前ページへ         次ページへ



7 虫




 ポカポカと陽気のいいある午後のこと。私は集会場に近い空き地でリューイとまったりしていた。
 そこはオンボロのアパートを取り壊した後、用途が決まらずにほったらかしにされて雑草だらけになった広場だった。小学生が球遊びをするには草ぼうぼうすぎる。そういう場所は猫たちにとって格好の憩いの場となる。
 半分うつらうつらしていた私の前を、大きな虫がブーンと羽音を立てて通り過ぎた。カナブンか何か、コガネムシの一種だろう。
 私と同じくまどろんでいたリューイが、パッと身を起こした。目が爛々と光っている。
 パシッ!
 リューイが虫をはたき落とした。
 コガネムシはバランスを失い、酔っ払いみたくヨロヨロと降下した。かろうじて草の茎の低いところにつかまる。どうやら足が一本抜けたみたいだ。
 コガネムシが再び離陸したのを見計らい、リューイのパンチが飛ぶ。
 虫はポタリと地面に落ちた。片方の羽が、硬い外側の甲羽の下からねじれてはみ出している。
 地面の上でなおも動きだそうとしたコガネムシを、リューイの前足が逃すまいとして捕まえる。彼は虫をくわえ、噛もうとした。
 が、虫はそこでバラバラにされず、再びポトッと地面に落とされた。
 リューイがもう一度同じことを繰り返す。
「や、やめなよ、リューイ……」
 私は目を背けると、思わずそう口にしてしまった。
 途端に後悔の念に駆られる。
 猫がネズミや虫をおもちゃのようにもてあそぶという話は聞く。リューイに確かめたことはなかったけど、狩りの欲求を満たすためだって。
 それは猫の〝本能〟、生まれもって身に付いたもの。残酷だからといって、人間が止めに入っていい筋合いのものじゃない。猫にとってはそれこそ余計なお世話。
 でも、言わずにはいられなかった。
 リューイは口にくわえていたコガネムシを前足にとって、いったん地面に押さえつけながら、マジマジと私を見つめた。
 彼の口から出たのは意外な台詞だった。
「おもしろいよ」
 ああ……。猫との距離がまた遠のいた。
 リューイの心がわからない。
 おもしろい、ですって? どうしてそんなふうに思えるの?
 道理としては、間違っているのは自分のほうだ。それはわかってる。
 でも、私はいやいやをするように首を横に振った。
 リューイとの距離をとても近くに感じていた。その彼が、また私を置いて遠くへ行ってしまうのが怖かった。だから。
「なんで? そんなことしてどこがおもしろいの? ひと思いに殺して食べちゃうんだったらまだわかるけどさ」
 リューイは前足の下でもがいているコガネムシをじっと見つめた。
「……おもしろいっていうのは、つまり、興味を引かれるっていうこと。そのものが何なのか知りたくなる。確かめたくなる。具体的に言うなら、〝これ〟は食べられるのか、食べられないのか? 食べられるとしたら、おいしいのか、おいしくないのか? 害をなすのか、なさないのか? そもそも何なのか? どんなふうに動く? または止まる? そう思うと、やってみたくなるんだ。知りたくて仕方がない。身体がウズウズして、夢中になってしまう。おもしろい。興味深い。でも……」
 少しの間。
「……そうだね。きみが何を言わんとしているのかは、大体わかる。〝奥さん〟もちょうどきみと同じような目で──困ったような、悲しそうな目で、ぼくを見ていた……」
「奥さん? リューイのカノジョ?」
 初耳の台詞に、私は思わず身を乗り出した。
 フルフルはあんなこと言ってたけど、そりゃ、リューイにだってつきあってるメスくらいいるよね……。でも、だれだろう? マリさんのパートナーはフルフルだと聞いていたし、やっぱりサッシさんかな? それとも、ゼンちゃん?
