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1 トウヤ




 ちくしょう、結莉のやつ……。
 プラットホームの真ん中で支柱に寄りかかりながら、線路の上をぼおっとながめる。
 駅前のレコード店のけばけばしい広告板も、その奥の潰れて間もないボーリング場の建物も、俺の目には映っていなかった。
 どこからかカラスが一羽舞い降りてきて、砂利石のすきまに光物でも落ちてないかと、次々に引っ繰り返してまわっている。そんな野鳥のコミカルな仕草も、俺の心を慰める役には立たない。
「あんたなんか大っ嫌いよっ!!」
 彼女が最後に言い放った言葉。リフレインが頭の中でグルグルと回りつづける。吐き気がしそうだ。
 そうかよ! こっちもだよ!
 本人に思いっきり言い返してやりたいのに、面と向かって投げつけてやりたいのに、その彼女──成瀬結莉は、いまここにはいない。
これ以上彼女を責められないことで、自分の中の一部がホッとしているのに気づき、なおさら腹が立つ。
 〝デート〟の誘いの電話がかかってきたのは、三日前の晩のことだ。
 結莉は帰国子女の身で、日本に帰ってきたのはやっとその前日だった。
 対面するのは実に三年ぶりだ。小学校時代からクラスのマドンナで通っていたし、いまでは背が伸びて雰囲気もだいぶ大人びたに違いない。ちょっぴりドキドキしながら再会を待ちわびていなかったと言えば、嘘になる。
 もちろん、結莉は電話口でデートなんて口にしなかったし、俺自身何を期待していたわけでもない。用件は察しがついていたし。
 結莉の一家が、外交官だった父親の海外赴任に合わせて転居したのは三年前、小学校を卒業した春休みのこと。行き先はカナダのバンクーバー島。
 本人は最後まで外国に移住するのを渋っていた。引越し先の事情で連れていけない家族と引き離されたくなかったから。
 その家族とは、ほかでもないジュディのことだ。
 結莉は一人で日本に残るとまで言い張った。だが、彼女の家は近しい親戚もおらず、小学校を卒業したばかりの一人娘を置いたまま海外へ行けるはずもない。
 結局、彼女の大切な家族は、親交のあった向かいの家の住人、すなわちわが霧志麻家に預けられることになった。
 うちには、元から住んでいる俺の家族、つまりミオがいた。
 実をいうと、ミオとジュディはお互い面識があった。それどころか、姉妹に近い間柄と言ってもいいほどだ。なぜって、二匹とも、一年前に里親を募集していたイヌネコの中から、俺と結莉が同時に引き取ったんだから。二匹が仔イヌ、仔ネコのころは、さんざん追いかけっこをしたり、プロレスごっこをしていたものだ。俺と結莉より全然仲がいい。
 だから、結莉のお母さんに「カナダにまで連れていけないから、ジュディを預かってほしい」と頼まれたときも、二つ返事で引き受けたわけ。
「私が帰ってくるまで、この子のことお願いね」
 涙で顔をグシャグシャにしながら、何度も何度も頭を下げる結莉の姿は、いまでもはっきりと瞼の裏に焼きついている。
 それが、昨日の泣き顔とオーバーラップして、俺の胸をしめつける。
 予定より少し早く結莉が日本に帰ってくるとの報せが届いたとき、俺は彼女にジュディを引き渡すつもりでいた。それが当然だと思っていた。
 ジュディと一緒に暮らした月日の長さでいけば、俺とミオのほうが上だ。結莉は一年、俺たちは三年。その間、雨の日も風の日も、台風の日も大雪の日も、高校受験の当日だって、ジュディの朝夕の散歩につきあったのは俺だ。結莉じゃない。
 寝るときだっていつも三人(一人+二匹)一緒だ。というのも、前からミオは俺の布団で寝ていたし、ジュディだけ仲間外れってわけにもいかなかったから、ね……。
 最初のころは、結莉に対する義理の感情が働いていたのも事実だ。けど、ともに生活した三年の月日は、ジュディが我が家の欠かせない一員となるのに十分な長さだった。ジュディと築いた思い出の質と量でいったら、結莉のやつが俺とミオにかなうはずはない。
 ある日、ジュディが庭で遊んでいて大きなハチに刺されたことがあったっけ。鼻が大きく腫れあがってショック症状を起こしかけ、あわててかかりつけの獣医──小学校時代、やはり俺や結莉と同級生だった阿倍野晴彰の実家の病院に駆け込んだとき、俺の頭には結莉の顔どころか名前すら思い浮かばなかった。ジュディの容態以外のことを考える余裕なんてなかったから。
