ねぐらに帰った私は、ただひたすら泣き続けた。涙が後から後からあふれてきて、いつまでたっても止まらない。
リューイはずっと私のそばに寄り添って、ときどきそっと毛づくろいしてくれたけど、それもいまの私には慰みにならなかった。
死にたいという言葉を口にするつもりはもうなかったけれど、このまま生き続けることも辛かった。
私の家族は、とくに動物が嫌いなわけでも好きなわけでもなかった。でも、今日の二人からは、猫嫌いのオーラがはっきりと放射されていた。
お母さんたちの猫全般に対する嫌悪感や憎しみが、この先ずっと続くとは思わない。けど、たぶん、悲しみだけはいつまでも残るだろう。
猫を見るたびに、私のことを思い出して……。
お母さんも、大も、三咲先輩も、美夏ちゃんも、みんなみんな、苦しんでいる。
私は自分の死というものをなめていた。
人間としての私が死に、気持ちを切り換えて猫として生きようと、前向きに考えたつもりだった。けど、それは甘すぎた。
人の死とは、死んで「ハイ、サヨナラ」ですむものじゃなかったんだ。たとえ本人にとってはそうだとしても。
幽霊になるにしろ、天国だか地獄だかに行くにしろ、骨以外に何も残さず消えちゃうにしろ、あるいは猫なり何なりに生まれ変わるにしろ、人が死ねば、もう生きている人たちと関わりを持つことは一切できない。励ますことも、慰めることも、お礼を言うことも、謝ることも、償うことも、何一つできない。過去の人間になって、未来からは永久に切り離され、置き去りにされる。
そして、死んだ人間の周りにいた人──生きてそのまま未来に向かって人生を歩み続ける人にとって、親しい人の死は、その人が死んだ時点で終わらない。いつまでも続く。悲しみが。痛みが。
生きている間に、もっと思い出を作っておけばよかった、好きなことをさせてあげればよかった、謝ればよかった、赦してあげればよかった、本当の気持ちを聞いておけばよかった、そうやって悔やんで、悔やんで、悔やみぬいて、だけど、もう二度とそれが果たせないことを知ったとき、大きな喪失感、絶望感に襲われる。
死とは、生とは、それほど取り返しのつかないものなんだ。気の遠くなるほど大きいものなんだ。
そう思い知った。
次の日の朝、リューイは何も言わずに一匹で出ていった。
私は食事もとらずにじっと箱の中でうずくまっていた。
丸一日過ぎてから、リューイはいつのまにか戻ってきた。私が泣き疲れて眠っている間に。
彼は私の寝顔をじっと見つめていた。
目の覚めた私は、頭を振りながら、力のない声で言った。
「リューイ……もう私のことなんか見捨ててどこかへ行っちゃったのかと思ったよ……」
彼はやさしく微笑んで首を振った。
「栞……ぼくならきみの力になれる。きみを助けてあげられる」
私は彼から目を逸らして唇を噛んだ(正確には噛もうとした。唇ないから……)。
「また、そんなできもしないこと言わないでよ。そんなこと言われたって、私はうれしくない……」
「いや、できるとも。実は……いままでだまっていたけど、ぼくも《カギ》を持ってるんだ。〝その子〟と同じく、ね。きみを人間に戻してあげる」
私はガバッと跳ね起きて、マジマジとリューイを見つめた。
彼の言ってることの意味を理解できるまでしばらくかかった。一瞬訪れた喜びはたちまち消え去り、大きな恐怖に襲われる。
「ダメだよ、リューイ! 《カギ》を使って奇跡を起こすつもりなの!? でも……でも、そんなことしたら、あなた死んじゃうんでしょ!?」
「うん。だから昨日、友達やなじみの場所を訪れて、お別れをしてきたんだよ。一日一匹きりにしちゃってごめんね」
「ダメダメダメダメ!! ダメったらダメ!! そんな、リューイの命と引き換えの奇跡なんて要らないっ!! 絶対ダメなんだから!!」
しがみつくように彼に懇願する。
だけど、リューイは頑なに、けれども穏やかに、首を振った。
「大ちゃんだっけ? きみのことをあんなに慕ってくれている。いい弟君だ。彼のことを見ていて、ぼくはリムのことを思い出したよ。きみに対して感じたように。実はね、リムも《カギ》を持っていたんだ」