「いや。〝お母さん〟といったほうがわかりやすいだろうね、きみには。もちろん、二本足のだよ。でも、ぼくたちはそう呼んでいたんだ、彼女のこと」
 びっくりして問いただす。
「もしかして、リューイも人間に飼われていたことがあったの?」
「うん。彼女と別れてから二年になる……」
 それを聞いて思い出した。そういえば、出会ったときにもチラッとそんなこと言ってたっけ……。
「まあ、その話はいずれまたの機会にするとしよう。ともかく、きみはぼくがこの虫をいじめると思って、胸を痛めたわけだ。残酷だと。違う?」
「う、うん……」
「気を悪くしないでほしいんだけど、ぼくたちは正直、その感情にはなじみがない。残酷だという感情には。なぜなら、ぼくたちはネズミを殺す。食べるために、自分自身が生きていくために。血を見ることを拒んでいては、生きていくこと自体できなくなっちゃうよ。きみも賢い人間だったんだから、そんなことは説明するまでもないだろうけど」
「うん……」
「でも、ぼくたち猫だって、いたずらに命を殺めようと思ってるわけじゃないんだよ。ぼくたちが虫や小さな動物を見ると、ウズウズしていてもたってもいられなくなるのは、それなりの理由がある。ちょっと長くなっちゃうけど、聞く気はあるかな?」
「うん。聞かせて?」
 私が促すと、彼はうなづいて説明を始めた。
「この世界には動くものがたくさんある。ぼくたちはそれらに強い興味を惹かれる。一口に動くものといっても、いろいろある。動物はもちろんだけど、植物や石だって、風が吹いたり地面が揺れたりすれば動く。動物の中にも、ネズミとか小鳥とか魚とか、ぼくたちの餌になるものもいれば、逆にぼくたちを襲うものもいる。いまの日本じゃ、ぼくたちの天敵と呼べる動物は多くないけど、仔猫時代には野犬やカラスも要注意だからね。獲物にも天敵にも属さないものもたくさんいる。おっと……一番大事なのを忘れてた。自分の同類、つまり猫も入るよね」
「そうだね。動くものっていったら」
「さらに、獲物といったって、その中には多くの種類が含まれる。ぼくたちはそれぞれの獲物の特性に応じて、戦略を練る必要がある。ネズミと小鳥の獲り方は全然違う。もちろん魚も。同じネズミだって、ハツカネズミとカヤネズミとドブネズミ、そういった種類毎に異なるし、種類が同じでさえ、経験を積んだ老獪なネズミとバカな若いネズミ、追い詰められたネズミとこっちに気づいてないネズミとじゃ大違いだ」
「ふむふむ」
「ぼくたちの獲物がネズミや小鳥だっていうのは、頭の中に漠然としたイメージがあって、だれでも生まれつき判ってはいる。でも、実際に獲物を手に入れるためには、狩りの成功率を高めるには、お母さんに実地に教わって、トレーニングを積む過程が欠かせない。本能ってのは、ほんとの基礎の部分しか教えてくれないからね。
「だからこそ、ぼくたちは獲物について〝研究〟するわけだ。天敵への対処法も、同様に知っておく必要がある。直接襲われる可能性のあるもの以外にも、マムシとかスズメバチとか、手を出すと危険なやつもいるしね。〝その他大勢〟に分類される生きものだって、いろいろ知っておいたほうが役に立つ。トカゲやゴキブリみたいに、いざというときにちょっとは腹の足しになるものや、まずくてとても食えたものじゃないのとか、毒毛虫みたいに避けるべきものもある。いろんな動くものに好奇心をそそられるっていうのは、まさに生きていくうえで欠かせない習性なんだ」
「な、なるほど……」
 リューイがゆっくり説明してくれる話を、私は反芻しながら少しずつ消化していく。
「確かに、動くものと見たら手当たり次第に、お腹が空いていようといまいと、全部やっつけちゃうほうが、いちいち対応の仕方を分けるより楽だろうね。でも、ぼくたちはそうはしない。獲物であることがはっきりしている場合は、逃げられないように速攻で息の根を止めるけど、そういう自信がない場合は、慎重に確かめようとする。なぜか? 一つは、いま言ったように、動くものの中には食べられないものや、危険なものも含まれてるから。
