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14 ひろみ




 小学生時代の藤岡ひろみは、その振る舞いのにぎやかさでクラスの中でも一際目立っていた。にぎやかすぎるくらいだった。休み時間にはクラスメイトたちが作る〝島〟の間を渡り鳥のように転々とし、それぞれの島でいちばん多く発言した。芸能界やアニメの知識はすこぶる蓄えていたので、乞われるままにペラペラとウンチクを披露した。
 だが、本当に親友と呼べる間柄の子はいなかった。
 不自然な明るさの裏に、彼女はだれにも打ち明けられない秘密を抱え込んでいた。
 ひろみには、だれよりも恐れていた存在がいた。
 母方の伯母の子、つまり、ひろみの二つ年上の従兄である貞行だ。
 いつから始まったのか、何がきっかけだったのか、もはや定かな記憶はない。ただ、それは間違いなく、ほんのささいなことだった。母親たちに内緒でおやつを失敬したか、百円玉を拾ったことを言わなかったか、その程度のことだったと思う。それも、小学校に入る以前のことだ。
 そして、その現場に貞行という目撃者がいた。
「それは悪いことじゃないのか?」
 貞行は詰め寄った。
「お母さんとお父さんに知れたら、どういうことになるんだろうな?」
 貞行の脅し文句に、ひろみはまるで自分が絞首台に上げられるかのごとく震えあがった。何より、彼の目が恐ろしかった。
 彼は言った。内緒にしておいてやるから言うことを聞け、と。
 ひろみは言われるままに従った。
 貞行は薄笑いを浮かべ、服を脱げと命じた。ひろみが逡巡していると、彼は声を荒げ、再び脅しが始まった。このままひろみはおまわりさんに連行されて、少年院というところに連れて行かれて、テレビもない檻の中で毎日決められた日課に従い、掃除をしたり、ひろみの嫌いなランニングをさせられたりするのだと。親はテレビニュースに顔を映されて恥ずかしい思いをし、おまえを一生恨むことになるのだと。
 ひろみはそれを聞いてすっかり怯え、どうかそれだけは勘弁してくれ、言わないでくれと懇願した。逃げ場はどこにもなかった。
 裸になって四つんばいになったひろみの背中や尻を、貞行は平手で思いっきりたたいた。何度も、何度も。
 痛いと声をあげるとまた脅されるため、唇を血が出るほど噛んで我慢した。お尻は真っ赤に腫れ上がり、痛みと恥ずかしさとでほとんど失神しかけるまで、貞行は折檻をやめなかった。
 貞行は一、ニヵ月に一度、親と一緒にひろみの家に遊びにくる。彼は親たちの前ではいかにも優等生らしく仮面を被っていた。
 部屋で一緒に遊んでいるからという彼の言葉に、微塵の疑いも抱かずに、二人の母親は近所のショッピングセンターに買い物に出かけたり、どこかの中華料理屋に行って長々とおしゃべりにふける。二人とも、貞行の裏の顔などつゆ知らず、安心しきってひろみの面倒を押し付けていく。
 稀に親が早く帰ってくることがあると、目を真っ赤にしたひろみに、名作劇場のビデオを見せていたのだなどと白々しい嘘を平気でつく。その嘘のつき方というのがまた実に巧みで、ひろみは悔しくて悔しくてさらに大声を上げて泣くことしかできなかった。
 学校で不自然なまでに明るく振る舞っていたのは、貞行がいたから。正義の味方が活躍する特撮モノに女の子らしくもなくあこがれたのも、本当に悪人をやっつけてほしかったからかもしれない。救いを求める切実な願いの表れだったのかもしれない。おとなたちはだれも気づかず、助けてくれなかったから。

 貞行が家に来なくなったのは、ようやくひろみが小学五年生にあがったときだった。親の転勤の都合で遠くに引っ越したからだ。
 やっと解放された。
 そのことを知らされただけで、全身の力が抜け、二、三日は起き上がることもできなくなるほどだった。
 六年生時代はとくに楽しかった。
 〝秘密の飼育係〟に任命され、五人のメンバーと親しくなった。楽しい思い出ができた。