 それでも……俺はやっぱりジュディの本当の飼い主じゃない。仮の親にすぎない。親戚のおじさんみたいなもんだ。
 イヌの習性はわかっているつもりだった。どれほど俺たちに信頼を寄せてくれたとしても、仔イヌ時代に手塩にかけて育ててくれた最初の飼い主、〝本当の親〟にはかないっこないって。
 長い間遠くに引き離されていて、やっと再会できるっていうのに、水を差すまねをしちゃいけないよな──そういう半ばあきらめに近い心境でいた。なぁに、どうせ会おうと思えばいつだって会える距離なんだし……。
 ところが、そんな俺の心づかい、悟りの境地を開こうという殊勝な努力を、結莉のやつはコケにしやがった。
「レナードっていうんだけどね──」
 待ち合わせをした近くの公園で、結莉は挨拶もそこそこにさっそく用件を切りだした。覚悟していたジュディの引き取りの件とともに、俺にとっちゃまさに寝耳に水の話題、いま成田空港で検疫を受けている〝新しい家族〟について、彼女は嬉々とした様子で語った。
「ビクトリアの保護施設で出会った子でね。なんだろう……一目惚れってやつ? フフフ。イヌと人の間にも、やっぱりそういうのってあるんだよね。その子、引き取られた経緯もあるんだけど、施設の人を含めて私以外のだれにもなついてくれなくって、どこにも行き場がなくってさ。日本に帰ったら、簡単にカナダに会いに行くこともできないし。それで、私、一大決心したの。体はおっきいけど、まだ三歳だからジュディのほうがお姉さんのようなものだし、きっと仲良しになれるわ。だから──」
 あろうことか、レナードは狼犬だという。シベリアン・ハスキーなどの犬種とオオカミをかけ合わせたハイブリッド・ドッグだ。ただの大型犬とはわけが違う。日本では百頭かそこらしか飼われていないだろう。
 その手のイヌにとって、序列は絶対だ。飼い主には忠実な代わり、同じ群れの中ではどちらが優位かをめぐって激しく争い、ときには手ひどいケガを負わせることもある。ジュディはただの中型犬のミックスにすぎない。女の子ではあるけど、意外に負けん気は強いし、第一相手が手加減するという保証はない。
 何よりも、再びともに暮らす日をずっと待ちわびていた家族が、いつのまにか別のイヌを従え、自分より大切にしていたなんて知ったら、あの子がどれほど傷つくだろう。
「勝手なことを言うなっ!!」
 俺が怒りに身をふるわせて怒鳴ると、結莉は普段からパッチリした目をさらに大きく見開いてだまりこんだ。
「レナードだかポマードだか知らないが、おまえがそんなヤバイやつとジュディを一緒にするっていうんなら、あの子はもうおまえには渡さない。おまえは好きなだけそいつと暮らせばいい。ジュディは俺やミオと一緒に暮らす!」
 言い足りないことはやまほどあったが、ともかく言うべきことをビシッと言ってやったつもりだった。
 しばらくの間、結莉はキョトンとして俺の顔を見返すばかりだった。が、次第に表情が剣呑になっていく。
「あなたに……そんなこと言う権利ないでしょ」
 彼女は俺の顔を見ずに、地面に目を落としながら口を開いた。反撃の狼煙だ。
「ジュディをどうするか決めるのはよ! あなたじゃない。あの子の親はなんだから!」
「あの子の親はだ! この三年間、ジュディのそばにいて、散歩にもつきあったのはこのだ!!」
「あの子を育てたのはあんたじゃなくてよ、わ・た・し!! 散歩するだけならだれだってできるわよ!」
「なんだよ! おまえなんか、三年間も顔さえ見に来なかったくせに! いまごろノコノコやってきて、礼の一つも言わずに『ジュディを返せ』たあ、あつかましいにもほどがあるぞ!」
 俺が痛烈なアッパーを繰りだすと、結莉もジャブの連打で応じてきた。
「だって……それは仕方のないことでしょう!?  カナダから太平洋を泳いで渡って会いに来いとでもいうの!? それができないから、あんたんちに預けたんじゃないの! 私は責任を放棄するようなまねはしてません! この三年間、ジュディの顔を一度だって忘れたことないわ! 日本にだって、一生あの子と暮らすために帰ってきたんだから! だれになんて言われようと、もう二度と離れないわ! 何よ、礼を言ってほしかったから面倒みたっていうの? フン! あ~あ、こんなことになるんなら、あんたなんかに任せるんじゃなかった!!」
