一面灰色の景色が広がっていた。光でも、闇でもない。瞼を閉じているのか開いているのかわからない、そんな感じ。
そして、覚醒して意識があるのか、眠ったまま曖昧模糊とした夢でも見ているのか、そのどちらかも、やっぱり区別がつかなかった。
自分の肉体がここにあるという実感がない。世界のほうは何となく知覚できるのに。まるで、窓から外をながめているのに、肝腎の家が何も見えないみたいな。窓枠だけの存在になってしまったかのような。
ぼんやりとした頭の中で、俺は思った。
これが死後の世界ってやつか。
ていうか、死後の世界って、あったんだ……。
いまの俺は、いわゆる霊魂とか魂だけの存在なんだろうか?
そのまま、海の波間を漂流するように、俺は灰色一色の世界を漂いつづけた。何時間か、あるいは何日か、それとも何年か。時間の感覚もあやふやで、流れているのか止まっているのかさえはっきりしなかったのだけど。
ふと、何者かの気配を間近に感じた。
神……様?
それとも、俺と同じように死んだ人の幽霊か何かかな?
〈違うよ。そのどちらでもない〉
どちらでもないというそのだれかは、俺が心の中で思い浮かべたことに対して、声にも出さずじかに応答してきた。
〈神でもオバケでもないなら、一体だれなんだい?〉
〈僕は時空の運用管理者さ〉
〈時空の運用管理者??〉
何のことやらさっぱりわからず、俺は彼の言葉をオウム返しにした。
すると、時空の管理者と名乗る存在は、俺の心の中に侵入してきた。それはあたかも、病院の台の上に横になってレントゲンを撮られているみたいな具合だった。
心をのぞかれるというのは、あんまり気持ちのいいもんじゃないけど、恥ずかしがったり抵抗したところで無意味な気がした。だって、神様じゃないにしろ、いま自分が相手にしているのは、人間を完全に超越した存在に違いないのだから。
検査をやめると、時空の管理者はいかにもホッとした様子で口にした。
〈よかった。どうやらエラーは生じていないみたいだね。しくじったらどうしようかと少し焦ったよ〉
……。神様だったら、きっと焦ったりなんかしないだろうな。
俺はこのひどく開けっぴろげな、それでいてとてつもない力を秘めた相手に対して、にわかに興味を覚えた。
〈ねえ、きみのことはなんて呼べばいい?〉
〈そうだな……シュレッドとでも呼んでもらおうか。生と死の重合した状態を観察する者、もしくは、時空を断片化する者。そういうニュアンスで受け取ってくれればいい〉
彼──といっても、男でも女でもないんだろうけど──には、いろいろと尋ねたいことがある。でも、その前に、これだけは確かめておかなきゃ。聞くのはとても勇気の要ることだったけど。
〈ねえ、シュレッド。俺って、死んじゃったのかな?〉
〈ふむ……。まず、いまここにいるきみは、どこにも存在していない。ここは、きみのいた時空と干渉し合うことがない。ここには、そもそも時間の流れも空間の広がりもない。きみは経験的に、そういう知覚の仕方をせざるをえないだろうが、それは便宜的なものでしかないんだ。そして、きみがここへ来た瞬間の時空を一つの切片として切り取って観察するなら、きみの肉体と精神は、ナインイレブンくらいの確率で、エントロピーを維持できない不可逆的な過程に入ったことが予想されるね……〉
シュレッドが難解な物言いをしたのは、俺に気を配って直截な表現を避けたからかもしれない。けれど、ひとつのことだけははっきりとわかった。
要するに、俺はほとんどダメだったってことだ……。覚悟していたとはいえ、大きなショックは隠せない。
ん? 待てよ? ほとんど??
