美夏ちゃんが無事に自宅へ帰るのを見届けてから、私はトボトボと寝床に戻っていった。最初の一夜以来すごしている、つぶれた個人商店の裏手。
美夏ちゃんが自分の殻に閉じこもってしまったように、私は段ボールの中でひっそりと身を丸めた。
なんてことなの!
私は猫に生まれ変わって、人間として生きてきた時間を、過去形のものとして扱おうとし始めていた。
でも、私の死はまだ終わっていなかった。ちっとも終わってなんかいやしなかったんだ。
三咲先輩が、美夏ちゃんが、いまでも私の死をずっと引きずっている。苦しみ続けている。
陸上部のみんな、クラスのみんなも、お父さんやお母さんや大だって、きっと……。
「どうしたの、栞?」
いつのまにかリューイが私のそばに来ていた。
私はリューイと反対のそっぽを向いた。美夏ちゃんが私に対してしたように、私も冷たく彼を無視しようとした。
「もう死にたい。死んじゃいたい……」
つい言葉が漏れる。
「早く死にたい……」
背中を向けているので、リューイの顔はいまは見えないけど、きっとかける言葉が見つからず困った顔をしているだろう。
だいぶ時間を置いてから、リューイは静かに言った。
「……きみがもし死にたいと、本気で考えているのなら、ぼくは止めはしない。止められない」
私は驚いて彼のほうを振り返った。
「えっ!? 猫って自殺するの?」
思わず質問しちゃったけど、私が驚いたのはそんなことじゃなくて、リューイが私に向かって「死にたければ死んでもいい」と発言したことだった。
ずっと私に親切にしてくれたリューイの口から、そんな言葉を聞くとは思わなかった。そんなふうに冷たく突き放されるなんて──と思うとショックだった。てっきり言葉を尽くしてなぐさめてくれると思ったのに……。
「〝自分を殺す〟ということは、猫はもちろんしないものだけど、生きる希望、生きる気力を失って、生きるのをあきらめてしまうことはある。そうした猫は、食物も水も摂らないで、時を置かず静かに死んでいく」
そうか……動物はみんな自分の死期を知るっていうけど、そういうことなのね……。
私は……その死期を迎えたってことなんだろうか? 確かに、私の元の身体は完全に死んじゃってはいるけど……。私の心は、はたして死期を悟ったといえるのかな?
リューイに死んでもいいなんて言われたら、なんだかむきになってしまった。自分が本当に死にたいのかどうか、よくわからなくなってきた。
本当は、「死なないで」「そんなこと言っちゃいけない」って言ってほしかっただけなのかもしれない。リューイはそこまでわかっていたのかもしれない。
「でも……その前に一つだけ心に留めておいてほしいことがある。まず、きみに謝らなくちゃいけない。ぼくはきみに一つうそをついていた。〝この子〟の心、この子の魂は……もう存在していない。彼女は死んだんだ。きみの身体と一緒に」
「えっ!?」
身体が強ばる。
「どういうこと?」
「この子はね、《カギ》を使ったんだ。きみを救うために」
私はかすれた声で聞き返した。
「《カギ》?」
「《カギ》っていうのは、奇跡を起こす力だ。《カギ》を持っているのは、猫とは限らない。犬でも、人でも、他の動物でも、持っている者はいる。けど、だれもが持っているわけじゃない。《カギ》の所有者が一体どれくらいの数いるのか、数百頭に一頭か、それとも、数万頭に一頭かはわからないけど。ただ、奇跡を起こすというのは、生易しい話ではない。とてつもなく大きな代償を伴う。使えるのは一回きり。そして、《カギ》を使った者は……奇跡を起こすのと引き換えに、自らの命を失うことになる」
「そんな……まさか……!?」
声をふるわせる私に、リューイはうなずいた。
「この子はたまたま《カギ》を持っていた。そして、きみを助けようとして、その《カギ》を使った。でも、若かったし、あまりにとっさのことだったから、うまく奇跡が発動しなかったんだろう。それで、きみの身体まで助けられなかったんだ」
私は、いまでは自分のものとなった、名も知らぬこの子の前足をじっと見つめながら、首を横に振った。
「どうして……どうしてそんなことができるの!? 私、この子のこと何も知らないんだよ!? たまたま道で出くわしただけで、この子の飼い主でも友達でも、何でもないんだよ!?」
リューイはじっと私を見つめた。
「それは……きみと同じだったのさ。出会ったばかりのこの子を助けようとして、無我夢中で飛び出したきみと、ね……」
私の目から、涙がボロボロとこぼれでた。
あ、あれ? おかしいな……私、自分が死んだときでも泣くことができなかったのに……。
「なあんだ、猫ってやっぱり泣けるんじゃん。涙出るんじゃん。アハハ」
私はとめどなくあふれてくる涙をごまかすように、笑いながら言った。
「そりゃ、もちろんさ。涙腺は哺乳類の間では割とポピュラーな器官だよ。海の中に住むクジラやイルカにはないし、ウサギなんかも発達してないけど、ぼくたちや犬はちゃんと持っている」
