツも楽しいとは思うけど、どうも百%の満足感がないんだよね。連帯責任の世界だし。力を合わせれば百二十%の力が出せるっていうのは、しょせんマンガの世界の話だと思う。公立中のレベルじゃ、うまい人は下手な人のカバーに追われて、実力をフルに発揮できないのが現実だよね。
 陸上はそれがない。前だけを──自分のコースだけ、そしてゴールだけを見ていられる。
 一口に陸上といっても、いろいろな種目があるけど、私が選んだのはハードルだ。
 昔と違っていまは栄養状態もいいし、中学生にもなればもう身体ができあがっている。女子はとくに出るとこがすっかり出ちゃってる人も多い──いや、私が言いたいのはそういうことじゃなくて、運動を司る神経や筋肉がすでにできあがってるって意味だ!
 ともかく、そういうわけで、素質のあるなしが自覚できちゃう。足の速さに関しては、持って生まれたのがチーターの足かカメの足かで、すべてが決まってしまうといっていい。短距離は瞬発力、長距離は持久力。勉強にしても同じだけど、他人と比較してどの辺に位置しているか、自分のレベルが見えてくる。ある意味悟りの境地ってやつ?
 小学生のころは、ずっとクラストップの俊足の持ち主だった。六年になっても最速の韋駄天男子に引けをとらなかったし、紅白リレーのアンカーも務めた。足に自信があった。けれど、複数の小学校から生徒が集まってくる中学になって初めて、クラストップの座を明け渡した。
 そして、陸上部、だ。私たち陸上部員は毎日のようにラップタイムを測っているから、余計に自分の力量が見えてしまう。コンディションの良し悪しはあれ、だれさんは何秒いくつ台のタイムって、お互いわかってる。
 私は二六名の新入部員の中で、少なくとも入ると思っていた五指にも届かなかった。
 私はトップアスリートじゃなかったんだと、思い知らされた。自分がマリアン=ジョーンズやアリソン=フェリックスみたいになれると、無邪気に少女時代の夢を見ることはもうできないんだと──。
 ガンと一発くらった私は、けれどもちろん、そんなことじゃめげなかった。
 小学校の高学年になってからちょびっとかじるだけのハードルは、まだ未踏に近い領域。だれもがスタートラインに立ったばかり。自分の可能性を信じられるフロンティア。ここならば、前を見続けられる。
 まあ、そこまで甘くはなかったけれど、ハードルは私の性に合った。ずっと好きでい続けられた。
 単純な脚力、瞬発力だけで勝負がつく世界に、いろいろと複雑な要素が付け加わる。足の長さ、歩幅、振りの大きさと速さ、相互に絡み合うそれらの要素に応じてスタイルが変わってくる。そのフォームの美しさと正確さが、タイムに結び付く。
 そして、他の競技にないのがスリルの要素。一つのハードルを越えるごとに、次のハードルの難度が増していく。着地のたびに、頭の中で瞬時に次のハードルまでの間隔を把握し、歩幅を調整し、しかも速力を維持しなきゃいけない。秘訣はリズムを崩さないこと。そして、すべてのハードルをクリアしたとき、その達成感、昂揚感を一気にラストスパートにつなげる。一粒で二度おいしい競技だ。
 私はこの大好きなハードルで、どうにかこうにか部内トップ3のポジションを確保できた。トップはもちろん三咲先輩。
 先輩は今度の県大会でも、百、二百、四百、八百、ハードル、リレー、そして幅跳びまで出場することになっている。そのすべてが全校一位。世の中、スーパーウーマンみたいな人がいるものだ。その彼女も、全国までいくと並居る天才たちの中に埋もれてしまうけど。
 ともかく、三咲先輩は特別だ。足だけじゃない。顔もよければ頭もいい。しかも、彼女みたいな人に限って、性格まで言うことなしだったりする。エリート風を決して吹かさず、いつも笑顔を絶やさない人。欠点は足が長すぎることくらい。文武両道、才色兼備の彼女が何より愛するのが〝走ること〟だ。生徒会長候補にも推薦されたけど、部活動を優先して辞退した。先輩のそういうところに、私はとくにあこがれる。入部した男子部員の何人かは、彼女に近づくことが目当てみたい。ま、それだけでやってけるほど甘いとこじゃないけどね。
 三咲先輩みたいな天才は別格だけど、ほかの女子部員もみんな、陸上にかける情熱では決して先輩に負けちゃいない。私も、美夏ちゃんも。足りない部分は努力と根性でカバーして、目標に向かってひたすら練習の毎日。
