弔問客が増え始め、私たちは追い立てられるようにその場を離れた。
半ば放心状態の私を、支えるようにして連れ出してくれたのもリューイだった。
初めて彼と出会った、つぶれた商店の裏で、私たちは二匹で寄り添いながらじっとうずくまっていた。
辺りはほとんど真っ暗だ。怖かった。けど、灯りがないことより、自分の人生がブチンと断ち切られてしまったことのほうが、よっぽど恐ろしかった。まさにお先真っ暗ってやつだもの。
けれど、リューイが夜中、熱心に私の顔や首筋の毛をなめ続けてくれたおかげで、恐怖はだいぶ薄らいだ。絶望の二文字で埋め尽くされていた私の心に、彼はかすかだけど心強い灯りをともしてくれた。
私はリューイに、自分が死んで猫になってしまった経緯を話した。彼は黙って私の話に耳を傾けてくれた。
自分が死んだという事実を、私はようやく受け入れる気になった。どのみち受け入れざるをえなかった。残りの一生を猫として送るのだということを。
一度割り切ってしまえば、自分が墓場に住み着く幽霊になったのでも、雲の上だかどっかにあるという天国へ昇ったのでも、ましてや地獄へ堕ちたのでもなく、どういうわけか猫として──犬でもネズミでも鳥でも魚でもミジンコでもなく──現世にとどまり続けることになったのを、死後の選択の中ではいちばんの当たりくじだったんじゃないかと思えるようになった。
私は怖いものが大嫌いだ。林間学校で大恥をかいたことは前にも話したけど、マンガだろうと小説だろうと、怪談の類いには手を出さない。流行りのホラー映画を観に行かないかとマリちゃんたちに誘われても、もちろんお断りだし、大がテレビのチャンネルを怪奇現象特番に変えようものなら、ヘッドロックをお見舞いして自分に生と死の境をさ迷ってもらう。
私自身がオバケになって、夜中の墓場をうろついてるなんて、想像もしたくない。もしそうなったら、一晩で白髪になっちゃうだろう。うわ、もっと怖いな、それ……。
動物になり、灯りのない真っ暗な野外で夜をすごすのは、怖さの点で幽霊と大差ないかもしれない。でも、猫の本能と身体が、そうした夜の暗闇と孤独に対する恐怖感をだいぶ軽減してくれた。事故当日に経験したけれど、猫の目にとって都会の夜は暗いうちに入らないもの。
リューイは私に、猫の身体や暮らしぶりについての知識をいろいろと伝授してくれた。
彼の説明によれば、猫の目にはタペタム層といって、鏡みたいに光を反射する膜があるんだって。ちょうど網膜の裏側にあるこのタペタム層で、一度入ってきた光を跳ね返すことで、暗いところでも物がよく見える仕組みになってるわけ。夜に猫の目がキラッと光って見えるのは、このタペタム層のせいなんだよ。
ちなみに、猫の目は縦に細長いレモン形をしてるけど、これはカメラのレンズでいう絞りの役割を果たしている。瞳の形が真ん丸の人間より、素早くピントや明るさを調節できるんだって。
猫はまた、群れを作らず単独行動をする動物ってことになっている。獲物を漁ったり、寝床を探したり、生きていくうえで必要なものを調達するのも全部自前。まさに独立独歩、一匹オオカミ。一匹でいることが苦にならない。
だけど、一方で、野生のシロクマみたいに仲間をきっぱり無視しているわけじゃない。テレビのドキュメンタリーで見たけど、シロクマのオスなんて、自分のこどもだって出会ったら餌だと思っちゃうんだって。ゾゾォ~。
猫はむしろ、かなり社交的な動物だ。ただ、相手にべったり寄りかかったり、見返りを求めたりしないだけ。
そういう意味では、人間の友人同士のつきあいにとても近い。
だれかにかまってほしいときと、だれにもかまってほしくないとき、その距離感がちょうどいい。もし犬だったら、少し仲間への依存心が強すぎるように感じただろう。
猫になりたてのときは、いろいろ戸惑うこともあった。何しろ、猫と人とでは五感の能力に結構な差がある。ただ、他の動物になることを考えたらずいぶんマシ。むしろ猫は、人間に似て、五感のバランスがとてもすぐれた動物なんだ。
視力の鋭さや色覚に関しては人間に及ばないけど、猫は肉食獣の中では目がかなりいいほう。立体視だってできる。目が二つとも顔の前のほうについてるから、3Dで物が見えるの。ウサギやシカなんかは、目が顔の真横にあるせいで、視野が広い代わりに物が平面に見えちゃう。
暗がりでもものがよく見えるのはさっき話したけど、動態視力もずば抜けている。猫の目のままで卓球やったら、きっと愛ちゃんや中国のスター選手にだって余裕で勝てそう。
耳の感度も人間より断然上。
私は、自分の住んでいた世界がこんなにうるさかったのかって、初めて知った。
それもそのはず、猫の耳は人間より二倍以上高い音でも聞き取れるんだ。大きな三角耳をパラボラアンテナみたいにクルクル回して、どんなかすかな音でもキャッチできちゃう。鍋の底をおたまで引っかくみたいな、ネズミたちのキーキーいう声だってね。
鼻についても同様。もう一度同じ表現を使うと、世界はこんなに臭いものだったのかってとこ。
ちなみに、猫は口の中にも臭いを嗅ぎとるための〝もう一つの鼻〟を持っている。上顎の裏っ側についているヤコブソン器官ってのがそれ。これで匂いを嗅ぐときは、ニパッと笑ってるみたいな顔になる。
とはいえ、鼻のよさにかけては、猫はやっぱり犬には及ばない。逆に、そこまで鼻が敏感でなくてよかったと思う。この匂いはどこそこの犬が何時間前にしたおしっこだ、なんてわかってもうれしくないもんね。