「でも、私、猫になってからずっと泣けなくてさ、イライラしてたんだよ? 自分が死んじゃったっていうのに、涙一つ出てこないのが、すっごい悔しくてさ」
「もともと目を保護するためのものだからね。滅多なことで流したらもったいない。だから、本当に悲しいときに泣くもんなのさ。きみが死んだときには、きっと戸惑いやいらだちや、あまりに多くのいろんな感情が渦巻いていたから、純粋な悲しみの気持ちは覆い隠されてしまったんだろうね……」
そっか……。
でも、いま私は泣いている。
この子が私のために命を投げ捨ててしまったことが無性に悲しい。名も知らぬ猫一匹が死んだほうが、私自身が死んだことよりよっぽど切ない。
それでいいんだ、と思う。涙っていうのは、悲しみを和らげてくれるもの。胸の痛みを取り除いてくれるもの。目が乾くのだけじゃなくて、心の渇きも癒してくれるもの。
リューイの言うとおり、本当の涙はとっておきの悲しみのために、大事にしまっておくものなんだよね……。
「繰り返しになるけど、ぼくはきみが死ぬつもりでいるのなら、止めはしない。きみの命はきみのものなんだから、どうするかはきみ自身が決めることだ。けど、きみの命はきみのものであると同時に、彼女から預かったものでもある。もう一度、自分の気持ちをよく確かめてごらん? それからでも遅くはないだろ?」
「ううん……」
え? と聞き返す彼に、私はにっこりと微笑んだ。
「もう、死にたいなんて言わない」
ホッとした表情がリューイの顔に広がる。やっぱり心配してくれてたみたい。
「よかった……。きみが死んだりすると、一緒にハードルをして遊んだり、アインステインをからかいにいく友達がいなくなって、ぼくも困っちゃうからね」
それから、私はリューイに、美夏ちゃんのことを打ち明けた。
彼女が私にとってどれだけ大切な友達だったか。その彼女とケンカをしたこと。いま、それがもとで彼女が苦しんでいること……。
「なるほど、そうか……。そいつはうまくなかったかもねぇ……」
「私が悪いって言ってる?」
反省したつもりだったのに、自分は悪くないという反感の気持ちが頭をもたげてくる。自分でいうのもなんだけど、私って結構へそ曲がりなんだなあ。
「道理を説くのが常に正しいとは限らないからね。とくに相手が友達の場合には」
「そんなこと言うけど、リューイはいっつも私に道理を説いてるじゃん」
「そりゃ、栞がとても物分りのいい子だからさ」
「そんなふうにおだてたって、何も出ませんよーだ!」
私がべーと舌を出すと、リューイは笑った。
「……ちょっと背中の毛づくろいをお願いできるかな?」
そう言って、彼は差し出すように私に背中を向けた。
言われるままに、私は丹念に彼の毛皮をなめてあげた。
野良といっても、常日頃手入れの行き届いた彼の毛皮は、ツヤツヤとして申し分なく清潔だ。
にもかかわらず、彼の毛づくろいを私が快く引き受けたのは、それが単に毛並みを整えるだけの習慣ではなく、猫にとって重要なコミュニケーションの手段なのだということを、もう十分に知っていたから。
コミュニケーションといえば、人間にもピンからキリまである。国や民族によって、お辞儀や握手だけのところもあれば、初対面の相手に抱きついたり、キスまでしちゃうところもある。
それに比べたら、毛づくろいのほうがまだ抵抗はない。人間同士が裸でなめ合ったりしたら、ヤラシイというか、そんな図だれも見たかないよって感じだけど、猫同士だと恥ずかしい気持ちは全然起こらないんだよね。どうせ毛皮着てるしさ。
「どんな感じ?」
気持ちよさそうに目を細めながら、リューイが私に尋ねる。
「え?」
作業を続けながら私は聞き返した。
「気持ちいい?」
それって私の台詞じゃん──そうツッコミかけて、私はハッとなった。
不思議だった。こんな感じ、人間だったころは経験したことがない。
猫になって以来、リューイや、たまには恩返しの意味もこめて食事の世話になっているマリさんとかにも、毛づくろいをしてあげてきた。みんなと同じように、当たり前のこととして、ごく自然にやってたことだから、考えてもみなかった。
「気持ちいい……」
「そう?」
リューイが私の耳の付根からうなじにかけてなめ返してくる。ああ、やっぱりなめてもらうのも気持ちいいや……。
小さいころ、お母さんにブラシをかけてもらったときのことを思い出す。そうすると、舌がますますせっせと仕事に励んでしまう。
毛づくろいははっきり言って舌が疲れる。口の中が毛だらけになる。飲みこんじゃうと気持ち悪いから、ときどきペッペッと吐き出さなきゃ、とてもじゃないけど続けらんない。
自分で自分の身づくろいをするのは、そりゃしょうがないよ? でも、他猫にしたって何の得にもなりゃしない。
なのに、なぜだろう? どう考えても不思議だ。セルフサービスの毛づくろいより、他猫にしてあげるほうがもっと気持ちいいなんて……。