「そしてもう一つ。動くものの中には傷つけちゃいけない大切なものもあるから──。ぼくたちは訓練をするっていっただろ? 仔猫時代には、お母さんの尻尾や兄弟を獲物に見立てて、忍び寄りや押さえこみのコツやタイミングとかを徐々につかんでいく。あくまで生き延びる成功率を高めるためのトレーニングとしてね。でも、絶対にとどめは刺さない。もちろん、刺すわけない。その手前でやめる。
「動くものを目にしたら、まずは興味と警戒心を持ってじっくり確認する──。つまり、これが生きものを対象にした〝研究〟の標準なんだよ。ときには食べ物を手に入れる機会を逃しちゃうかもしれないけど、危険な目に遭ったり、親や兄弟、育ててくれた人間をケガさせるよりはまだマシだからね。だから、街中で人に育てられたような、ネズミが獲物なんだとはっきり教わらなかった子は、ネズミでさえなかなかとどめが刺せなかったりする。人間がはたからながめると、もてあそんでいるように見えちゃうかもしれないし、まあ虫やネズミにとっては気の毒に違いないけど……。
「実際のところ、どんな動物だって手当たり次第に命を奪うことはしないものだ。自然のバランスを崩して、結果的に自分の首を絞めるだけだし。命っていうものは、決してむやみに奪っていいもんじゃないよね。たぶん、そのことをいちばんわかっているのは、きみたち人間なんだろうと思うけど……」
リューイがここまでこと細かく、懇切丁寧に説明してくれたのは初めてだったけど、私は講義してもらったことを感謝した。
 さっきの彼の、仔猫のような真剣な表情を思い出す。
 そうだ……猫たちは、決して命をもてあそんでるわけじゃない。ちっちゃな虫におっかなびっくりしながらも、自然の中で生きていく術を学んでいたんだ。まさに目からウロコ。
 こんなに心やさしい動物なんていやしないよ。猫万歳! だれだよ、猫が残酷だなんて言ったのは!? 濡れ衣もいいとこじゃん! もう許せなあい!
 彼は持ち上げてくれたけど、人間のほうがよっぽど残酷じゃん。ゴキブリ○イ○イなんてさあ、ジワジワといたぶってるんだよ? 食べもしないのにさ。それも自分は手を汚さずしてだよ? 残酷なんてもんじゃないよね。まあ、それ以外にも例を挙げたらきりないけど……。
「ごめん、リューイ! ほんとにごめん! いくら謝っても謝り足りないけど……」
 もう、世界中の猫たちに人間を代表してお詫び行脚したいくらいの気持ちだ。でも、それは無理なので、私はリューイ一匹(ひとり)にひたすら何度も謝った。
「いや、栞が謝ることじゃないよ。それに、虫をいじめるのは、いずれにしてももうやめる」
「え? どうして?」
 私はポカンとして聞き直した。
「残酷だとは思わないけど、友達が嫌がること、不快に思うことをするのは、やっぱりいいことだと思わない。だから、やめる」
 そう言って、リューイはコガネムシを離した。コガネムシはヨタヨタと羽を引きずるように歩いていき、私たち二匹(ふたり)が見守る中で茂みの陰に消えていった。
「リューイ……」
 私はなんと言っていいのかわからなかった。ただもう胸がいっぱいだった。
「でも、一つだけお願いがある。イートバグズがゴキブリを捕まえるのは、大目に見てやってくれないか? 彼にとってはそれが生きがいなんだ」
 ……。
「イエッサー……」

 このときリューイに教わったことは、ずっと印象に残っている。いまでも私は、だれか人に会うたびに吹聴してやろうと意気ごんでいる。彼みたいにうまく説明できる自信はないけど。
 ただ、このとき、話の本筋とは関係ない二つのことが、私の心に引っかかったまま残された。
 一つは〝奥さん〟のこと。
 そして、彼がその人のことを話したとき、〝ぼくたち〟と言ったこと──。
 その〝二人〟については、じきに彼の口から明かされることになったんだけど……。

前ページへ         次ページへ
ページのトップへ戻る