〈ええっと、それって、九九・九九・・・って小数点の下に九が十一個並ぶっていうことだよね。つまり、残りの〇・〇〇・・・〇一%は、俺が生きてる可能性もあるってこと!?〉
〈そういうことになるかな。ここからきみたちの宇宙をながめれば、あらゆる事象は確率的なものでしかないんだよ。僕はいったん観察をやめたから、きみの死は確定したイベントとはなっていない〉
〈それじゃあ、ひょっとして、俺が生きてる確率を〇・〇〇・・・〇一から一にまで引き上げることもできるの!?〉
〈うむ。といっても、それほど単純な話じゃないがね〉
限りなくゼロに近い数字ではあるけれど、まだ決定的に死んだとは言いきれない。そう聞いて、ほんのかすかとはいえ、俺は希望の光を見出した気がした。
〈シュレッド。俺が……ええっと、生き返るなのか、生き残るなのか? ともかく、この先も生き続けるためにはどうすればいいのか、教えてくれ!〉
〈いいとも。最初からそのつもりで、きみをここに招いたのだからね〉
ダメもとで懇願したつもりだったのに、シュレッドはずいぶん気安く請け合ってみせた。なんだか拍子抜けした感じだ。
〈きみは以前、僕に会っている。覚えているかい?〉
〈そうなの? ううん……思い出せないや〉
〈うん。いや、それでいいんだ。あのとき、きみたちの記憶を一時的に封印したんだからね。覚えていてもらっちゃ、こっちが困る。前に会ったとき、僕はきみと友人たちに、〝パスポート〟を渡した〉
〈パスポート?〉
〈そう。メタコスモスへの通行手形さ。存在確率が危うくなるような緊急事態が生じたとき、そのパスポートが有効になる。そう、まさにいまのきみの場合がそうさ。条件は複数あるが、きみがいちばんシビアなケースだったよ〉
〈メタコスモスって?〉
〈まず、きみがいた地球のある銀河系の領域をモノコスモスと呼ぶ。メタコスモスは、モノコスモスから見てちょうど宇宙の反対側のところに位置している。はるか百三十億光年の彼方にあって、なおかつきみたちの移動していた時間線から測れば遠い過去、あるいは遠い未来に当たる世界でもある。二つの宇宙は、相対論的な因果律のうえでは決して影響を及ぼすことはないが、切っても切り離せない、表と裏の関係にある〉
表と裏? 過去だけど未来? 影響し合わないけど、切っても切り離せない? シュレッドの説明を聞いているうちに、俺はだんだん頭がこんぐらかってきた。彼もそんな俺の様子を察したんだろう。途中で話を端折って結論に飛んだ。
〈ま、行ってみればわかるさ。きっと、きみも気に入ると思うよ。もっとも、同じ宇宙といっても、メタコスモスとモノコスモスとの間では、働く作用や生じる現象に大きな違いがある。そこでは、ヒト以外にもさまざまな文明種族が暮らし、星々の間を船が行き交い、魔法が理をなし、モンスターが跳梁跋扈する。かなりスリリングで、エキサイティングなところだよ〉
魔法に怪物、か……。なんか、いろいろ反則な気がするなあ。それじゃあまるでゲームの中みたいじゃないか。
〈ぶっちゃけて言えばそういうことさ。きみはゲームのプレイヤーってわけだ〉
〈ゲーム??〉
俺はつい素っ頓狂な声を出した。
〈きみが目的を達成するためには、それなりの手順を踏んでもらわなきゃならない。魔法とテクノロジーの世界で、仲間とともに冒険の旅をしながら、モンスターをやっつけてレベルを上げたり、お金を稼いだり。そして、対戦者と競い合って、優勝をものにしなくっちゃ。だろ?〉
どうやら、俺が死なない可能性を、ほとんどゼロから一にまで引き上げるのは、簡単なことではなさそうだ。それでも、ゲームの中みたいに魔法が使えるなら──
〈残念ながら、きみたちニンゲンはメタコスモスへ行っても魔法を行使することができない〉
なあんだ……。と、がっかりした俺を慰めるように、シュレッドはすぐさま付け加えた。
〈でも、心配は要らないよ。代わりに、きみのために戦ってくれる心強いパートナーがいるから〉
まあ、手伝ってくれる味方がいるならかまわないけど。それにしても、パートナーって一体どんなやつなんだろう?
