私の死から十日余りが過ぎ去った。
私はだいぶ猫暮らしが板についてきた。もっとも、ほとんどリューイと行動をともにしていたし、ご飯はマリさん(とそのご主人の気の好いやもめ暮らしのおばさん)のご好意に甘えさせてもらってたんだけど。
ときには、どこからくすねてきたのか、リューイがドライの小袋を調達してきてくれることもあった。私のために危ない橋は渡らないでほしいけど、正直ありがたかった。
何しろ、マリさんのお宅で出されるのはいつも割安のノーブランド品ばかり。さすがに一種類だけじゃ、人間時代に肥えさせた私の舌は飽き飽きしてしまう。ミソ氏みたいにグルメを気取るつもりはないんだけどね。
未だにネズミに口をつける気にはなれない。ていうか、こればっかりは、いくら猫として生きる決心をしても、死ぬまで受け入れるつもりはなかったけど。
猫としてすごしていると、今日の日付がいつだったか、次第にあやふやになっていく。猫には平日も日曜も祝日も関係ないもんね。
昨日か、今日か、明日かには、たぶん県大会がある(あった)はずだ。あえて意識するのを避けてきたけど、そう簡単に吹っ切れるもんじゃなかった。
学校や家での生活についてリューイに話すとき、私はなるべく感傷に浸らないよう努めた。思い出の一幕を語るにしても、まるで他人事のような口ぶりで、さらりと流した。あまり深入りすると、もう戻らない日々を振り返って、いたたまれない思いに駆られてしまいそうだったから。
部活の陸上の話は、そうした抵抗感がまだ少なく気楽に話せるテーマの一つだった。美夏ちゃんのことに触れなければ……。
「ハードル?」
自然に関することなら、私なんかよりリューイのほうがずっと豊富な知識を持っていたけど、猫の世界と縁もゆかりもないものについては、当然彼は何も知らない。そうした事柄を説明するのはなかなか骨が折れた。陸上競技なんてその典型だろう。こういうときだけでも、口達者なマリちゃんと舌を交換できればいいのにと思う。
「ふうん……。ねえ、栞。ちょっと実演してみてくれないか? そのハードルってやつを」
「ええっ!? 無理だよぉ。ここは学校じゃないし、ハードルの代わりになるものなんてないもん。かといって、二匹で運動場に行くってわけにもいかないし。そもそも、猫のサイズに合わせたハードルなんてないしさ」
私が口をとんがらせると、リューイは苦笑しながら言った。
「ハハ、栞はまだまだ頭が固いな。もっと脳ミソを柔らかくしなきゃ。猫として生きていくならね。例えば、こういう具合にイメージしてごらん。猫がハードルをやるとしたら、それはどんなものになるか? きみたち中学生が競技用に使ってるハードルが七十センチくらい、大体腿の高さだとしたら、猫の場合はせいぜい二十センチもないだろう。もっとも、ぼくたちは足の筋力、跳躍力が相対的に人間より優れているから、もっと高めに、四十センチくらいの設定でもかまわないだろう──とかね」
「ううん、猫のハードルかあ……」
言われたとおり、乏しい想像力をめいっぱい働かせて、頭の中で猫用のハードルをイメージしてみる。
こうして、私は駐車場で猫版ハードルに挑戦することになった。
幸い、片側にはいま一台も車が停まっていないので、端から端までを五十メートルのトラックの直線部分に見立てることができる。で、車一台一台のスペースの境界線がハードルの設置場所。
スタートラインに着く。獲物に狙いを定めたときのように、上半身を低くして、腰をゆっくり振りながら、ゼンマイを巻くみたいに全身の力をためこむ。
「ヨーイ……ドン!」
スタートの合図も自分で。
最初の加速が少し足りなかった。けど、まあいいや。どうせ遊びだもんね。
何しろ久しぶりだし、足が二本余計に増えたせいもあり、踏み切りの調整がうまくつかない。それでも、見えないハードルに向かってジャンプ。乗馬の障害競技か犬のアジリティみたいな感じで。
四回の跳躍を決めて、向こう端にゴール。
ううん、イマイチだな……。地面に引かれたただのかすれた白線を、ハードルだと思いこむのは、やっぱり無理がある。
「どうだった? あんましよくわかんなかったでしょ?」
私はリューイを振り返り、気まずさをごまかすように手の甲をなめながら言った。
「いや、なんとなくだけど、大体のところはわかったよ。ちょっとぼくもやってみていいかな?」
「え? うん」
今度はリューイがスタート地点に立った。私と同じように緊張を四肢に貯え、じっと前を見据える。
「私が合図してあげるね。ヨーイ……ドン!」
草原を駆けるチーターのような身のこなしで、リューイがスタートダッシュを切る。すごい加速だ。
仮想のハードルを前にしたとき、彼の四つの足先が、地面の極小の一点にそろえられた。次の瞬間、地平線から天空に向けて、力の向きが切り換わる。
寸分の乱れもない弧を描いて、リューイはハードルの向こう側に着地した。鮮やかで、正確なフォーム。
軽やかに大地を蹴るその姿は、まるで風のよう。
私は声もなく、彼の疾走、彼の跳躍に見とれた。
すごいや、リューイ! まるで三咲先輩や隆司先輩の走りを見ているみたい。美しさと速さが一体になっている。完璧という他に表現する言葉が思い浮かばない。
ゴール。
私は酔いしれたようにその場に立ち尽くした。彼がそばに戻ってきてから、ようやく口を開く。
