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3 新しい世界




 うっすらと瞼を開くと、どこか知らない部屋の天井が見えた。
 視界は厚い曇りガラスを通したようにぼんやりとしていた。頭も重くてズキズキする。寝起きはいつもあまりよくないほうだが、さすがにここまでひどくはない。それに、体全体が痺れて、しばらくの間指一本、眉一つ動かせなかった。まるで何時間にも及ぶ大手術を終え、深い麻酔からやっと覚めたばかりみたいだ。
 意識がだんだんはっきりしてくるにつれ、記憶のほうもよみがえってきた。
 そうだ。俺は学校からの帰り、駅で……女の子と仔ネコを助けようとして──
 電車に轢かれたんだ。
 そして、その後に起こった出来事も。シュレッドと交わした会話も。
 すると、ここは……彼がメタコスモスと呼んだ、もうひとつの世界なのか!?
 やっぱり夢じゃなかったんだ。俺が九九・九九・・・%の確率で死んだかもしれないことも。別の世界へのパスポートを手に入れ、もう一度自分の人生を取り戻すために、そこで冒険と戦いの日々に挑むことになったのも。
「ンン……ムニャァ……」
 いまの声は俺じゃない。女の子だ。それも、すぐ真横から聞こえた……。
 ゆっくりと顔を右隣に向ける。
「わっ!!」
 知らない女の子の寝顔が目の前にあった。度アップだ。心臓がドキンとして口から飛び出そうになる。おかげで、すっかり目が覚めてしまった。
 下のほうに目を移そうとして、あわてて目をつむる。その女の子は、あられもない姿で、見知らぬ男──すなわち俺の隣に無防備に横たわっていた。
 だれかが後ろ頭を小突いた。
「いでっ!」
 胸の上に、そのだれかの腕が無造作にポンと投げだされる。そっとどけながら、おそるおそる後ろを振り返った。
 ベッドの左側にも、ほとんど裸に近い格好の女の子が、俺の傍らでスースーと安らかな寝息を立てている。さっきは、寝返りを打った拍子に肘が俺の後頭部に当たったらしい。俺はまたもや両の瞼をギュッとつぶる羽目になった。
 一体何なんだ!? だれもこんな冒険を期待してたわけじゃないんだけど……。
 ふと、俺の心の中で、大きな疑念が沸き起こった。
 二人とも、結莉に負けないくらいかわいい女の子だ。けれど、どこか非常に大きな違和感があった。何かが違っていた。
 といって、再び目を開けてじっくり観察するというのも、さすがに失礼にあたるだろう。第一、そんな度胸もないし……。
 うっかり二人に触れないように、身を固く縮こませながら、そおっとベッドから這い出そうとする。
 そのとき、右隣にいた女の子が俺に声をかけてきた。鈴の音のような声で。
「おはよ、トウヤ」
 もう一度彼女のほうを振り向く。目と目が合った。
 大きな黒目の部分は淡い青緑色、その中心にある瞳はアーモンド形で、まるで偏光顕微鏡で観察した鉱物のようにキラキラと光る緑色だった。こんな瞳の形や色をした人間なんて、地球上にはいやしない。
 けれど、ニンゲンでなければ……これとそっくりの目を、俺は毎日ずっと見てきた。
 黒と金の毛が細かく入り混じった髪の色は、高級なタペストリーのように絶妙な色合いをかもしだしている。サビネコ特有の美しい毛並みだ。
 そして、髪の毛の間から上に突き出た左右の三角の耳──そのフォルムの美しさは、キクラゲみたいないびつな形をしたニンゲンの耳とは段違いだ──も、日ごろ見慣れたそれだった。
「あれっ? トウヤ、起きたの!?」
 後ろからも声が聞こえた。ベッドの左に寝ていた女の子も起きたみたいだ。右の子に負けないくらい大きくて円らな褐色の瞳で、じっと俺のほうを見返してくる。
 その目にじわっと涙が浮かんた。
「トウヤのバカッ!!」
 彼女は俺の胸に飛びこむと、骨が折れそうなほどの力で抱きしめてきた。
 最初に俺の名前を呼んだもう一人の女の子も、背中から腕を回してくる。咽喉がすごい勢いでゴロゴロ鳴っているのがわかる。
 マホガニーレッドの豊かな髪の毛の先が、鼻をくすぐった。緊張が一気にほどける。
 ああ……なんてこった……。
 彼女の髪から立ち上った匂いに、鮮明な記憶がよみがえった。
 ポカポカと陽気のいい日には、庭の芝生の上に三人/匹で寝っ転がって、よく一緒にお昼寝したっけな。日差しをたっぷりと浴びた布団のような、フワフワとして温かい匂い。俺がいちばん好きな匂い。
