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9 美夏ちゃん




 そのときの会話が、私の背中を押したのかもしれない。
 私の場合、リューイ以上に元家族に会いに行けない理由がある。だから、ずっと〝自宅〟のそばへ近づくことを避けてきた。
 でも、リューイみたいに、遠くからそっと見守るぐらいのことは、ときおり無事でいるのを確認しに行くくらいは、許されるんじゃないか。隣の塀から、お母さんが洗濯物を干している様子をながめたり、大やお父さんが学校や会社へ出かけるところを見送るだけなら、してもいいんじゃないか──。
 リューイには黙って自分だけで行ったものか、それとも、相談してついてきてもらうべきか、少し悩んだ。
 けど、何から何まで彼の世話になるのも気がひけたし、いつまでも甘えてるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせ、一匹(ひとり)で出かけることに決める。
 彼には、ちょっと行きたいところがあるから出かけてくる、と断っておいた。
 リューイはとくに気を悪くした様子もなく、「気をつけて」と言って送り出してくれた。
 最初は自宅に直行するつもりだったけど、途中で気が変わって、その前に学校へ寄ってみることに。
 お通夜をちょこっとのぞいただけで、自分の葬式には参列しなかったから(もう一度〝私〟にお別れを言っておきたかったなあと、後になって後悔したけど)、死んで以来友達にはだれ一人会っていない。大会の結果も気になったし。美夏ちゃんのことも……。
 死んだ私の代理で出場しただろう彼女が、がんばってベストタイムを更新してくれたらいいな──と素直に思う。
 学校に着いたのは、ちょうどホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴ったときだった。部活のある子はそれぞれ午後練に向かい、帰宅部の子は家へ。制服姿が列をなして校門を通り抜けていく。
 さすがに猫の身で堂々と正門から入るわけにもいかないので、なるべく人気のない場所を選んで校庭への侵入を試みる。松の木が並んでいる裏門の近くは、猫だったら楽々潜りこめるポイントだ。
 別にだれにも見とがめられやしないだろうけど、ちょっぴりドキドキ。そのままプールサイド近くにある運動部の部室棟を目指し、足音を忍ばせて(といっても、猫なんだからわざわざ意識するまでもないけど)トコトコ歩いていく。
 さすがにあまり近づきすぎると、「わあ、猫がいる~!」「どこから入ってきたの、この子?」と注目を浴びかねない。どこか、みんなの姿を見たり声を聞くのに都合のいい場所はないかと、(こうべ)をめぐらす。
 あった。部室棟の屋根の上。
 私は少し傾斜のかかったトタン屋根に、えいやとばかり飛び乗った。
 われながら見事な跳躍力だよね~。でも、ほめてくれる人がいなくて残念……。
 陸上部の部室は、棟のいちばん端っこ、運動場に近いほうにある。
 ちょうどだれかが部室のドアを開けて出ていったところだった。
 あれは……三咲先輩だ。
 でも、変だ。スポーツバック片手にセーラー服姿の彼女は、まだ午後練が始まったばかりの時間だというのに、もう家路に着くところみたいに見える。
 三咲先輩は部室を振り返ってため息をついた。なんだかぼおっとしていて元気がない。先輩らしくない。
「あ、先輩! どうしたんですか?」
 一年の子だ。高木さんと金井さんと、ええっと、もう一人はちょっとど忘れ。
「やあ、お疲れさま。忘れ物とりにきたんだぁ。なぁんか気が抜けちゃってダメよね~。これから塾三つもハシゴなんだよぉ? 信じられるぅ?」
 後輩と二言三言言葉を交わした後、三咲先輩はもう一度部室を振り返ってから校門へ向かった。
 そうか……。三咲先輩は先生の薦めもあり私立の有名校を受けることになっていて、大会後はほとんど部活にも顔を出せないんだった。部長も二年生に引き継いでるし。
「元気ないよねぇ、先輩。やっぱり……」
 私と同じように先輩の背中を見送っていた一年生の低い話し声が聞こえる。
「しょうがないよ。七種目とも決勝残れなかったし……」
 えっ!?
 私は耳を疑った。あの三咲先輩が、決勝に出られなかったなんて。しかも、出場種目全部で。ありえないよ──。
「神山先輩があんなことになっちゃったんだもんね。橋本先輩もやめちゃったし」
 えっ? えっ!? 美夏ちゃんがやめた!?