 目下のそれは、体育の日に開催される県の陸上競技会。全県の中学校の強豪が集う、年に一度のスポーツ少年少女の祭典だ。
「一緒に出よ!」
「うん! 二人して入賞目指そうね!」
 美夏ちゃんとそう誓いを立てたのは、夏休みに入る前のこと。指切りこそしなかったけど、二人で交わした約束だった。
 二年生でメインをハードルに絞っているのが美夏ちゃんと私。私がC組で彼女はA組、体育も含めて授業は別だけど、彼女とは入学早々一緒に入部届を出しにいった仲だ。ともにすごした時間はクラスメイトより多い。お互いのフォームを研究し合い、お互いをライバルに見立て、支え合い、励まし合って、苦しい夏場の練習も乗り切ってきた。
 大会を目前に控えたいま、その日々があまりに遠いできごとのような気がする。
 二人の友情にヒビが入る原因を作ったのは、寺村先輩だった。
 各校の代表枠は種目ごとに三名以内。ハードルの一名はもちろん三咲先輩。総合成績で他校を上回るためにも、ぶっちぎりのタイムを持つ彼女は外せない。残りの二席分が私と美夏ちゃんになるはず……だった。
 長距離は別にして、今年の三年は何でもこなすオールマイティな人ばっかりだった。メインでハードルをやっている人はいなかった。だから、私たちは二人とも出場できるつもりでいた。ところが、代表選考の当日、寺村先輩が参戦してきた。
 女子陸上部の三年生のほとんどは、三咲先輩をはじめみんな面倒見がよくて、後輩の一年生、二年生を親切に、ときには厳しく指導してくれる。
 けど、寺村先輩一人だけは、部員仲間の輪から少し距離を置いていた。一七名いる三年部員の間でも影の薄い、なんだかパッとしない人。決して幽霊部員なわけじゃくて、ただ一人で黙々と練習するのが好きなタイプらしい。ともかく無口で、私もあいさつぐらいしか交わしたことがなかった。
 出場者を決める基準は、五本とったうちの最高タイムと平均タイム。結果は、二位が私、三位が僅差で美夏ちゃん。私と美夏ちゃんの実力は伯仲していたから、テスト日が違ってたら結果も変わってただろう。そして、寺村先輩は四位で、一年にギリギリ勝てるレベルだった。
 でも、顧問の内田先生が代表として選んだのは、三咲先輩、私、そして寺村先輩だった。
 高校受験を控える三年生にとっては、今度の県大会が引退試合、最後の晴舞台になる。最初から結果は決まっていたんだ。
 だったら、そもそも選抜テストなんてしなきゃよかったんだ。先生も意地悪だ。
 ううん、一枚だけ残った切符を私と美夏ちゃんのどちらが手にするか──そういう話だったんだ。
 約束なんてしなきゃよかった……。
 でも、私が本当のポカをやらかしたのは、この後だった。
 私と同じく負けん気の強い美夏ちゃんは、地団太を踏んで悔しがった。その日の帰り道、彼女は内田先生と寺村先輩をさんざんなじった。私も歩調を合わせて何度もうなずいた。
 けれど、彼女の怒りは収まらず、寺村先輩への非難は次第にエスカレートしていって、ついには誹謗中傷の域に達してしまった。いわく、内申の評価を上げるためにいやいや運動部に入ってる人に、トラックを走る権利なんてない、云々……。
 さすがに私も言いすぎだと思った。この辺りで止めてあげないと……。美夏ちゃんにも十分わかっているはずだ。寺村先輩にとっては、今回が最後の機会だってことくらい。
 で、彼女をいさめようとした。それも腫物に触るような気持ちで、できるだけやんわりと口にしたつもりだった。
 美夏ちゃんは大きく目を見開いて私を見た。〝裏切られた〟という表情がその顔によぎった。
「うそつき!」
「約束破り!」
「あんたなんか大嫌い!」
 それからもう言葉にもならない罵声をいくつも浴びせて、美夏ちゃんは泣きながら走り去った。呆然と立ち尽くす私をその場に残して。
 彼女の悔しさはよくわかる。私が勝ったのはたまたまだ。そして、私のほうが負けていたら、美夏ちゃん以上に手がつけられないありさまになってたかもしれない。もっとひどい文句だって、きっと平気で口走っていたに違いない。
 余計なこと言わなきゃよかった。
 翌日、朝練のときにすぐさま彼女を捕まえ、前日のことを謝った。
 彼女は「こっちこそごめんね」と言った。
 でも、それはうそだった。彼女の本心じゃなかった。
 美夏ちゃんとの距離が、いままでの何倍にも遠く感じられるようになった。