 絶対忘れない。忘れるもんか。
 そうだ。この二人は、ミオとジュディだ。俺の大切な家族だ。間違いない。
「……う……えぐ……」
 ジュディはなかなか泣きやまない。その肩をやさしくさすってやる。
 ミオが腕を緩めて、耳もとでそっとささやいた。
「お帰り、トウヤ。そして、あたいたちの新しい世界へようこそ」

 地球からはるか百三十億光年の彼方にあるメタコスモス。同じ宇宙の反対側にある、もうひとつの文明世界──
 俺が目覚めたのは、そのメタコスモスの中でも、とりわけたくさんの種族が訪れる星間交易の中心地である惑星ベスタだった。
 俺たちが泊まっているホテルの一室の窓から眼下をのぞくと、確かに大勢の種族の人たちが通りを行き交っている。種族によって耳や尻尾の形に違いがあるものの、みな直立二足歩行という基本デザインでは、地球のニンゲンと共通していた。彼ら一般市民は、いわばゲームの中のNPCにあたる。
 メタコスモスの文明星域は、小宇宙の渦状腕の中に位置する星の密集した区画で、直径およそ百光年ほどの空間に数百もの恒星がひしめき合っている。そのうちの半数は惑星系を持っており、さらにそれらの星系にある大きな天体の半分に生命が存在する。といっても、すべてテラフォーミングによって生命に適した星へと改造されたのだが。
 向こうの世界で文明を築きあげた唯一の動物であるニンゲンは、こっちの世界には現存していない。絶滅種だ。ゲームのプレイヤーとして特別に裏の世界から招かれた俺たちは、いわゆる〝生きた化石〟ってことになるらしい。
 これに関しては、メタコスモスの住人たちの間に広く伝わっている伝説がある。
 はるか創世の時代、八百の知的種族を司る古の神々は、宇宙を性質の異なる二つの世界に分けて様子を見守ることにした。怪物が闊歩するリスクも魔法を使える便利さも備わったスリルあふれる多種族混成世界と、魔法やモンスターなんて厄介なものを取り除いた〝シンプル・イズ・ザ・ベスト〟をモットーとする単一種族世界とに。一方の宇宙文明が廃れても、もう片方は残るよう、保険をかけたみたいなもんだ。
 それぞれの種族の意向も考慮して、最終的に神々がモノコスモスに送り出すことに決めたのは、ニンゲンという種族だった。その選択が、尊い自己犠牲の精神に基づくのか、それとも、自分たちが世界を支配したいという利己的な動機によるのかは定かでない。
 当のニンゲンの一人としては、なんだか肩身の狭い話だけど……。
 シュレッドに教えてもらった、裏と表の関係にある二つの世界と、この伝説が一体どういうふうにつながるのかは、俺にはよくわからない。そういえば、シュレッドはお互いが遠い未来であり、遠い過去でもあると言ったっけ。俺たちニンゲンだけが魔法を使えない一方で、〝伝説の種族〟として他の種族から一目置かれているのには、彼が説明を省いた何か特別な理由があるのかもしれない。
 俺が事故に遭ったとき、ミオとジュディの二匹/人(ふたり)もメタコスモスに召喚されることになった。同じESBを共有するパートナーとして。そして、星間航行という高度な文明を有する知的種族であるネコ族、イヌ族として。
 ミオとジュディも、時間と空間を超越したあの不思議な場所で、宇宙の運用管理者シュレッドと対面した。そして、彼からいろいろレクチャーを施されたという。
 もっとも、いくらお利口だといっても、元はイヌとネコだ。二人には、精神のキャパシティを拡張する処置に加え、知的種族として似つかわしい知識や素養を身に付けるためのPIA(携帯知性端末)が与えられた。
 いま二人が首に巻いている首輪こそ、何を隠そうそのPIAだ。精神感応タイプで、脳が要求する情報をいつでも引き出せる実に便利なツールだ。ミオは必要な知識をほとんど吸収してしまい、いまではただのアクセサリーに近い。ジュディのほうは、まだ満足に使いこなせていないようだが。
 PIAのデザインは、二人が以前から身に付けていたもの──ミオの分は俺が、ジュディの分は結莉が、一緒にペットショップに行って買ったやつ──と瓜二つ。シュレッドが気を利かせてくれたんだろう。
 ミオとジュディは、一年先行してメタコスモスに来ていた。言い換えれば、一年の間、俺のことをずっと待っていてくれたってことだ。本当に感謝しなきゃ、な……。