 ダブルショック。
 考えてみれば当たり前の話だった。三咲先輩がレースで全力を出せなかったのは私のせい──。
 私の目からはとっても大人びて見えたけど、先輩だって一五歳の少女にすぎない。おまけに、だれよりもやさしい先輩のことだ。大会目前に、一緒に部活をやっていた後輩の子が事故死したりしたら、コンディションに響かないはずがなかった。うちの総合成績も、きっと全然パッとしなかっただろう。
 それもこれもみんな私のせいで。
 それに……美夏ちゃんがやめた、ですって!?
 私はてっきり代わりに出場してくれたものと早合点していた。なのに、大会に出るどころか、陸上部そのものをやめちゃったなんて……。
 それも、やっぱり私のせい!?
 私は屋根から飛び降りるや、グラウンドでランニングしている運動部員たちの間を突っ切るように、裏門へ引き返した。自分のほうを指差して叫ぶ生徒たちのことなど気にもとめず。
 美夏ちゃんに会いにいこう。そして、直接確かめよう。
 そこではたと立ち止まる。
 どうやって? 猫のままじゃ無理だよ……。
 でも、ともかく彼女に会いにいきたい。彼女の顔が見たい。
 美夏ちゃんの自宅は知っていたから、私は学校から途中まで二人で帰ることの多かった通学路を通り、今度は彼女の家へ向かった。
 美夏ちゃんち到着。でも、一階のリビングも、二階の彼女の部屋も、灯りは点いていない。彼女のお母さんは働いているし、彼女は一人っ子だから、家は留守ってことだ。
 まだ学校から帰ってないのかな?
 もう一度来た道を引き返す。
 曲がり角の公園のところまで戻ったとき、キーコ、キーコという何かのきしむ音が聞こえてきた。中へ入ってみる。
 いた。美夏ちゃんだ。
 両足をくぼんだ砂地の上に置いたまま、ゆっくりブランコを揺らして、ぼおっと前を見ている。
 三咲先輩よりもっと無表情な顔。低学年の小学生が何人か、ブランコの前にあるジャングルジムで遊んでいたけど、それも彼女の目には映ってないみたいだ。
 私はゆっくり美夏ちゃんに近づいていった。
 ブランコを囲む鉄柵のところまで来て、「ニャー」と声をかける。
 美夏ちゃんはまるで焦点が合わないみたいにぼんやりと私を見つめた。
 しばらくして口を開く。疲れたような笑みを浮かべて。
「なあに? 変な子。私、別に猫好きじゃないのよ?」
 私はもう少し彼女に近づいた。
〈なぜやめちゃったの?〉
 そう聞きたかった。
「ああ……でも、そういや栞からも、猫が好きだなんて一言も聞いたことなかったなあ……」
 空を見上げてから、再び私に視線を戻す。
「ねえ、知ってる? 私のお友達、だれだか知らないけどあなたみたいな猫を助けて、自分が車に轢かれて死んじゃったんだよ?」
 美夏ちゃんは別に私に話しかけているわけじゃなかった。鏡に向かって話しかけてるのと同じだった。
「バッカみたいだよね。しかも、大会前だっていうのにさ。栞の……バカ……」
 うつむいた彼女の顔がゆがみ、大粒の涙がほおを伝う。
 次の彼女の台詞に、私はまたしても大きなショックを受けた。
「……私の……せいだ……」
 ど、どうして私が死んだのが美夏ちゃんのせいになるのよ!? 全然違うよ、関係ないよ! 美夏ちゃんの言うとおりで、単に私がおバカだっただけなのに!
「私がいけないんだ……。栞とケンカしたから……悪いのは私のほうなのに……彼女の言ってたこと、当たり前なのに、つまんないことで駄々をこねて、わがままばかり言って……」
 違うよ、美夏ちゃんったら! なんでそうやって自分を責めようとするわけ!? だれも美夏ちゃんのせいだなんて、美夏ちゃんが悪いなんて思ってないのに!
 私は鳴きながら、膝を抱えてうずくまる彼女に身体をすり寄せようとした。
 けれど、美夏ちゃんは私の存在ごと無視し続けた。
 やがて彼女はパッと立ち上がると、軽く私を押しのけ、公園から出ていってしまった。

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