 口をきいてくれなくなったわけじゃない。でも、ついたてを何枚も間に挟んで話しているかのよう。トラックの反対側にいるかのよう。私が追いかけると、彼女も半周分走って逃げてしまう。二人の位置は変わらない。
 練習も別々にするようになってしまった。いまの彼女には、やる気まで感じられなくなった。寺村先輩よりよっぽどひどいありさまだ。
 こんなのおかしい。間違ってる。私は心から謝った。別に私が何か悪いことをしたわけじゃないはずだけど、それでも謝った。
 美夏ちゃんが出場枠から漏れてしまったのは、私のせいじゃない。もちろん、彼女のせいでも、寺村先輩のせいでも、だれのせいでもない。成り行きだ。
 お互いもう一四にもなったんだし(彼女の誕生日は来月だから、ほんとは一三・九歳くらいだけど)、わかるはずだ。許してくれていいはずだ。
 こんな状態がいつまでも続くのは耐えられない。下手したら、タイムにまで響きかねない。もし、大会で成績が悪かったら、美夏ちゃんのせいだからな──。
 なんて、いつまでもウジウジ思い悩んでいるのは私のしょう性じゃない。で、三咲先輩が一人でいるところを見計らい、相談にいった。
 先輩は、私がいつになく真剣な顔つきで、何度もつっかえながら話すのをしまいまで聞いてから、いつもの大らかな笑顔で、私をギューッと抱きしめた。
「いいね~、青春してるよね~」
 先輩の話し方がおかしかったのもあり、思わず吹き出してしまった。最後のころは半分涙目になっていたので、ごまかすのには都合がよかったかもしれない。
「しおりんは友達想いなんだね~。こんな後輩を持てて先輩は幸せだよ~」
 先輩、それはこっちの台詞です。私、やっぱり先輩に相談してよかった……。
「美夏りんはきっと大丈夫。いまはそっと見守ってあげよう」
 三咲先輩のアドバイスを、私はありがたく受け取った。そうだよね。それがやっぱり最善の策だよね。彼女にとっても、私にとっても。
 もうできることはやった。とりあえず彼女のことは置いて、私は練習に打ちこんだ。
 私は陸上が好きだ。ハードルが好きだ。今度の大会に燃えているんだ。三咲先輩に負けず、県内ベスト8入りを目指すんだ。
 でも、美夏ちゃんにはやっぱり戻ってきてほしい。来年こそは、彼女と一緒に出たい。三咲先輩も卒業して、来年は私たちが先輩になる。二人の輝かしい黄金時代を築くんだ。
 だから、早く機嫌直して戻ってよ──。
 そんな私の願いをよそに、私と美夏ちゃんの仲はますます疎遠になっていった。彼女は部活への遅刻や欠席が目立つようになった。
 大会本番まであと二週間を切った。コンディションはまずまず。タイムも安定している。いまではみんな、軽く流す程度の練習に切り換えている。肝心なのは、大会までケガをしないことだ。いまのところだれも故障はない。
 でも、私の心は傷ついたまま……。
 やっぱりよくない。このままじゃ、気持ちよく試合に出られない。もう一度、ちゃんと美夏ちゃんと話そう。
 今日はそう決心したんだ。
 けど……結局、美夏ちゃんはいつまでたっても運動場に現れなかった。
 いったん彼女の教室へ行って、席を確かめる。カバンはない。
 帰っちゃったのかな……。
 もううんざり。
 彼女の机を蹴っ飛ばそうとして、途中で思いとどまる。これで足の指でもくじいたら、大バカどこじゃすまない。
 私のほうからは十分歩み寄ったぞ。今度は美夏ちゃんの番でしょ? こんなのはスポーツマンシップにもとるんじゃないの!?
 帰り道、私は「美夏ちゃんのバカ!」と呪文のようにつぶやきながら、半ばうわの空で通学路を歩いていた。
 ふと頭上を見上げる。V字型の鳥の隊列がシルエットとなって夕空を横切っていく。
 九月も末になると、日が沈むのが急速に早まる。日中はまだ夏の暑さが残ってるけど、部活を終えたこの時間は、夏服だと少し肌寒さを感じるほどだ。走った後で火照った身体を冷ますにはちょうどいい。
 でも、そんな心地よさも慰みにはならない。
 角を曲がり、大通りにつながる道に入ったところで、何か動くものが目に入った。
 猫だ。
 暗くてはっきりしないけど、赤茶のシマ猫っぽい。まだおとなになりたてくらいの大きさ。尻尾の先はなんだかバトンみたいに丸くなっている。どこにでもうろついてそうな猫だ。
 何やってんだろ、あんなとこで?