 二人は【カンパニー】チームのクライアントメンバーとして、ホストである俺が到着するまでに、ゲートキー争奪戦への準備を万端に整えていてくれた。ちなみに、チーム名のネーミングはミオの発案。カンパニーはもちろん、会社じゃなくて〝仲間〟の意味だ。
 ミオとジュディの二人と意外な形で再会を果たし、いざ新しい世界での生活を始めてしまうと、俺の心は揺らいできた。
 十五歳の若さで鉄道事故死というあえない最期を遂げた自分の人生をやり直すという、当初の目標が急速にかすんでしまったのだ。わざわざトラブルに首を突っ込むくらいなら、このままずっと二人と一緒に新しい世界で暮らすという選択肢もありなんじゃないか……そんな気がし始めたのだ。
 この世界の住人は、耳の形が違ったり、尻尾というオプションが付いていること以外、基本的にニンゲンとさほど違わない。とはいえ、魔法を使えないだけでも、俺がニンゲンという特殊な種族に属しているのは一発でバレてしまう。だから、あえて隠すこともしなかった。それでも、だれもが偏見を持つことなく俺に接してくれる。
 ここには両親も、学校の友人もいない。それどころか、自分と血を分けた一族は周りに一人もいない別世界だ。ともすれば、心細さや望郷の念が募りやしないかと、不安を抱いたりもした。けれど、そんな心配は無用だった。
 もちろん、最初の一月は、メタコスモスの多様な文化に馴染むだけでもてんてこまいだったし、その後は、寂しさを感じる暇もなかったのだけど。
 もうひとつ、ずっと大きな理由がある。
 他のチームと争うことに、どうしても気乗りがしない。
 七つの参加チームを率いるホストが、みな俺のよく知る人物だということは、シュレッドから聞いていた。だが、実際に相手の名前を知って、その気持ちは一層明確になった。
 俺たち三人が再会を果たしてから五日目のこと。
「早速だけど、いまから対抗チームの分析ミーティングを開くわよ」
 ミオに呼ばれてジュディとともに部屋に集まる。テーブルの上に置かれた対戦チームのリストを目にして、俺はビックリ仰天した。


チーム【カンパニー】 :ホスト = 霧志麻トウヤ  クライアント = ミオ、ジュディ
チーム【バードケージ】 :ホスト = 神光寺小夜  クライアント = ヨキ、ヨナ
チーム【ミョージン】 :ホスト = 阿倍野晴彰  クライアント = 葛葉、夷綱
チーム【トリアーデ】 :ホスト = 藤岡ひろみ  クライアント = タロ、ジロ、ヒメ
チーム【イソップ】 :ホスト = 眞白杏子  クライアント = エシャロット、チコリ
チーム【ロンリーウルフ】 :ホスト = 成瀬結莉  クライアント = レナード
チーム【ジョーカー】 :ホスト =  クライアント = カイン

 これは……ホストが空欄の【ジョーカー】を除く六名は全員、俺が小学校六年生のときのクラスメイトで、一緒に学校の飼育委員をやっていたメンバーだ……。
 そんな……。
 チラッとジュディの様子をうかがう。
 俺の視線に気づいたのか、ジュディは顔をあげると、正面からまっすぐこちらを見つめ返してきた。ミオは目を伏せたままだ。
 長い数秒の間、俺は言葉を失い、ただジュディの顔を見続けるばかりだった。
 おもむろに彼女のほうから口を開く。
おねえちゃんがいるから、びっくりしたんでしょ。だよね。ボクだってそうだもん。でも、遠慮は要らないよ。ほら、ここ」
 はっきりとした、力強い意思表示。
 ジュディが指差したところには、結莉のチーム【ロンリーウルフ】のクライアント、レナードの名があった。
 レナード。そう……あの日、彼女が言ってた、カナダの施設から連れてきたというウルフドッグだ。
 さらに数秒が過ぎてから、俺は搾り出すようにつぶやいた。
「これって……棄権できないのかな?」
 聞いた途端、ミオの目が険しくなる。
「何を言いだすかと思ったら……トウヤ、あんたねぇ! ジュディがどんニャにあんたの──」
 非難しかけたミオを、ジュディが制止した。
「確かに、おねえちゃんには恩があるよ。でも、ボクの家族は後にも先にもトウヤ一人だ。勘違いしてもらっちゃ困るよ」
「あたいはどうニャンのよ、あたいは?」
「もう、うるさいなあ。途中で口挟むなよ!」