五感といえば、味覚は鈍ったみたい。しょっぱかったり甘かったりはわかるけど、それ以上微妙な味はわからない。いまの私にとっては、返って幸いだったけど……。
感覚の違いといえば、それ以外にもいっぱいある。なんといっても、猫は平衡感覚や反射神経が抜群だ。自分の身体の反応速度が速い。高いところへ昇り降りすることも平気になった。
この変化はうれしかった。屋根からのアクロバット宙返りにも、いつかチャレンジしてみたい。
いままでの私に備わっていなかった感覚もある。例えば、ヒゲ。
人間のひげは、剃るのがメンドイだけで何の役にも立ってないし、おっさんの無精ひげなんてはっきり言って美しくない。女に生まれてよかった! と思ったもんだ。
それに比べりゃ、猫のヒゲは見た目にも美しいうえに、優れて実用的。全身の毛皮とあわせて、空気の流れを敏感に感じとることができる。
さらに、ヒゲには目を守るっていうもっと大切な役目もあるの。ヒゲの先が何かに触れると、反射的に瞼をつぶっちゃうわけ。おかげで、草むらの中に潜りこんでも、葉っぱが目ん玉に飛びこんできたりして、痛い思いをしなくてすむんだよね。
そして尻尾。これのおかげで、高いところを飛び移るときでも、バランスを保って着地できる。
最初はお尻がなんかムズムズする感じだったけど、慣れてくるとこれはいい。手がもう一本ある感覚だ。サルの尻尾やゾウの鼻みたく、物をつかんだりはできないけど。
もっとも、尻尾の役目はバランスをとるだけじゃない。「目は口ほどに物を言い」って言うけど、猫にとっては目も口も尻尾には遠く及ばない。
ただ、あれは自分でコントロールできるもんじゃなくて、自然と出ちゃうんだよね。びっくりすると尻尾の毛がブワッてなるのは、もろ鳥肌立つ感じだし。考えごとしてるときに尻尾の先がピクピク動くのは、シャーペンでノートをグリグリして、気がついたらいつのまにかナスカの地上絵ができあがっちゃってるのとおんなじ。
もっと微妙なものも。これも慣れたけど、視点の高さの違い。それから、うまく説明できないけど、時間の流れ方だって違う。まったりした感じ。一日、あるいは一秒の長さが、人間でいたときとどうも違ってる気がする。
「時間の流れというのは主観的なものだからね。何かを見たり、触れたりして、その情報が神経を通じて脳や脊髄に伝わると、今度はどっちへ動けとか、跳ねろとかいった信号が、また神経を通じて筋肉へ送られる。この往復の時間、速度が、ぼくたちが時間を認識する際の一つの基準といえる。だから、人間でいたときより時間を密に感じるんだよ。心臓が脈打つ回数とかも関係しているかもしれない。ネズミやリス、小鳥なんかは、同じ一秒の時間でも、ぼくたちよりもっとゆったりしたペースで流れているように感じるだろうね」
リューイ先生はそう講義してくれた。クラスで成績トップの仲本君も、きっとリューイの天才的な頭脳にはかなわないんじゃないかしら。
で、結論。要するに、それらの感覚の違いは大きなものじゃないってこと。
考えてみれば、人間だっておとなとこどもじゃ運動神経や視点の高さには大きな差がある。時間の感じ方もきっと違うだろう。それをもって、おとなとこどもの心は異質だなんていえない。
ううん、異質かもしれないけど、それをいったらみんな異質なんだ。運動神経、頭のよさ、音楽や絵を描く才能、クラスの中でもみんな違う。私たちは一人一人、ものの感じ方や考え方が違ってる。
人と同じように、猫もとっても個性的。リューイと、マリさんと、フルフルとでは、まったくの別猫。
人と猫との間の心の違いなんて、そうした人同士、猫同士、私と他人、私と他猫の心の違いに比べれば、それほどたいしたもんじゃないんだと、そう気づいた。
そして、どんなに心が違っていても、私たちは友達になれる。
チイちゃんやマリちゃん(人)、美夏ちゃんとも。リューイやマリさん(猫)とも。猫でも人でも一緒。
私とリューイは間違いなく友達だ。友達でいていいんだ。もう折り紙つきで。
そのことに、私は大きな安堵を得ることができた。
一方で、ふと猫と人間の違いを思い知らされることもある。
なんといっても、猫は変化を嫌う。保守的っていうのかな? ともかくマイペースを保とうとする。動物は一般に保守的なものらしいけど、とりわけ猫は保守派の代表格だ。カラスやイルカなんかは目新しいものに興味しんしんのタイプ。犬は、飼い主次第。
猫の社会についていろいろ教えてくれたリューイに、私は返礼の意味もこめて、人間世界のこと──人間の科学とか、歴史とか、文化について教えてあげた。もっと勉強しておけばよかったと激しい後悔を抱きつつ。
リューイは知識としておおいに興味を示した。彼の目に映る人間社会からあれこれ類推していたことと合ってたり、違ったりすることを、いろいろおもしろがった。
けど、そんな言葉とは裏腹に、彼の態度にはどこか、あくせくと進歩を追い求める人間に対する、超然とした無関心のようなものが感じられた。
あるとき、私はリューイに、一つずっと引っかかっていたことについて尋ねてみた。
〝この子〟のことだ。
リューイは少しの間私の顔を見つめてから、うつむき加減に答えた。
「きみは何も心配しなくていいよ」
気のせいか、そのときの彼はどこか悲しげな表情に見えた。