 私の正面の位置からちょっと左、側溝にかぶさった茂みの影で、その子は何かを待っているように見えた。スタート地点で腰を下ろした陸上選手みたいに、緊張を内に貯えているのがわかる。
 まさか、渡るつもりなのか?
 おい、やめときなって。危ないんだから、この通りは。道が狭くて、おまけにガタガタでひん曲がってて、歩道もないくせに、国道に抜ける裏道に使われていて、車の通行量は半端じゃないんだ。学校に近いのに、大型ダンプまで平気で通る。いまだってほら、電柱の向こうからヘッドライトが見えてきた。
 そのとき──猫の目がキラリと光った。私と目が合ったんだ。
 猫の緊張がぐんと高まったのがわかる。ギュッと縮めたバネみたいに。
 しまった、返って焦らせちゃったのかも。
 バネが一気に弾ける。運送トラックらしい車の影が、直線に入ってから急激に大きくなった。
 バカ! わざわざ車にタイミング合わせて飛び出すやつがあるかよ!?
 バカは私も同じだった。
 考える前に手が、それより早く足が動くのは、立派な長所だって前向きに捉えることにしてた。でも、いまは完全に裏目に出た。
 踏み切りはよかった。きっと自己ベストだったはず。このタイムが出せれば、大会でも入賞は固かったと思う。いまはむしろフライングすべきだったけど……。
 間に合えっ!!  間に合ってっ!! お願い、神様っ!! 
 つんざくようなクラクションとブレーキの音を耳にしながら、路上で固まっちゃったその子をすくい上げるように前方の草むらへ放る。
 自分もそのまま転がるように向こう側へ──きっといけるはず!
 と思ったけど、読みが浅かった。
 ズグンという衝撃。地球が回った。何回も。目の前が真っ白に、続いて真っ暗になる。
 覚えているのはそこまで──。

*  *  *  *  *  *

 そうだ。大体のところは思い出したぞ。
 私は県大会前の大事なときだというのに、ヘマをやらかしたんだ。取り返しのつかない大ヘマ。
 美夏ちゃんのこととか考えながら、半分フラフラして家へ帰ろうとしてたら、運悪くバカ猫が飛びこみ自殺を図るところに出くわした。その猫を──この子を助けようとして、私は失敗したんだ。そして、あろうことにも死んじゃったんだ──。
 なんて哀れな末路だろう。全身から力が抜ける。
 大会に出られなかったのが悔しい。でも、それよりもっと悔しいことがある。
 美夏ちゃんと仲直りできなかった。午後練まで待ったりしないで、やっぱり今朝ちゃんと話しておくべきだった。
 ううん、話す機会、話す時間は作ろうと思えばいくらでもあったはず──自分がいま死ぬとさえわかっていれば。なのに、なんとなくズルズルと先送りしてきたんだ。
 おかげで、モヤモヤをずっと抱えこんだまま死ぬことになった。自分が本当に腹立たしい。悔やむに悔やみきれない。
 自分が死んだという事実を飲みこめるようになると、悔しさはより強い悲しみの感情に置き換えられていった。
 私がこれまでに知り合った人たちの顔が次々と瞼の裏に浮かんでくる。
 お父さん、お母さん、私は悪い子だったでしょうか? いい子だったよね? でも、悪い子のほうがよかったかなあ。そのほうが二人が悲しむことも少なかったはず……。
 大よ、二人のこと頼んだ。お前ははっきり言って憎たらしいやつだったけど、それでも大がいてくれるおかげで少しは気が休まる。こどもが私一人だけだったら、父さんと母さんがあまりに不憫だもんね……。
 クラスの仲良しチイちゃんとマリちゃん。楽しかったよ。チイちゃんもそういえば発表会を控えていた。がんばってね。マリちゃんは帰宅部だけど、ともかくがんばれ。二人とも私みたいなアホにずっとつきあってくれてありがとね。
 小学時代にいちばん仲のよかった恭子ちゃん。近況報告の手紙、うれしかった。忙しさにかまけて返事出さなかったのが心残り。ごめん。もう一度顔見たかったな。
 陸上のみんな。いちばんやさしくしてくれた三咲先輩。肝心なときに、本当にごめんなさい。そして、美夏ちゃん。
 さまざまな顔が浮かんでは消えていく。
 けど、男の子の顔が浮かんでこない。ちょち寂しいかも。心の中で苦笑する。