 二人のコミカルなやりとりを見ていると、こっちもつい頬の筋肉が緩んでしまう。けど、ジュディはいたってまじめに言葉を続けた。
「ボクはトウヤのためにできることだったらなんだってやる! それに、おねえちゃんにはパートナーがいるんだし」
 ジュディがそう言ってくれるのは正直うれしい。だが、語気を強めて否定するほど、ほかでもないジュディ自身が、心の内のためらいを無理に押さえこんでいるかに見える。
「おまえはレナードに会ったの? 向こうの世界でってことだけど」
 ミオが少しためらいがちに付け加えた。
「あたいたちは、あんたが一大事に遭った次の日にはもう、運用管理者に召喚されたのよ。あんたの葬式……ええっと、その、いろいろバタバタしてた日にね……。狼犬がバカイヌの実家に来ることは、まだ聞いてニャかった。でも、この子はあたいについて来て、運用管理者に『結莉とトウヤのどちらを選ぶのか』って問われたときも、一瞬も迷わニャかったわ」
 そうだったのか……。
 もう一度じっとジュディの目をのぞきこむ。
「おまえは本当にそれでいいのか?」
「しつこいなあ。ボクが自分で決めたって言ってるんだから、それでいいだろ!? ともかく、おねえちゃんと戦うことになったってボクはかまわない! トウヤも、手加減なんかしちゃダメだぞ! いいね!?」
 ジュディは少しへそを曲げたらしく、プイと顔を逸らしてしまった。
 仕方ないので、俺は視線を落として、今度はジュディの尻尾を観察することに。ううむ……この不規則な振り方は、ストレスを感じてる徴候にしか見えないが……。
「どこ見てんのよ、このスケベ」
 ミオが軽蔑の眼差しを向ける。途端に、ジュディはお尻を押えて振り向き、顔を真っ赤にしながら怒鳴った。
「ト・ウ・ヤッ!! もう、ひとがまじめに話してるときに!」
「ち、違うってば!! 俺はただ、おまえの本心を確かめようと……」
 大あわてで首をブンブンと横に振り、セクハラ疑惑を否認する。
「今度ボクのお尻を見たら、お返しにトウヤのお尻を百回蹴っ飛ばすかんな!」


 さっきまでの信頼しきった表情はどこへやら、二人ともまるで汚いものでも見るような目つきだ。うう、やりづらい……。なんとか話を逸らそうとする。
「そ、それより、レナードってどうなんだ? やっぱり強いのかな?」
「各種族の身体能力や魔力はだいたい均されてて、種族間の差はそう大きくはニャイわ。野生種のほうが若干ステータスが高いのは確かだけど。それより、個人差のほうが重要よ。正直ニャところ、会ってみニャイことにはニャンとも言えニャイわね。ただ、チームのクライアントがそのウルフドッグ一人でも、ゲームマスターがエントリーを認めている以上、ニャめてかかるのは禁物でしょうけど……」
 しばらくの間、俺は目をつぶって腕組みをしながらじっと考えこんだ。
 レナード……結莉……ジュディ……。
 頭の中で、結莉の「あんたなんか大っ嫌いよ!!」という台詞がいつまでもこだましつづける。瞼の裏に浮かぶのは、彼女の泣き顔ばかりだった。
 俺は間違いなく彼女を傷つけた。彼女を傷つけることで、ジュディも傷ついたに違いない。レナードも。
 結莉はきっと俺に対して敵愾心を剥き出しにしてくるだろう。そして、ジュディをけしかける俺に向かって、卑怯者と罵るに決まってる……。
 俺はてのひらに顔をうずめたまま、二人の顔を見ずに答えた。
「もう少し考えさせてくれ」
 いきなりジュディがバンとテーブルをたたいて立ち上がる。
「なんだよ! こっちはせっかくやる気になってるのに! トウヤの意気地なし!!」
 そのまま席を立って大股で目の前を横切っていく。かすかなエア音とともに、彼女は自動ドアの向こうに消えた。最後に目にしたのは毛羽立った尻尾の先だけ。
 ミオも一つため息をつくと腰を上げた。刺々しい視線を感じる。
「いい? 戦いはもう始まってるのよ。悠長にかまえている暇はニャイの。結論は早めに出してちょうだい。ひとつだけはっきり言っておくわ。もし、あんたがどうしてもこの戦いから下りるっていうのニャら、あたいとジュディはもう、あんたと一緒にいるつもりはニャイ」
 そう言い捨てると、部屋を出ていく。
 一人ポツンと残された俺はじっと天井を見上げた。

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