「え、そうなの? でも、彼は……」
「彼も《カギ》を使ったんだ。けど、とても特殊な使い方をした。彼は、自分の命と引き換えに、自らの寿命を引き延ばしたんだ……ぼくのために」
「え? ど、どういうことなの? よくわかんないよ、意味が」
「彼は虚弱体質だったって言ったけど、本当だったらおとなになるまで育つことさえ不可能だったんだ。でも、逆説的に聞こえるかもしれないけど、彼は自分の命を削って、寿命を超えて生き続けることを選んだ。ぼくや〝奥さん〟とすごす時間を一秒でも延ばすために。ぼくが一匹で寂しい思いをしないように。そのために、彼は死神の振るう鎌を幾度も撥ね退けて、苦しいだけの生をひたすら耐えて生き続けたんだ。彼が目に見えるほど衰えを見せ始め、〝奥さん〟が獣医に連れて行ったとき、腎臓と肝臓の値は限界をとっくに超えていた。先生には生きていること自体奇跡だと言われたよ。そう……文字どおり奇跡だったんだ。死を迎える前の数日間、彼は水も食物も一切受けつけず、襲い来る苦しみのせいで一睡もすることなく、あえぎ続けるばかりだった。その間に彼のしたことは、ただぼくと〝奥さん〟をじっと見つめることだけだったんだ。死の直前、彼は最後の力を振り絞って、ぼくの毛づくろいをしてくれた……」
またしても涙があふれてきた。なんだか猫になってからのほうが涙もろくなったみたい、私。涙っていうのは貴重なもんだって教わったのに。大事なときに流すもんだって。
でも、いいよね。私はリューイとリムのために、この二匹の兄弟のために、貴重な涙を流したいんだ……。
「だからリューイは、〝奥さん〟にさよならを告げて、フルフルや他のオスみたいにメスとつきあうこともせず、一匹で生きることにしたんだね。そうせずにはいられなかったんだね……」
リューイがうなずく。
「うん。リムとぼくは一つの魂を分け合った真の兄弟だ。ぼくが生きている限り、彼の魂の半分も生き続ける。それと同時に、ぼくの魂も、彼の死とともにこの世を去った。ぼくはもう半分生きてないんだ……。ぼくは、リムのためにこそ、今日まで生きながらえてきた。けれど、だれかに……リムと同じくらい大切なだれかに、ぼくの生を譲って、彼のところへ逝ければと、そのことばかりを切に願ってもきた。いま、そのときが訪れたのだと、ぼくの心ははっきりと感じている。栞……」
リューイは真剣な目で私を見つめた。
「ぼくは……ぼくは、きみを愛してる。リムと同じくらいに。だから、きみを苦しみから解き放つために、《カギ》を使うよ」
私は一四歳だ。猫としては十分おとななんだろうけど、どのみちこの身体では恋を成就させることもかなわない。それなのに、私の心臓は彼の言葉にどくんと高鳴った。
「いやだよ……私を愛してるって言うなら、《カギ》を使っちゃダメ」
「きみのお母さんや弟、友達を悲しませることを、きみは望んでいない。きみはそもそも人間だったのだから、やっぱり戻るべきだよ、みんなのところへ。こうは考えられないか? きみと出会ってからの時間は、振り返ればあっという間だったけど、とても楽しかった。ぼくにとっては、リムとすごした日々に勝るとも劣らない、最高に充実したひとときだった。永遠に等しい重みを持っていた。それは、ぼくときみとの絆が永遠のものだということ。永遠っていう意味、わかる?」
私はしゃくりあげながら、首を横に振った。
「時の流れを超えて、そこにあるということ。だれにも壊すことの、消すことのできないもの。指一本触れることさえできやしない。ぼくたちの絆は、ぼくたちがこうして出会う前から、そして、ぼくたちがこの世を去った後にも、決して失われることなく、そこにあり続ける。永遠不滅のものなんだよ。わかる?」
「うん……」
今度は私は首を縦に振った。