 中学に入り、ひろみは隣町に引っ越した。せっかくできた友達とは疎遠になってしまったが、ひろみにとって待ちに待った特典があった。
 集合住宅にいたときは飼えなかったペットが飼えるようになったのだ。一緒に暮らしたいとずっと思い続けていたけど、決まりだから仕方ないとあきらめていた。その夢がようやく実現する。
 夜になると未だにときどきうなされる汚れた記憶も、きっときれいに洗い流してくれるに違いない。
 大型犬も捨てがたかったが、にぎやかなほうがいい。そう思い、ひろみはまずフェレットを買い始めた。半年後には、ダックスフントとマンチカンの家族が新たに加わった。
 フェレットのヒメは、最初に家に来ただけあって、体は今ではいちばん小さいけど、自分のことを三匹の中でいちばんのお姉さんだと思っている。タロはわんぱくだけどやさしいネコだった。ジロはおっとりしていて、タロとヒメのペースにちょっと振り回されていた。三匹はケンカさえしたことがないほど仲良しで、よく洗濯物を丸めたみたいに団子になって一緒に寝ていた。
 三匹との生活はとても楽しかった。一日一日が充実していた。

 悪夢が再び舞い戻ってきたのは、高校に入ってからのことだった。
 女子高の友達とショッピングに出かけて家に帰ったとき、玄関に彼が立っていた。まったく伸びていない自分と違い、高三に上がった彼の背丈はスラリと高くなっていた。だが、狂気を灯した目は以前と何も変わっていなかった。
 鮮烈なフラッシュバックに、眩暈がしてその場で倒れそうになった。
「たまたま近所にいらしたんですって」
 と母親の声。
 帰ってもらおう。
 意を決して相手をにらみつけようとしたが、目を見返すことさえできなかった。
 五年も前と同じように、ひろみは貞行に飼い馴らされたままだった。
「待って。いま部屋を片付けるから」
 部屋には三匹が放し飼いにしてある。なんとかしなきゃ。
 そう思って二階の自室にあがろうとするが、貞行は彼女の二の腕をがっしとつかんだ。ギラギラとした目の輝きが増している。
 無言の圧力に、ひろみはまたしても逆らうことができなかった。
 部屋に入ると、三匹ともベッドのうえでキョトンとしてこちらを見上げた。ひろみが客人をここまであげることは滅多にない。三匹とも興味しんしんだ。
 どうかこの子たちに何事も起きませんように。無事に乗り切れますように。
 ひろみのその願いは虚しく破られた。
「なんだ、ペットを飼ってるのか」
 そう言ってつかつかと寄っていくと、おやつでもくれるのかとのんきに立ち上がったヒメの尻尾をつかんで持ち上げようとする。
「なんだこりゃ。見たことねえ」
 普段声をあげることのまずないヒメが、キューと悲鳴をあげた。
「ダメ! 尻尾なんかつかんだりしたら内臓がおかしくなっちゃう!」
 思わずひろみが大声をあげる。
 貞行はいったん手を放した。じっとひろみを見つめ返す。
「おまえ、俺に指図していいと思ってるのか?」
 ひろみは首を思いっきり振ると、その場に跪いた。
「お、お願い、しますぅ……」
 貞行は冷たい視線でじっとひろみを見下ろしていたが、おもむろにニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、再びヒメを持ち上げようとした。
「ダメだな」
 ヒメはまたキューと悲鳴をあげ、体を曲げて貞行の腕を噛もうとする。
 このままじゃ、この子たちが殺されちゃう!
「その手を放せっ!!」
 腹の底から響くような低い声でひろみは怒鳴った。
 貞行は再び手を放した。その顔には、一体何が起こったのかわからない、信じられないという驚きの表情が張り付いていた。
「その子たちに指一本でも触れてみろ。殺してやる」
 声は震えていたが、視線は貞行から離さない。腕を伸ばして、鉛筆立てに差してあったカッターを握りしめる。体の芯に澱のように溜まっていた汚らわしいものが、のどもとまで込み上げてきたかのようだった。
 しつけたはずの奴隷の突然の反抗に、貞行はじっと目を細めてひろみを凝視した。頬がピクピクと引きつっている。
 ひろみが自分に対して命令するなど、およそありえない、あってはならないことだ。ひろみがペットを飼うことを、自分は許可していない。ひろみが貞行のペットなのだ。そのペットが飼い主に歯を剥いていいはずがない。彼にとってそれは、平安な秩序が乱されることを意味する。
 だれが主人か教えてやる。
 不意に自信を取り戻したように、貞行は冷酷な表情で言い放った。
「おまえにできるかよ」
 無慈悲な腕が、ヒメに向かって伸びていく。
「わあああああっ!!」
 記憶が一瞬飛んでいた。気がついてみると、貞行は血の流れる腕を押えて泣きながら「痛い、痛い」とうめいていた。
 ひろみの手からカッターがポトリと落ちる。
 三匹のこどもたちはベッドの片隅で身を寄せてうずくまりながら、平和な日常が壊れていくさまを呆然と見つめていた。

 貞行のケガは全治二週間程度で、大事には至らなかった。
 ひろみは警察で聴取を受けても、最後まで動機について一切口を開かなかった。
 彼女は傷害の罪により少年院に送られることになった。

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