いよいよケータイゲット作戦決行の日。
私はいつもより早く起きだして、バックアップを頼んだリューイとともに自宅へ向かった。
どうやって元わが家に忍びこむかというのは、思いのほか難題だった。
最近は何丁目のどこそこの家に泥棒が入ったとか、いろいろ物騒な事件が近所で話題になってたし、年ごろの娘(私のことだよ!)がいたこともあり、うちの防犯対策はそれなりに抜かりないほうだ。玄関や一階の窓を開けっ放しにすることはまずない。
可能性があるとすれば二階。お母さんが洗濯機のある洗面所と物干しのある二階のベランダを行き来している間に、そのベランダから侵入する以外、手はなさそうだ。
家に到着して早々、私たちはとてもいやなものを目にした。
水のたっぷり入ったペットボトルが、庭のいたるところに並べてあったんだ……。
お通夜のときに、私たち二匹が庭に入りこんでいたからかもしれない。あるいは、だれかが目撃したのか、私が猫を助けてトラックにはねられたことを、お母さんたちが耳にしたのかもしれない。美夏ちゃんも知ってたし。
実際の話、猫がペットボトルを嫌うなんてでまかせもいいところで、本来なら気にもとめやしないんだけど、私の元家族が猫嫌いになってしまったことを象徴しているようで、胸が痛んだ。
お母さんはいつも日課として、私たちが登校してから、大体三回くらいに分けて、掃除と並行しつつ洗濯を行う。チャンスがあるのはその約二時間。
ベランダに面した大きな窓のサッシは重かったけど、猫の力でもなんとか開けられそうに思えた──鍵さえかかっていなければ。
侵入経路を確保するのも一苦労だった。うちの家は、壁も屋根も猫が直接飛び上がれる具合にはできていない。いったん隣の家の敷地に入り、塀から木へ、木から一階の屋根へ、そしてその屋根からうちの屋根へ飛び移る、というルート以外になさそうだ。
室内に入るのはもちろん私だけ。リューイには、少し離れて動静を見張ってもらい、何かあったら合図を送ってもらうという寸法だ。
屋根から屋根へ飛び移るのは、猫の身にとってもかなり勇気が要る。一応走り幅跳びの練習はしてたけど、地面まで三メートル近くあったわけじゃないし……。
でも、グズグズしてはいられない。ままよっとばかりハイジャンプ。全身をピンと伸ばし、目を逸らさずに着地点をしっかり見すえる。
前足が屋根の端っこをつかむ。やった、成功!
でも、まだ作戦は始まったばかりだ。
庭のすみに目をやると、リューイがじっとこちらを見ていた。尻尾を一振りして、大丈夫、とサインを送る。
ベランダに近い屋根の樋のところへ移動し、そっと様子をうかがう。しばらくして、脱水機のモーターが止まる音。続いて、だれかが階段を昇ってくる音が聞こえてくる。
サッシが開いて、お母さんが現れた。
シャツをハンガーにかけているお母さんをじっと観察する。
少しやつれたかな? ううん、光の加減でそう見えるだけよ、きっと……。
そう自分に言い聞かせる。実際、思った以上に元気そうに見える。死んだはずの娘が猫の姿になって、すぐ足もとで見上げてるなんて、夢にも思わないだろうな……。
少しぼんやりしてしまった。いけない、いけない、神経を集中しないと。お母さんが引っこんだら、すぐに忍びこめるよう体勢を整えとかなきゃ。
上着を干し終わったお母さんは、一階に下りていった。
いまだ!
