前ページへ         次ページへ



8 小夜 1




 神光寺小夜がヨナと出会ったのは、さかのぼること十年前、彼女がまだ小学校にもあがっていなかった時分のことだ。
 そのころ、彼の名前はヨナではなく、『ヨウム シンガポール産 ¥二八〇,〇〇〇』だった。当時の小夜は、何とか○世とかいう王族や伯爵みたいな、あるいはスパイのコードネームを思わせる数字っぽい呼称まで付けられた、『シンガポール某』という大きな白い鳥に対し、いっちょまえにかっこつけやがって、なんてふてぶてしいやつだろう──と勝手に憤慨していた。
 そう……ヨナがいたのは、小学校への通学路沿いにあるひなびた商店街の、入口のアーケードから二つ目に並んだペットショップだった。両隣の自転車屋やパーマ屋と比べても、一段と年季の入った店がまえのペット屋は、小鳥と観賞魚が売り物の中心で、イヌやネコは扱っていなかった。ほかには、夏場にカブトムシの幼虫の飼育キットが店先に置かれる程度。店主は独り者らしいおじいさんで、どうやって経営が成り立っているのかと、小夜はこども心にも不思議に思ったものだ。
 その昔ながらのペットショップの唯一の変り種にして、いちばん高い値が付けられていたのが、このヨウムである。小夜の記憶する限りでは、軒下にカゴが吊り下げられてから、まったく変わり映えしていない。どういう経路をたどったのかは不明だが、店にやってきたときにはすでに成鳥、それもかなりの年齢だったと推察される。ヨウムのヒナや若鳥は結構な高額で取引されるが、場所が場所なこともあり、このペット屋のヨウムは一向に売れる気配がなかった。

 小夜がヨナのことを強く意識しだしたのは、小学校二年生のとき。ヨウム──すでにこのころには、オウムの一種の種名だということもわかっていた──が人間の七歳児くらいの知能を持つという話をテレビか何かで聞いて、ますます許せなくなったのだ。
 自分より賢いだって? フン、言葉をまねするなんてだれでもできるじゃないか、と。
 ちなみに、二八万円が売値だということもわかっていた。それが目の玉の飛び出るほどの金額だという認識までは、まだ持ち合わせていなかったが。
 学校の帰り道、小夜は店の前を通りかかると、ヨウムのカゴのそばに近づいて、あっかんべえをしたり、あっちょんぶりけをしたり、思いっきり変な顔をしてみせる。ヨウムはその間、ときおりかすかに頭を動かしつつ、じっと小夜を凝視している。
 普段は店の奥にいて顔を合わせることもない店主が、まれに、小夜が訪れたときに店先の掃き掃除をしていることがある。そんなとき、熱心にヨウムに見入っている小夜に向かって、店主はこう言うのだ。
「そのヨウムは言葉を教えても無駄だよ。もう年だしね」
 この店主は、一体この子を売る気があるのだろうか? と、小夜は思う。健康状態は悪くないし、きちんと面倒を看てはいるようだ──そりゃあ、曲がりなりにもプロなのだから当然だろう。けれども、売り物に愛情を注いでいるようにも見えない。
 そのくせ、同年代の男の子たちがやってきて、「ばーか」とか「うんこ」とかこのヨウムに向かってはやしたてようものなら、箒を振り上げながら飛んできて、「こらぁっ!! 汚い言葉を仕込むな!」とすごい剣幕で追い払うのだ。六つ歳の離れた姉に最近教わったばかりの、むじゅんという言葉を体現しているように、小夜には思えた。
 もっとも、店主の気づかない頃合を見計らって、小夜が宮沢賢治の「やまなし」や中川李枝子の「くじらぐも」をこっそり朗読してやっても、このヨウムはときどき低い声でグジュグジュつぶやくばかりで、まともな言葉を話す気配はまったくなかった。店主の言うとおり、知能指数が低いんだろうと、彼女は勝手に判断した。