「ありがとう、栞。とても気持ちよかった」
「うん……私も……。それに、リューイが言わんとしたことも大体わかった……」
「さすが栞だな。いたずらに人間を長くやってたわけじゃない」
「もう……」
リューイのほっぺたに軽く猫パンチをくらわす。もちろん、爪は出さずに。
「生きものはだれでも、どれほど孤独を愛している動物だって、やっぱり一頭では生きていけないものだからね。つながりを持つことは、生物の定義とさえいっていい。どうしたら友達になれるだろう? どうすれば振り向いてもらえるだろう? どうやったらわかってもらえるだろう……? ぼくたち一頭一頭がそうやって心を粉にするのと同じように、きっと自然そのものが一つの結論にたどり着いたんだと思うよ。それは、相手の気持ちを知ること──。
「自分のことをわかってもらうためには、自分によくしてもらうためには、まず相手が何を望んでいるか、相手がどんな気持ちでいるのか、それを自分がわからなくっちゃいけない。自分の気持ちを伝えたければ、まず相手の気持ちを汲み取ってあげなきゃいけない。相手の喜び、相手の痛み、相手の悩み、それを共有することから、すべてが始まる。毛づくろいは、その第一歩さ。きみが気持ちいいと感じたのは、ほかでもない、ぼくがきみに毛づくろいをしてもらって、気持ちがよかったからだよ。自分のしたことが相手を喜ばせる。そのことが、きみ自身を気持ちよく感じさせていたんだ。ぼくたちはもうそのことを、ほんの小さな仔猫のうちから知っている。毛づくろいを通じてね。
「毛づくろいっていうのは、相手を選ぶ。場所を選ぶ。その場の空気を読んで、いまの自分の気持ち、相手の気持ちに照らして、さりげなく行うものだ。ああ、あの子はなんとなく毛づくろいしてほしそうだな……って思うとき。相手に元気がなさそうなとき。身体が、あるいは心が弱っているように見えるとき。元気を出してほしいという気持ちをこめてする。あるいは、自分の気分が高揚してるとき。テンションがハイになってるとき。自分の元気を相手にも分けてあげたい……そう思いながら、ね。
「そして、相手の緊張をほぐす効果が、そっくり自分に跳ね返ってくる。元気になってほしいという気持ちが、自分にまで元気を与えてくれる。そういうものなのさ、毛づくろいっていうのは」
「ううん……奥が深い!」
私は思わずうなってしまう。
リューイの話を聞いて、いいなあ、私も猫に生まれてくればよかったなあ……なんて思っちゃった。宿題をしなくていいとか、テストがないとか、そんな浅薄な動機に比べれば、ずっと正当な理由だよね。あ……私いま、猫だったんだっけ。
せめて人間も、自前の毛皮を持ってるべきだったと思う。防寒用というだけじゃなくて。
私が美夏ちゃんだったら──。
私、自分ではシミュレーションしたつもりでいたけれど、本当はそうじゃなかった。自分を正当化するため。自分の気持ちを相手に押し付けるため。自分が正しいって確認するため。そのために、彼女の気持ちをちょっぴりかじったつもりになってただけだったんだ……。
美夏ちゃん、どんなに悔しかっただろう。悲しかっただろう。みじめだっただろう。一所懸命がんばって、記録の上でも自分が勝っていたはずなのに。仕方がなかったんだってことも、だれも悪くないってことも、わかってる。
それなのに、私は追い討ちをかけるように彼女を責めた。つかんでいた手を離された気がしただろう。自分はひとりぼっちだっていう気になっただろう。「栞だけは私の気持ちをわかってくれると思ってたのに」って。
そう、少なくとも私だけは、彼女の気持ちを分かち合ってあげなきゃいけなかったのに……。
そして、私は死んだ。
美夏ちゃんは私とケンカしたことで、ずっと自分を責め続けてるんだ。私の死を自分のせいだとまで思いこんで、自分を追い詰めたんだ。部活をやめちゃったのも当然だろう。
彼女は本当に心のやさしい人だから。
また涙があふれ出てきた。この涙は、美夏ちゃんのための涙だ。彼女に対して申し訳なかったという気持ちでいっぱいになって、こぼれた涙。
ちゃんと泣ける。よかった……。
どうしたらいいんだろう。私、死んじゃった。美夏ちゃんを傷つけたまま。
なんとかしたい、彼女をこのままほっとけない──。
そのとき、一つのアイディアがひらめいた。
ケータイ。
私のケータイを入手することができれば、この身体でも彼女と交信することが可能かもしれない。猫の手だって、ケータイのボタン操作くらいならできそうだ。
そう、いまこそ猫の手を借りるときだ。
私のケータイは、遺品ってことで、私の部屋のどこかにしまってあるに違いない。葬儀や何やでバタバタしてまだ解約もしてないだろう。
ケータイを手に入れて、美夏ちゃんに謝ろう。天国からってことにでもすればいい。彼女もきっとわかってくれるはず。
「リューイ。一つ、大事な相談があるんだけど……」
私は真顔になって彼に持ちかけた。