屋根から欄干の上に飛び乗って、ベランダにヒラリと着地する。幸い、サッシの窓も開いたままだ。今日は天気がいいから、部屋の空気を入れ替えるつもりなんだろう。しめしめだ。
抜き足差し足でそおっと入口に近づき、部屋の中をのぞく。三角の耳をピンと立てて、お母さんが居間でテレビを見ながら掃除機をかけているのを確認。ここまでは手はずどおり。
物干しのある大きなベランダは、お父さんとお母さんの寝室につながっている。私の部屋と大の部屋はそれぞれ両隣だ。
部屋を通り抜けて二階の廊下へ。右側が階段と大の部屋、そして左が私の部屋だ。二回目の洗濯物を干しに来る前に、さっさと片付けなくちゃ。
ドアには〝SHIORI'S ROOM〟、〝ノックなしで立ち入るべからず〟と書かれた木製のプレート。
ここで、サッシさん(猫の名前のほう)に伝授してもらったドア開け術の出番だ。
ドアの開け方なんてもちろん知ってるけど、猫の体型でそれをやるのは楽じゃない。サッシさんはスラリと背の高い(ていうか長い)長身タイプなので、いとも簡単にヒョイと開けてしまうけど、私は小柄なだけに、後肢で爪先立ちして、思いっきり背伸びして前足がやっと届くくらいだ。しかも、体重がかけられないし、腕の力も人間時代とは比べ物にならないので、結構苦しい。うちの部屋のドアノブが丸型でなかったのがまだしもの救いだ。
ガチャッ。
なるべく音を立てないようにと思ってたのに、さすがにそれは無理だった。
しまった! とその場で固まり、耳をそばだててじっと気配をうかがう。
お母さんが気づいた様子はない。掃除機の音にまぎれて聞こえなかったんだろう。ホッと一息。
ここが、私の部屋──。
急がなきゃいけないのはわかってたけど、やっぱり胸がいっぱいになって、その場で立ち止まってしまう。
私が使っていたときのまま──ではなかった。床の上にも、机の上にも、いろんなものが積み重なるように置かれている。
衣裳ケース、紐で縛った古い教科書、友達に比べて多いとはいえないコミック、CDのアルバム、小学生時代に集めていまでは見向きもしなくなったアクセサリー類……。
遺品として整理している途中なんだろう。つい手にとってしげしげとながめてしまい、なかなか整理が進まないお母さんの姿が思い浮かぶ。親にはあんまり見せたくないものもあるんだけどなあ……。
またぼおっとしちゃった。早く目的のものを探し出さないと。
それはすぐに見つかった。
机の上に立てかけてある私の遺影。お通夜のときにも見た、ちょっと恥ずかしいくらい大口を開けて笑っている写真。その手前に、お供えのお花と一緒に置いてあった。私のケータイ──。
よし。後はこれをいったん外に持ち出して、美夏ちゃんにメールしてから、またそっと元に戻しておけばいい。人間への未練も、これで完全に断ち切れる。
机の上にピョンと飛び乗り、チイちゃんにもらったストラップ(頭からアンテナを生やした得体の知れない生きものだ……なんかのイベントのマスコットらしいけど)を口の端にくわえたそのときだった。
「猫が入ってる!!」
目を丸くして戸口に立っていたのは大だった。
パジャマ姿だ。ひょっとして、風邪でもひいて学校休んでたのか!?
部屋で寝ていて、さっきドアを開ける音が聞こえてしまったんだろう。私もケータイを探すことに気が急いて、彼の足音を聞き逃してしまった。これは想定外の事態だ。
大と目が合う。
少し熱があるのか、顔が赤いみたいだ。大も私同様、健康優良児のはずなのに……。
もしかすると、私の葬式や何やかやあったせいで体調を崩したのかもしれない。
などと観察していたら、大の顔が不意にゆがんだ。いままで見たことのない表情だ。
「こんにゃろめ!! 姉ちゃんの部屋で何やってんだ!!」
彼はいきなり手近にあった本を投げつけた。前足を引っこめてよける。危うくぶつかるところだった。
「姉ちゃんを返せ!!」
……お前がそんなに姉想いだったとは思わなかったよ。それとも、姉不幸してきたことを後悔してんのか?
厄介な年上の姉貴がいなくなって、わが世の春を謳歌してるに違いない、なんて軽く考えてた。お前はきっと大丈夫だろうと……。
「猫だなんて、一体どこから入ってくるの!?」
お母さんも階段を上がってきた。絶体絶命のピンチだ。
私は大が振り向いた隙をついて、彼の足もとを猛然と駆け抜けた。そのまま脇目も振らずに中央の両親の部屋へ。
部屋に突入したところで、びっくりして立ち止まる。
「リューイ! なんで来たの!?」
「ごめん、トラブルが起こったと思って……栞、後ろっ!!」
私はハッとして振り返った。殺気を立ちのぼらせたお母さんが、掃除機のノズルをいまにも私の背中に振り下ろそうとしていた。
間一髪で飛びのき、そのままリューイとともにベランダからとっぴらかして脱走する。
大はベランダの欄干越しに身を乗り出して、こっちをにらみつけていたけど、お母さんはそれ以上追ってこなかった。
最後にチラッと見えたのは、彼女がその場にヘタリとしゃがみこむ姿だった。もともと、小動物に暴力をふるえるようなタイプじゃない。
かくして、ケータイ奪取作戦は失敗に終わった──。