 それが思い違いだったことに小夜が気づいたのは、さらに二年が過ぎたある日のこと。
 もう何年もヒソヒソ声でささやきかけたり、にらめっこをしている間に、ヨウムはすっかり小夜の顔を覚えていた。小夜が店先に現れると、体のサイズに対しては窮屈すぎる釣鐘型のカゴの中で、首を盛んに上下に動かしながら彼女のほうに寄ってくる。そして、襟首の辺りを指先で掻いてやると、気持ちよさそうに身を委ね、ときには甘噛みを返してくる。
 こんなゴツイ嘴で本気で噛まれたりつねられたりしたら、流血の惨事になること請け合いだ。この子はペット屋に訪れる客──といっても、小夜はここで何かを買ったことはなかったのだが──の中で自分にいちばん馴れているに違いないし、ひょっとしたら、店主よりも私のほうを気に入っているかもしれない。そう思うと、小夜はちょっぴり鼻が高かった。
 その日、ペット屋に珍しく先客がいた。それも珍客、若いアベックだ。たぶん冷やかしだろう。
 女の人のほうはかなりの動物好きとみえ、「あ、ヨウムだ!」と一声叫ぶや、すぐにカゴに近寄っていった。そして、てのひらを振ったり、ニコニコしながら「ハロー! こんにちは!」とかいろいろ話しかける。いったん店内をひととおり見て回った後、またヨウムの所に戻ってもう一回話しかけ、指先でヨウムの首筋をなでた。ヨウムは少し躊躇していたが、すぐに小夜に対するのと同じように身を任せた。自分になでさせるまでには一月かかったのに、初対面の人間にあっという間になついたのを見て、小夜はちょっぴりムッときた。
 男の人のほうは、女の人の保護者然として後ろについていたが、実際には鳥や魚になんか興味がないのは、傍から見ていてよくわかった。それでも、彼女にいいところを見せたいと思ったのか、自分も指先をカゴに入れようとした。
「いてっ!」
 ヨウムにしたたかつつかれ、男の指先は赤くへこんだように見えた。もちろん、血が出るほどじゃない。男はヨウムを陰険な目つきでにらみつけたが、女が腹を抱えてゲラゲラ笑いだしたため、「もう行こうぜ」と言って彼女の袖を強引に引っ張り、二人で店を後にした。
 小夜には、二人がヨウムをなでようとした仕草にそれほど差があるようには見えなかった。きっと、自分と同じ直感がこの子にも働いたんだろう。
「あんたって、人を見る目があるのね」
 アベックの後ろ姿を見送ってから、小夜はヨウムに声をかけた。
 するとヨウムは、少なくとも小夜が耳にするのは初めての台詞を口にしたのだ。
「ワカル?」
 小夜は目を円くした。しばらく声を失ったまま目を瞬かせる。たった三音節のごく簡単な単語ではあったが、ひどく意味深な一言だった。
「ね、ねえ、もう一回言ってみてよ! 『ワカル?』って、あんたそれ、どういう意味かわかってんの!?」
 小夜はすがるように早口で問いかけたが、ヨウムはもう、言葉の体をなしていないグジュグジュという鳴声を発するばかりだった。
 この子、判ってる……。
 小夜は確信した。この子たちは、山彦みたいにただ同じ音を投げ返しているだけじゃない。人を見て、見分けてるんだ。自分の頭で判断してるんだ……。

 事件から半年後──。
 近くの国道に巨大なショッピングモールがオープンした。店舗の一つはチェーン店の大きなペットショップ。小夜がチラッと中をのぞいてみると、大きさも品揃えも、商店街の古ぼけた個人商店とは比べ物にならない。壁の一面は、ガラスケースに入れられた仔イヌや仔ネコが占め、十人以上の客が始終垣根を作っている。ヨウムのヒナも三羽入荷していた。
 例のペット屋が、今月中に店をたたむ旨の張り紙を出したのは、その二ヵ月後のことだった。
 小夜は両親に相談した。なにしろ、貯金と合わせて小遣いを一年分前借したって足りない金額だ。小夜の父は、不況下でもそこそこの業績を確保していた商社の財務管理部門のマネージャーで、彼女をそれなりの私塾に通わせるだけの財力はあった。だが、さすがに二八万円となると、小学生の小遣いとして気軽に与えられる金額ではない。小夜はそれでも粘って交渉を続け、小学校を卒業するまでクラストップの成績を維持し続けるという約束までして、やっとヨウムを買うことをオーケーしてもらった。
 いざペット屋に足を運び、店の老主人にあのヨウムを売ってもらえまいかと告げると、彼は七万円にまで値段をまけてくれた。正直、処分に困っていたのかもしれない。
 こうして、ヨナは神光寺家に引き取られることになった。