「ぼくがこの世を去っても悲しむな、とは言わない。リムに先立たれたとき、ぼくはとても悲しかった。きみがぼくのために涙を流してくれるなら、ぼくもうれしい。けれど、きみには家族がいる。友達がいる。未来がある。その未来の中で、きっとだれかとの出会いが待っているだろう。そのだれかの中には、きみとぼくのように、ぼくとリムのように、かけがえのない絆で結ばれる相手もいるに違いない。そのだれかのために、お帰り。そして、前を見て生きるんだ。走り続けるんだ。きみの好きなハードルのように、ね」
「でも、リューイ……私、あなた以上に愛せる人なんていないよ。いやしない」
「ありがとう、栞……。でも、大丈夫。ぼくたちの絆は決して失われることはないから。永遠のものだから。いつまでもあり続ける。ここに」
そう言ってリューイは、私のふさふさの毛に覆われた胸にそっと触れた。
彼の決意は揺るぎもしない。私には彼を押しとどめることができない。彼が私のために自らの命を捨てようとしているというのに。命というものが、一度失われれば取り返しのつかないものなのだと、そのことを思い知ったばかりだというのに。彼にそう教わったばかりだというのに。ただ彼によりすがって泣き続けることしかできない。
リューイは私のためにすべてを投げ出そうとしているのに、私は彼のために何もすることができない。
いいえ、一つある。彼が私のためにしてくれようとしていることに比べれば、どうしようもなくちっぽけでくだらないことだけど。
彼を愛していることを伝えたい。
「ねえ、キスって知ってる? 人間の場合はこれなんだけど、あなたたちの間で、いちばん深い愛情を示したいときには、どういうふうにやるの?」
「鼻先でキスをするのは、ぼくたちの場合、どちらかというとやや軽いあいさつに相当するね。もっと深い、お母さんとこどもや、兄弟や、恋猫同士の間で親愛の気持ちを表したいときは、こうする」
彼は顔を近づけて目を閉じると、自分の額を私の額にコツンと当てた。
「おでことおでこでゴッツンコ。これも毛づくろいと同じだね。自分のうれしい気持ち、自分の喜びを相手に分けてあげたい、一緒に分かち合いたいというときに交わすんだ。ぼくとリムは毎日のようにしてたよ」
バカげた話だけど、私はリムに嫉妬した。そして、自分もリムのように彼に愛されたいと思った。
「……もう一度して……」
私たちは軽く押し付けるように、額と額とを触れ合わせた。温かい。目を閉じると、彼の温かい心が私の中に流れこんでくるのを感じる。心と心とが、剥き出しのままじかに触れ合っているみたい。
ゴロゴロゴロ……。
私の咽喉が鳴りだす。彼の咽喉も。耳に心地よい調べは、完璧なハーモニーを織り成す二重唱となって、額を擦り合わせるごとにますます高まっていく。
ゴロゴロゴロ……。
どうしよう。ゴロゴロが止まんない。
ゴロゴロゴロ……。
まぶたの裏には、まぶしい光に包まれた金色のお花畑が広がる。時間にしたらほんのわずかのことだったに違いない。その永遠に等しい一瞬の中で、私とリューイは二匹きりで、〝ハードル〟にいそしんだり、じゃれ合ったり、背中をくっ付け合わせてお昼寝したり、ただ真っ白な幸福を噛みしめた。
ゴロゴロゴロ……。
このまま彼と一つに溶け合って、時間が止まってしまえばいいのに。このひとときが永遠に続けばいいのに・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
* * * * * *
目を覚ますと、私は病室で横になっていた。
ぼんやりした頭で腕をあげると、ピンク色の丸い爪を生やした毛のない長い指が見えた。
咽喉も鳴らない。鳴らせない。
ああ……。もうリューイに会えないんだ……。
頬を伝った涙が、猫だったときとまったく変わらないものだったことが、私はうれしかった。
時計はあの日にまで巻き戻っていた。
事故に巻きこまれたのは三人(一人と二匹)。私は足の骨にひびが入っただけですんだ。猫の一匹もかすり傷程度ですんで、いまは私同様動物病院に入院中。そして、〝あのとき〟は現場にいなかったはずのオスの黒猫は、全身を強く打って帰らぬ猫となっていた──。