 あとはもう、売り言葉に買い言葉、グチャグチャの泥沼だった。お互い同時に口を開いて、唾と一緒に罵声を浴びせ合うばかり。俺としては精一杯善戦したつもりだったが、小さいころから才色兼備で通っていた結莉が相手じゃ、言葉の応酬だと分が悪かった。
 しまいには、彼女は「誘拐犯!」「警察に訴えてやる!」だのと言いだしやがった。すぐそばに人はいなかったが、ただの痴話ゲンカだろうと遠巻きにながめていた公園内の人たちも、次第にざわめき始める。
 そこで俺は会心のストレートを放った。
「だまれ、このブスッ!!」
 たぶん、生まれて初めて他人に言われた台詞だろう。ちょっと卑怯だったかもしれないと思ったが、後の祭りだった。
 結莉は二の句が継げず、俺をにらんだまま口をパクパクさせていたが、いきなり「わあああっ!!」と泣きだした。
 さすがに俺も気まずくなる。だが、どう声をかけたものかわからず、オロオロするばかりだった。
 そして、最後の捨て台詞。



 結莉はそのまま後ろも振り返らずに大股で歩き去った。
 あまりに悔しくて、悲しくて、情けなくて、俺は帰り道、人目も気にせず一人で泣いた。
 本当はわかっていた。ある意味で、結莉はどうしようもなく正しかった。
 決めるのは、俺でも、彼女でもない。ジュディ本人だ。そして、彼女がどちらを選ぶかは、もうわかりきったことだったから……。
 そして、迎えた今日。始まって日が浅い高校の新学期の授業も、上の空でちっとも身が入らず、俺は一日中ぼんやりとして過ごした。こうして下校して駅にやってくるまで、だれとどんな会話をしたかもろくに覚えていない。周りの人間からは、ただの五月病だと思われたろうけど。
 夕べのジュディはやたらテンションが高くて、途中でじゃれるのに飽きたミオがネコパンチで邪険に追い払ってからも、一匹ではしゃぎまわっているほどだった。スリッパを一足台無しにしたのは一年ぶりだ。
 ジュディが浮かれて騒ぐのも無理はない。結莉は帰国した当日、俺が不在の間に家を訪れ、挨拶がてら一足早く感動の再会を果たしていたのだから。
 結莉との再会の喜びを全身で表現しているジュディを見ていると、なおさら自分がみじめに思えてくる。彼女には何の罪もないけれど……。
 あまりにもぼんやりしていたものだから、急行電車はいつのまにかホームに入っていた。後ろに並んでいた女子校の生徒三人が、俺のほうをけげんそうに横目で見ながら電車に乗りこんでいく。
 目の前でドアが閉まり、発車の合図の笛が鳴る。自分も乗るはずだったのに気づいたのは、最後尾の列車がもうとっくにホームを走り去ってからだった。
 さっき線路に下りていたカラスが、少し離れた広告の看板の上に止まって、首をかしげてこっちを見ている。なんだか笑っているみたいだ。
 まあいっか。帰りの電車を一本乗り過ごしたからって、別に困りゃしない。取引先との契約がパーになったり、だれかが死ぬわけでもない。
 チラホラと新しい列ができはじめる。ホームに引かれた白線を守らず鉄柱によりかかっていた俺を無視して、すぐ斜め前にも人が並んだ。小学校低学年くらいの女の子と母親だ。
 こどもは何やらぐずっていて、母親がイライラしながらしつこくたしなめている。耳障りではあったが、二人の会話も右の耳から左の耳へと素通りしていった。
 不意に、女の子が籐製の大きな籠を持っていることに気づく。それはペット用のキャリーケージだった。プラスチックやアクリル製ではないので、中は暗くてよく見えないが、何かがうごめいているのがわかる。どうやら生後三、四ヵ月くらいの仔ネコのようだ。それまで周囲の出来事に関心を払わなかった俺の目が、まるでカメラのピントがいきなり合ったかのように、籠の中の仔ネコに釘付けになる。
 動物病院にでも連れていったんだろうか? 晴彰ん家の病院は、俺の降りる駅からでも徒歩だと結構な距離がある。たぶん別の医者だろう。ワクチンの注射か、ノミか回虫でも駆除しに行ったのかな? ひょっとしたら、病院ではなく、里子として引き取ってこれから自宅に帰るか、逆にだれかよその家へ預けに行くところかもしれない。
 そんなことを漫然と考えながら、籠の隙間からさりげなく中をのぞいてみる。仔ネコのほうも俺に気づいたのか、じっとこちらを見返している気がした。
 母親が「早く渡しなさい」と繰り返しせっつくと、やがて聞かん坊の女の子は大声をあげだした。キャリーが揺れる。中の仔ネコと一緒に。