 小夜の部屋に来てからのヨナは、店の軒先に吊るされていたころとはまるで別鳥(べつじん)だった。驚くほどのスピードで、さまざまな言葉を飲み込み、覚えていく。「オハヨウ」「コンニチハ」「イッテラッシャイ」といった挨拶、父や母や姉の名前、自宅の住所と電話番号まで。もちろん、「サヨ」と「ヨナ」も。
 ちなみに、彼の名は小夜がインスピレーションで付けたものだ。
 自分の名前を言うとき、「ヨ」と下にアクセントを付けるのがおかしくて、小夜はケラケラと笑った。そういうとき、ヨナは決まってやや気分を害したような顔をする。鳥の顔に顔面筋なんて発達してないと言う人には、彼らの微妙な表情の違いも読み取れないだろうが。
 小夜が「・ナ」と訂正すると、ヨナは言われたとおりにきちんと「ナ」と発音する。ところが、しばらくたつと彼はまた「ヨ」と言い始め、小夜は腸がよじれるほど笑い転げる。ヨナにとっては、これも一種のゲームだったんだろう。
 「やまなし」も教科書の二ページ分くらいまで覚えこんだ。時間をかければ、全部通して暗誦することだってできるに違いない。
 そして、ヨナはその場のシチュエーションに応じた言葉を発することがしばしばあった。人間の発した言葉を文字どおりオウム返しするのとも、でたらめにいろいろな言葉をしゃべるのとも、まったく違う。空気を読むのだ。
 小夜は確信していた。ある程度身びいきの分を差し引いても、ヨナはよそのヨウムとは別格の天才に違いない。テレビの動物番組の視聴者投稿企画には、暗証番号の入った鍵を開けてしまう、ヨナといい勝負の賢いヨウムも登場するが、人が頭の中で思っていることまで見抜いてしまうのは、さすがに世界広しといえどもヨナくらいのものだろう。
 小夜は親との約束をきちんと果たし、小学校の間ほぼ学年トップの成績を収め続けた。もともと好奇心旺盛で勉強が好きだったし、負けん気も強く、自分は他人を率いるタイプの人間だと幼いうちから自覚していた小夜のこと、その気になれば難しいことではなかった。
 実は小夜自身は、他の生徒よりもむしろヨナを意識していた。自分はヨウム界の天才の飼い主にふさわしくあるべきだと考えたのである。
 学業だけでなく、小夜は小学校六年のとき、学級委員に積極的に立候補して職務をまっとうした。
 もう一つ、クラスの飼育係でもリーダー格として活躍したが、その紆余曲折についてはまたの機会に譲ることにしよう。