〈じゃあ、具体的なゲームの説明に入ろうか。参加者はきみだけじゃない。今回ノミネートされているのは、きみも含めて七チーム。競合チームも、きみとパーティーを組むことになるパートナーと同じく、きみのよく知っている人物たちだ。各チームには、それぞれ〝ゲートキー〟と呼ばれるアイテムを三つずつ所持してもらう。互いのゲートキーを取り合い、十一個のキーを集めた一チームだけが、ゲートを開く権利を手にすることができる。つまり、その時点でゲームクリアさ。ゲートの向こうへ行けば、きみはひとつだけ、どんなことでも好きな願いをかなえることができる〉
要するに、願いをかなえられるのは、七つのうちの一チームだけってことか……。
〈後の細かいことは、メタコスモスできみの存在が確定してから、おいおいわかっていくだろう。ゲームの仕様に変更があれば、ゲームマスターから指令がいくことになっている。各チームにはスターシップのほか、最低限の装備も用意されるよ〉
へえ、宇宙船まで支給されるんだ。俺たちの世界じゃ、国に選ばれた一握りのエリート宇宙飛行士か、大金持ちでもなきゃ、宇宙に行くなんて夢のまた夢の話なのに。
勝者の座をめぐって争い合う対戦者が顔見知りだというのは少々引っかかるけど、それでも俺は、いまから始まる冒険に、なんだか心がウキウキしてきた。
〈ああ、そうそう。ひとつだけいまのうちに注意しておこう。きみの願いごとは、きみ自身の胸の中に大切にしまっておくように。他のチームにしゃべるのは厳禁だよ。でないと、お互いの望みが干渉し合って、事象を確定する際に不具合が生じかねないからね。せっかく苦労してキーを集めても、徒労に終わっちゃったらいやだろう?〉
〈ああ、わかった〉
〈じゃあ、これからきみの肉体と精神をメタコスモス上で再構成するよ。いったん意識を失うけど、目が覚めたときには、きみは新しい世界の住人だ。そして、冒険が幕を開ける〉
シュレッドが俺との対話を打ち切ろうとする前に、あわてて呼び止める。
〈ねえ、シュレッド。きみが俺に生き返るチャンスをくれるのはなぜ? どうしてそんなに親切にしてくれるんだい?〉
〈きみたちにパスポートを渡したのには、もちろんそれなりのわけがある。実は、きみらは超能力の持ち主なんだ。僕たちはそれをESBと呼んでいる〉
「えっ、本当に!? 俺、自分じゃそんなの全然気づかなかったんだけど……」
幼稚園のころに念力でスプーンを曲げるのを俺も試してみたけど、もちろんピクリともしなかったっけ。
〈超能力といったって、そういう類いのものじゃないよ。ESBってのは一人の力じゃない。メタコスモスできみを待っているパートナーたちと、君とで、一つのESBを共有しているんだ。直接目で見たり触れたりすることはできないけれど、肝腎なときにいちばんの力を発揮してくれるものなんだよ〉
〈ううん、いまひとつピンと来ないなあ……〉
首をかしげる俺を、シュレッドは優しくなだめた。
〈まあ、いずれわかるさ〉
〈そっか。また会える? もし俺がこのゲームを勝ち抜いて、もとの世界に帰るとしたら、もう一度ここに来ることになるのかい?〉
〈いや。ゲートの向こうで優勝者を待っているのは僕じゃないよ。もう一人の時空管理者、ゲームマスターだ。このゲームの設計自体を担当したのは、僕じゃなくて彼なんだ。できればきみには、もう二度とここに来るような羽目には陥らないでほしいね。僕の言っている意味、わかるだろ?〉
時空の運用管理者だというシュレッドが、一体どんな姿をしているのかもわからなかったし、そもそも実体なんてないのかもしれない。けど、そのとき俺は、頭を軽くポンとたたかれたように感じた。あたかも父親が幼子をあやすときみたいに。
宇宙の隅から隅まで、過去から未来まで、ここで一手に管理しているすべてを超越した存在であるシュレッドにとって、俺たち三次元宇宙の生きものはきっと、世話の焼けるこどもみたいなものなんだろう。
せっかく友達になれたのに、もうお別れなのはちょっと残念だけど、彼の言ったとおりだ。またここに来なくてすむよう、気をつけなきゃ。
〈うん、そうだね……。じゃあ、シュレッド、いろいろ話が聞けて楽しかったよ。それと、俺にチャンスをくれてありがとう!〉
〈きみのこれからの活躍ぶりについては、それなりに楽しませてもらうことにするよ。それじゃあ、幸運を祈る!〉
シュレッドの気配はそこで途絶えた。
と、灰色一色で何もなかった周囲の景色が、猛烈な勢いで動き始めたように感じた。そこら中で、目に見えない無数の粒子が盛んに脈動し、エネルギーを放出したり吸収したりしているのがわかる。同じように目に見えない俺の体は、その粒子の渦の中をものすごい速さで疾走していた。宇宙空間を自由自在に飛ぶ夢を見ているようだ。
いや、飛ぶのともまたちょっと違う。まるで、自分がたったいまこの世界に産声をあげたばかりの素粒子で、無限小のサイズから加速度的に膨張する広大無辺の宇宙空間へと拡散していくみたいなイメージだ。
それとも、これは錯覚なんかじゃなくて、現実に起こっていることなんだろうか?
やがて、世界が明るくなり始める。辺り一面に白い光が満ちあふれ、ついには目を開けていられないほどまぶしくなった。瞼を閉じたつもりでも、光は心の奥底にまで容赦なく差しこんでくる。
その白い光の中に溶けこむように、俺の意識は遠のいていった──