だれも知らないし、信じてもくれないだろうけど、私たち二人/匹が助かったのは、リューイが自分の《カギ》を使って、命と引き換えに起こした奇跡のおかげだ。
お母さんには、バカなまねをして! と大目玉を食らった。けど、私が実家も不明な生き残った猫を引き取ることを主張し、頑として譲らないと、ため息をつきながらもオーケーしてくれた。
大のやつは、私が入院中は好きなテレビ番組を見放題だとばかり、ニヤニヤ顔を浮かべていた。まったく、小憎らしいったらありゃしない。
入院した翌日、三咲先輩や寺村先輩をはじめ、部員のみんながお見舞いに駆けつけてくれた。
「しおりん、トラックで競走するならいいけど、トラックと競っちゃダメだよ~」
いつものおっとりした口調で三咲先輩がボケる。
そんな冗談を先輩が言えるくらい、私のケガが軽くすんでよかったと思う。これなら、先輩もきっと大会でベストを尽くしてくれそうだ。
病室を出る間際、みんなには、早く治して顔出さないと、満場一致で次の部長を私に押し付けるぞ~と脅された。速攻で治します……。
美夏ちゃんの姿が見えなかったので(隆司先輩もいなかったけど、別にいいや)、気がかりだったけど、みんなが帰った後から一人でお花を持ってやってきた。心底心配そうな表情を浮かべて。
ケンカのことは二人とも一言もしゃべらなかった。彼女は私の分まで大会でがんばると言ってくれた。私はうなずいて、心からの笑顔を贈った。来年こそ一緒に走ろうね! そう二人で誓い合った。今度はしっかりと指切りもして。
よかった……何もかも元通り。大会前にケガが治ったとしても、私は出るつもりなかったんだけど、とにかくよかった。
美夏ちゃんに、私が猫になっちゃった話をしたら、彼女は私の額に手を当てるなりこう言った。
「ちょっと栞、大丈夫ぅ? やっぱり頭打ったんじゃないの? 一度病院行って診てもらったら?」
あのぉ~、ここ病院なんですけど……。
まあ、信じてもらうほうが無理か──。
退院と同時に、猫を引き取った。見ず知らずの私のことを、命がけで救おうとしてくれたこの子の名前は、女の子ということもあり、リンと名付けた。
事故に遭うまで私とは初対面だったはずのリンは、わが家に来た当初は戸惑いを隠せずにいたけど、すぐに大の仲良しになった。なにせ一度は〝私〟だった子だ。こっちは彼女の気持ちが手にとるようにわかるし、どこをどうすれば気持ちいいか、ツボも心得ている。肩甲骨の後ろのところとかね。
猫心理学のエキスパートとなった私は、いつの間にやらクラスで猫魔人とか猫侍なんてあだ名を奉られるようになった……。
ちょっと、猫魔人はないでしょ!? チイちゃんもマリちゃんもひどいよ~。もっとマシなネーミング考えてほしい……。
リューイはいま、私の家の庭に建てたお墓で静かに眠っている。
私は毎日のように、リンと一緒にお花を添えながら、彼に向かって話しかける。
ううん、リューイはここにもいる。私の胸の中、心の中に。
あのときは悲しみで胸がいっぱいで、彼の言う〝永遠〟の意味がよく飲みこめなかった。
でも、いまはわかる。
彼とすごした時間、彼との思い出は、いつまでたっても色褪せることはない。たとえどれだけの月日が流れようとも。
本当の、最高の幸せなんてあるの? 永遠の愛なんてあるの? だれもがそう思う。
いまの自分に満足できず、どこかにそんな幸せが転がっていないかと、青い鳥がいやしないかと、探し求める。
そして結局、そんなものはどこにもありやしないのさ……とシニカルな笑みを浮かべ、自分を納得させてしまう。
でも、それは間違いなくある。
私にとってそれは、リューイとすごした日々。
私は知っている。私のこれからの人生で、リューイとの日々以上に価値のある時間などありはしないということを。
けど、それでもかまわない。あの真っ白な幸福のひとときを、私はいつでも、自由に、取り出すことができるから。
私と彼との愛は、永遠のものだから──。