 中二にもなれば、だれとだれがつきあってるだの、どこまで進んだだのって話にはことかかない。マリちゃんもそういう話が大好きだ。でも、私は陸上一筋だし、その手のノロケやいかがわしい話とかは、ふ~んってさりげなく聞き流すのがおとなの態度ってことで、のめりこんだりしなかった。
 あ、そうだ。隆司先輩がいた。先輩のことをそこで思い出した。
 陸上部のほとんどの女子がひそかにあこがれを抱いていたであろう隆司先輩。進むも進まないも、スタート台にも立てませんでした。悲しー。
 でも、自分でも意外ながら、口にするほど悲しい気持ちは湧き起こらない。先輩はそもそも私のことなんてアウトオブ眼中だったものね……。走ってる姿はかっこよかったし、前に出ると胸がドキドキしたのは事実だ。けど、よくよく冷静に思い返すと、隆司先輩は三咲先輩の男子版にすぎなかった気もする。
 さようなら、私。たくさんの思い出。私によくしてくれた人たち。私こと神山栞は、本日天寿をまっとうしました。これからは一匹の猫として生きていきます──。
 猫として──!?
 どうして猫なの!? やっぱり変だぞ??
 死んだときになんかの拍子で、私の心がこの猫に乗り移っちゃったんだろうか? そんなことってありえるのかな?
 美夏ちゃんとケンカしたせいで、ばち罰が当たったんだろうか? でも、そんなに悪いことしたかなあ……?
 美夏ちゃんを結果的に傷つけたのは、確かに私も悪かったと思う。けど、少なくとも、死刑になるほど重い罪じゃないはずだ。
 それ以上罰当たりなことをした覚えはない。いくら自分の胸に手を当ててみても、おやつをつまみ食いしたとか、TVのチャンネル争いが原因で大に拳骨をお見舞いしたとか、そのくらいの〝前科〟しか挙がってこない。
 やっぱり変。陸上に打ちこんできた健康そのもののスポーツ少女が、これほどの報いを受けるなんて、神様のほうが間違ってるよ、絶対。
 いや、むしろ逆なのかも。私、死んじゃうところだったのに、救われたのかもしれない、心だけは。無我夢中でこの子を助けようとしたことで。
 きっと神様は、私のこと見ていてくれたのよね? 猫になったところで、あんまり救われた気はしないけど……。
 でも、それも考えてみりゃ変よね……。じゃあ、この子自身の心は一体どうなっちゃったの? 猫に心なんてものがあればの話だけど。私の身代わりになって死んじゃったってこと? 何の罪で?
 横断歩道のあるところで右見て左見て渡らなかったのは、この子のせいかもしれないけど、猫に交通ルールを守れったって無理に決まってる。この子をあわてさせたのは、私の責任でもあるし。後先考えずに飛び出したのもお互いさまだし。二人(一人と一匹)とも自業自得ってとこかも。
 急に、自分の身体のことが気がかりになってきた。たぶん、いったん病院に運ばれて、脈が止まってるとか、瞳孔が開いてるとか、そういう診断をするんだろうけど……。
 待てよ? そもそも私、本当に死んでるのか?
 確かに、かなりそれっぽかったけど。でも、はっきりと呼吸や心臓が止まっていると、自分の目で確認したわけじゃない。
 ひょっとして、事故のせいで私と猫の心と身体がとっ替えられちゃったとか? いまごろ〝私〟は、病院でお母さんたちに向かって「ニャー」とか言ってたりして。
 それだったらまだ救いがあるかも、と気を取り直す。猫が勝手に私の身体で恥ずかしいまねしたらやだな……。まあ、当分は、ベッドの上で包帯でグルグル巻きにされて動くに動けないか。
 ともかく、なんとかして自分の身体を取り戻さなきゃ。問題は、〝私〟がどこの病院に運ばれたかわからないことだ。だれかに聞くこともできないし……。
 こうして悩んでてもしょうがない。とりあえず家に帰ってみよっか。後のことはそれから考えればいいじゃない。ここから家まで五百メートルも離れていないはず。
 辺りの様子をうかがおうと、心の内側に向けていた目をようやく外に向ける。
 そこで私は愕然となった。住み慣れたはずの町が、まったくの別世界のように映ったからだ。

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