「ねえ、リューイ。ハードル……見えてた?」
「うん」
やっぱり、そうなんだ……。
「きみにも見えてただろ? ぼくのハードル。それに、ぼくにもきみが跳んだハードル、見えてたよ」
確かにそうだった。でも……。
「私のなんて全然ぼんやりしてた。リューイのはすっごいくっきりしてて、きれいだったよ……。完敗。リューイたちってさあ、ほんと想像力がたくましいよねぇ。うらやましいな……」
リューイは得意げな顔で尻尾をくねらせ、立派なヒゲをなでた。
「まあ確かに、想像力を働かせることにかけては、ぼくたちの右に出る動物はいないかもね。狩りの訓練のプログラムには、イメージトレーニングも含まれるし。イメージのネズミを追いかけても、お腹はいっぱいにならないけど、練習台としては十分役に立つ。ときには、七色に輝く羽のチョウやバッタを追いかけたり、逆に、翼の幅が十メートルあるフクロウやタカに襲われるところを想像したりすることもある」
そ、それはやだなあ。体長十メートルの巨大ゴキブリに襲われるよりはマシだけど。あ、けど、イートバグズなら喜びそう……。
そういえば猫って、何にもない天井見てニャーニャー鳴いたり、いきなり宙に飛びかかったりすることがよくあるけど、そういうことだったんだ。昔は、オバケでも見えてんのかと思ったけど……。
私は猫という動物に、ますます惹かれるようになった。思いやりがあって、個性にあふれて、イマジネーション豊かな存在。
そして、そのことに気づかせてくれたリューイに、だれよりも惹かれた。
「よし、じゃあ、次は二匹で競走してみよ? 今度は負けないぞ~」
「いいとも」
「キャリアの違いってものを見せつけてあげる」
「さあ、どうかな?」
それから私たちは、日が暮れるまでハードルの競走にふけった。
「〝奥さん〟のこと、聞いていい?」
「知りたいの?」
私がそう質問したとき、いつも気前よくいろいろなことを教えてくれるリューイにしては、なんだかためらう様子がうかがえた。
それで、私は彼に背中を向けると、尻尾の先だけピクピクさせて答えた。
「まあ、あまり他猫に話したくないことだったら無理には聞かないけどさ……。いやな思い出だったりする?」
「いや、そんなことはない。悲しいことはあったけど……」
それからリューイは、彼の生い立ちにまつわる物語を話し始めた。
彼はいわゆる捨て猫だった。その彼を拾ったのが〝奥さん〟。いまでも彼女は隣町に住んでいるらしい。
拾われたとき、彼には兄弟がいた。名前はリム。
「毛色はシャム猫の系統だったけど、雰囲気はきみによく似ていたよ」
そう言って私を見たときの彼は、どこか遠い目つきをしていた。たぶん彼の目には、私と二重写しになってリムの姿が見えていたんだろう。
リムは虚弱児だった。二匹とも仔猫の時分に一緒に拾われ、彼の覚えていない産みの母親はおそらく同じだと思われた(猫の場合、父親は一緒とは限らない)。けど、そのころからリムは、体格的には猫並のリューイより一回り以上小さかった。おとなになるまで育つかどうか危ぶまれるほど。
〝奥さん〟の懸命な介抱もあり、リムはなんとか無事に成猫にまで成長した。けれど、おとなになっても身体の弱いままだったリムは、結局五年目の冬を前に息を引き取った。
残されたリューイは、世話になった〝奥さん〟に別れを告げ、一人で生きる道を選んだのだった。
「そうだったんだ……」
「〝奥さん〟はぼくによくしてくれた。とても。いまこうして自立して健康な生活を送ることができているのも、彼女のおかげだといっていい」
「……それなのに、家出しちゃったの?」
「ああ。そうしないわけにはいかなかったんだ……」
リューイにとって、弟の死はそれだけ大きな猫生の転機だったんだろう。
大のことを思い出す。もし、大が死んだりしたら、そりゃ自分もすごく悲しむとは思うけど、家出するほどじゃないな。
考えてみたら、死んだのは私のほうだっけ……。大のやつ、いまごろどうしてるだろ? たぶん、お母さんやお父さんほどには悲しんでないと思うけど。きっと、一畳分大きな私の部屋も使えるようになってよかった、なんて喜んでるんじゃないかしらん?
「いまでもぼくは、ときどき〝奥さん〟の様子を見にいってるんだけどね」
「え、そうなの? なあんだ。じゃあ、安心じゃん。出入り自由にしてもらえるの?」
「いや。〝奥さん〟には気づかれないように、そっと会いにいってるんだよ」
「え!? それって……」
私は言葉に詰まってしまった。
つまり、〝奥さん〟はリューイが会いに来てること、何も知らないってこと? それじゃ〝奥さん〟がかわいそすぎないかなあ……。
「ねえ……やっぱりじかに顔を合わせて、なでてもらいたいとか、思わない?」
「〝奥さん〟はきっと、ぼくが世間のオス並に流浪の旅に出たんだろうと、自分を納得させていると思うよ。まあ、リムの死がきっかけだろうと感じてはいるかもしれないが。でも、ぼくがどこかで元気にやっているに違いないと思っていてくれれば、それでいい。このうえ心を波立たせるようなまねをするつもりはないのさ……」
なんだか切ないなあ……。
会いたいんだったら素直に、ちょっと留守にしてましたってな顔して会っちゃえばいいのに。
リューイの気持ちが解らないよ。といっても、猫のというより、男の子の気持ちとしてっていう感じだけど……。