 ヨナの向こうを張るライバルの天才が登場したのは、小夜とヨナが一緒に暮らしだして五年目の年、彼女が中学を卒業した春休みのことだった。
 県内トップレベルの公立高校に無事合格した小夜は、その日久しぶりに羽を伸ばそうと、中学時代の友人たちと一緒に映画を観に行った。
 帰り道、彼女は歩道橋の近くに植えられた街路樹の下で、小学生の男の子たちが三人ほど輪を作っているのを見かけた。興味を駆られて彼らの肩越しにのぞきこんでみると、そこに落ちていたのは一羽の鳥のヒナだった。カラスだ。目はもう開いているが、産毛がまだところどころまばらに残っている。
「何やってんの、あんたたち?」
 やや険を含んだ声で男の子たちに問いかけると、彼らはボソボソと不満そうに答えた。
「いや、落ちてたから……」
 小夜が目尻を吊り上げてこどもたちをにらみつけると、こどもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。きっとおとなのおばさんにも負けない迫力を感じたんだろう。
 その場に一人取り残された小夜は、改めてヒナの様子を確かめようとかがみこんだ。カラスのヒナは警戒して嘴を開いたが、いかにも弱々しく、だいぶ体力を消耗していそうだった。
 木の上を見上げたが、巣らしいものもない。辺りを見回しても、肝腎の親の姿が見当たらない。そばに巣があって、そこに親がいたなら、あの悪ガキどもだって空襲爆撃を受けて無傷ではすまなかったはずだ。
 野鳥のヒナが落ちているのを発見した場合、その場に置いて親が救出に来るのを待つのが鉄則だ。だが、このヒナは巣立ちを迎えて飛ぶ練習を始めるにはどう見ても早すぎる。具合も明らかによくない。人通りも多いこんなところにいつまでも放置しておいたら、そのうち自転車に轢かれるかもしれないし、野良ネコに襲われるかもしれないし、またさっきみたいな悪ガキたちにいじめられるかもしれないし……。
 小夜は腫れ物でも扱うようにそのヒナを抱きかかえると、ハンカチにくるんで懐にそっとしまいこんだ。
 訪ねた先は阿倍野動物病院。昔のクラスメイトだった阿倍野晴彰の両親が経営している病院だ。
 晴彰はクラスで唯一自分と張り合う頭脳の持ち主で、おまけに皮肉屋で嫌味な性格ときており、当時はしょっちゅうケンカばっかりしていたものだ。その彼は、小学校を卒業したあと中高一貫制の私立の進学校に進み、寮暮らしを始めたため、顔を合わせる機会も滅多になくなった。
 もしかしたら、春休みで実家に帰っているかもしれないな……そんなことを考えながら、入口のドアをくぐろうとしたときだった。
 自転車のブレーキの音に振り向くと、そこに当の晴彰がいた。自分のほうを見て、ちょっとびっくりしたように目を丸くしている。ややあって彼のほうから口を開いた。
「神光寺じゃないか。どうした? またヨウムがカーテンに足でも引っかけたのか?」
 しばらく見ないうちに、晴彰はすっかり大人びたように見えた。あとは性格さえよけりゃなあ……。
「やあ、戻ってたんだ、晴彰君。実はさ……」
 小夜が事情を説明してヒナを見せる。
「入れよ」
 晴彰はボソッと一言つぶやくと、病院の裏側にある自宅のドアをくぐった。小夜も後に続く。
 診察室に通される。彼の母親がそこにいて、挨拶を交わした。他の患畜もいなかったため、さっそくヒナの様子を見てもらう。診断の結果、翼と足の骨折やケガなどはとくにないことがわかり、小夜は胸をなでおろした。体温が少し下がっていたため、温める措置を施してから栄養剤を補給してもらう。
「で、どうすんだ?」
 診療が終わってから、晴彰が問いかける。
「野鳥だから、うちで回復するまで様子を見て、その後放鳥するのが原則だけど、うちだって暇じゃないからな。神光寺にその気があるなら、任せてやってもいい」
「もしかして、また何か拾ってきたの?」
 小夜の質問に、晴彰はけげんそうな顔をして聞き返した。
「なんだって?」
「フフン、おばさんから聞いたわよ。去年はキツネの仔の世話をしてたんだってね。やっと獣医の血に目覚めたのかしらって、おばさん喜んでたわよ」
 小夜がニヤニヤしながらからかうように言うと、晴彰は渋面を作った。
「ったく、余計なことを……」
 それから晴彰は、鳥のヒナ用の給餌器を探してきて、無愛想に小夜の手に押し付けた。
「何かあったら電話しな。ただし、次からは金をとるからな」
 こうして、カラスのヒナはしばらくの間、小夜の自宅に預けられることになった。
 家に着くまで、小夜はうっかりヨナのことを忘れていた。思い出したのは、病院でもらった箱を抱えて玄関に立ったときだ。
 ヨナ、怒るかなあ……。
 部屋に入ると、ちらっとヨナの様子をうかがう。彼はすぐにカラスのヒナの存在に気づき、興味津々といった目つきでケージにしがみついた。
 小夜はそばまで行くと、言いにくそうに口を開いた。
「あ、あの、さ、ヨナ……。この子、巣から落ちちゃって、しばらくうちで面倒みようと思うんだけど、どう?」
 すると、ヨナはこう答えたのだった。
「ヨキニハカラエ」
 しばらく考えた末、小夜はそれを、ヨナの了承だと好意的に解釈することにした。

前ページへ         次ページへ
ページのトップへ戻る