 次の電車の到着を告げる構内アナウンスが唐突に入る。スピーカーの声に気をそがれたのか、素直に渡すのを渋ったこどもの仕草に立腹した母親が、やや強引に腕を突き出したせいなのか。いやいやをしながら後ずさりした女の子は、その拍子にバランスを崩し、ホームの縁から線路の上に転落した。
「きゃ────っ!!」
 母親は悲鳴をあげ、その場にペタリと尻餅をついた。とたんに周囲からもどよめきがあがる。
 目の前で起きた出来事に、俺はハッと我に返った。突然バケツ一杯の冷や水をぶっかけられたみたいに。
 甲高い電車の警笛が二度、三度と響き渡る。緊急停止ボタンが隣の支柱にあったが、この距離じゃ押しても間に合わない。
 いちばん近くにいて、いま動けるのは俺だけだ。急いでホームの縁に駆け寄ってのぞきこむと、女の子は枕木の上にうずくまるようにして、「痛い、痛い」と低くうめいていた。
 ホームから下の線路まではずいぶんと高さがあり、手を伸ばしたくらいではとうてい届かないことをいまさらながら思い知った。
 迷っている場合じゃない。俺は急いで女の子の隣に飛び降りると、両手で抱きあげようとした。犬と猫なら毎日のことだけど、人間の子供を抱いたのは従兄弟の赤ん坊を抱かせてもらった正月以来だ。予想外に重い。米袋でも持ちあげるみたいに、肩と腰にずっしりくる。
 ホームの上から、女の子の脇の下をかかえて勢いよく引っ張りあげてくれた人がいた。二十代の女性。さっきまで後ろのベンチに座っていて、女の子が落ちた瞬間、母親と同時に声をあげた人だろう。
 駆け寄ってくる二人の駅員の姿が、目の隅にチラッと映る。そのときホームにいた他の人たちは、母親と同じように身動きもできずにこちらを凝視するばかりだった。何人かはカメラ付きケータイのレンズをこちらに向けている。ムカッ腹が立った俺がにらみつけると、そそくさと隠れるやつも。
 差し伸べられた手をつかむ前に、俺は後ろを振り返った。ひょっとして、いま落ちた衝撃で大ケガをしてるんじゃないか──そう思いながら。
 キャリーケージのありかを目で追う。聞こえてくる轟音が、電車のものなのか、早鐘のように高鳴る自分の鼓動か、もはやわからなくなっていた。
「早くしろ! 何やってんだっ!!」
 男性が一人、怒鳴り声をあげながらホームから右手を差し出す。
 あった。レールのすぐ隣。横倒しや逆さまにはなっていないようだ。すかさず取っ手をつかむと、中の仔ネコの無事を確かめる暇もなく、自分に向かって差し出された腕に押し付けた。
 立て続けに鳴らされる、鼓膜が破れそうなほどの警笛。そして、つんざくような甲高いブレーキ音。
 横を向くと、すでに駅の構内に入線してきた電車の正面が、みるみるうちに迫ってきた。口を大きく開けた運転手の顔が見える。
 無理だ……。
 俺は自分が助かろうとする試みを放棄して、救いの手をふりほどいた。下手をすると巻き添えにしちゃいそうだし。
 ごちゃ混ぜになったいろいろな騒音で、ついさっきまで頭が割れるほどだったのに、急に静けさが訪れた。無音の世界。
 きっとものすごく痛いんだろうな。歯医者で歯の神経をドリルで削るときの比じゃないよな。それとも、脳が痛みを感じる暇さえないんだろうか? どっちにしたって、一瞬の後には、俺の体はふやかしたドッグフードみたいになっちゃってるだろう。
 頭の中で、思考がせせらぎのようにさらさらと、淀みなく流れていく。死の直前には、ビデオ映像をスロー再生したみたいに、ほんの数秒の間の出来事が何十倍もの長さに感じられる──そんな話を聞いたことがある。いまの俺もそういう状態なんだろうか?
 女の子と仔ネコが助かってよかったな。ほんとに。無駄死にはやだもんな。ケガが軽くてすんでいたら、申し分ないんだけど。
 鉄道会社のみなさん、線路を汚してごめんなさい。電車が止まって足止めを食らった人たちも。でも、父さん、母さん、賠償金は支払わなくていいんだからね。俺、自殺じゃないんだから。あと、無理かもしれないけど、泣かないで。
 そして、最後に俺の頭をよぎったのはただひとつ、次のことだけだった。
 どうか結莉が、ちゃんとミオとジュディの面倒を見てくれますように──

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