阿倍野晴彰は、両親ともども獣医という家庭に生まれ育った。
小さいうちから動物たちに囲まれて育てば、きっと動物好きのこどもになるだろう──だれもが思うに違いない。
しかし、その逆もありうる。晴彰の場合がそうだったように。
小学校に入学してからこの方、「将来の夢」というタイトルの作文で、彼が獣医という職業を掲げたことは一度もない。
彼が動物嫌いになったのは、もうずいぶん昔のことだ。犬に噛まれたとか、そういう目に遭ったわけではない。どちらかといえば、面識のないイヌさえ挨拶に寄ってくる体質だ。原因を作ったのは、ほかでもない両親だった。
自宅は病院と同じ敷地にある。いわゆる看護師にあたるAHTが五人いるが、病院付の獣医師二名、すなわち彼の両親はほぼフルタイムだ。表向きは交代で週一日休みの日を設けていることになっているが、実際には年に三日と休めた試しがない。動物抜きの時間は一日とてない。たとえ、こどもの食事をレトルトですませたり、二言三言しか会話をしない日があったとしても。
そもそも、動物病院を切り盛りするのに手一杯だった両親は、晴彰が幼児のころの世話を基本的に叔母任せにしていた。だから、彼には親に甘えた記憶があまりない。
晴彰とて、別にそのことを恨んでいるわけではない。獣医の身で家庭と仕事の両立を図るなど至難の技だということも、いまの彼は理解しているつもりだ。
だが、幼いころの晴彰にとって、自分を納得させるのは難しいことだった。とくに、友達に家族の団欒の話を聞かされるときには。授業参観や演劇発表会、合唱コンクール、運動会、そういった学校行事があるとき、彼の家だけいつも親が不在だった。たまに来てくれるのは叔母だけ。
誕生日さえ、まともに祝ってもらった覚えがない。何の因果か、そういうときに限って、病院に急患が運びこまれるのだ。手術後の経過が思わしくなかったときなど、父も母も一日中むっつりとしかめっ面をしてたりするから、お祝い気分も台無しだ。
ときには両親に、日ごろの不満をぶつけることもあった。父さんと母さんは、自分よりイヌやネコのほうが大切なのか──と。
「おまえにもいつかわかる日が来るわ……」
そんなとき、母は半ばあきらめたような口調でため息をつく。むしろ自分自身に言い聞かせるかのように。彼もそれ以上何も言えなくなってしまう。
そして、晴彰の不満の矛先は、次第に親から動物たちへと向けられることになった。自分から世間並みの親の愛情を奪った相手として。
そんな彼の身に転機が訪れたのは、小学校六年生のとき。
よりによって、クラスの飼育係のメンバーに入れられてしまったのだ。晴彰としては、学校でまでそんな係をやらされるなどまっぴらごめんだったが、親が獣医だからという身も蓋もない理由で、先生に無理やり押し付けられてしまった。
もっとも、晴彰のクラスの飼育係は、よその学校にもある同じ名称のそれとは一味も二味も違っていた。何しろ、正式な係でさえなかったのだ。
実を言うと、当時彼の通っていた小学校では、前の年に〝諸般の事情〟で動物を校舎で飼うのをやめてしまった。最後に残っていた屋上のチャボたちも、近所の農家に引き取られていった。だから、学校には面倒を見る対象となるべき飼育動物がそもそもいなかったのである。
じゃあ、一体どんな活動をしていたのか? 説明すると長くなるため、ここでは触れないでおく。
この〝裏〟飼育係のメンバーは、彼の他、神光寺小夜、成瀬結莉、霧志麻トウヤ、眞白杏子、藤岡ひろみの六人。仕切りたがり屋の小夜がリーダーを自ら買って出ていたが、何かにつけ頼られたのは、やっぱり晴彰だった。
最初のうち晴彰は、みんなから何か質問されるたびに、露骨に嫌な顔をして知らないふりをした。だが、小夜には自分がしらばっくれているのをしっかり見抜かれており、アドバイスするまで解放してくれないのだ。円らな瞳をキラキラさせながら両手を合わせる結莉のお願いのポーズも、とんだ曲者だった。
そうこうするうちに、不本意ながら、彼は仲間たちから頼られることに慣れてしまった。小夜や結莉には、ときどきうまい具合に操縦されている気分にもなる。けれど、お互い百点を取ったテストの枚数を競い合うライバルだった小夜も含め、だれもがこの分野におけるエキスパートとして晴彰に尊敬の眼差しを向けてくるものだから、彼自身もまんざら悪い気はしなかった。彼の知識は、小遣いのために仕方なくちょっとした病院の仕事を手伝わされているうちに、否が応にも身に付いてしまったものなのだが。
このときの経験で、晴彰はちょっぴり変わった。
両親の気持ちが少しはわかった気がしたのだ。自分を必要としてくれるだれかがいるからこそ、打ち込める仕事なのだと……。
教師の薦めもあり、晴彰は名門の私立中を受験し、見事に合格した。成績を維持できれば、エスカレーター式で高校に進学できる。難関の大学の獣医学部を目指すうえでも有利だ。
もっとも、晴彰自身は獣医の道を選ぶことをまだはっきりと心に決めたわけではなかった。ただ、全寮式の私学の寮に入ることで、一度家から離れてじっくり自分の気持ちを確かめたいという理由もあった。
事件は中三の夏休みに起きた。
実家に帰省した晴彰を待ち受けていたのは、交通事故に遭って病院に運ばれてきた野生のキツネだった。
晴彰たちの住んでいる街は、都心から一時間半ほど離れた私鉄沿線沿いの新興住宅地だ。造成計画が途中で何度も変更された関係で、皮肉なことに田畑や雑木林がモザイク状に組み合わされ、比較的緑が多く残されていた。それでも、キツネまでいたのは意外だったが。
県に一つしかない野生の傷病動物を収容する鳥獣保護センターは、ここから百キロ以上離れた街にある。こういう場合、ケガをした野生の鳥獣の手当てをするのも、設備の整った動物病院の仕事のうちだ。
キツネが運ばれてきたのは、普段は手術が入ることの多い昼休みの時間で、この日父親は学会に出張していたため、病院は母親一人だった。滅多にないことだが、居合わせた晴彰は診察室で母の治療の様子を見守った。
農道で車に撥ねられたらしいキツネは、晴彰の目の前でじっと診療台に横たわっていた。かなり小柄で、まだ独立してもいないだろう。
その華奢な仔ギツネを前に、彼は目を見張った。瞼を固く閉じ、ときどきかすかに痙攣するさまは、彼の目には風前の灯に映った。いままさに命がついえようとしているように見えた。自分でも意識せず、握ったこぶしに力がこもる。
触診でひととおり骨や内臓、皮膚の状態を調べ、口内と目、耳をチェックしてから、母は言った。
「脳震盪を起こしてるけど、骨は折れてないし内臓も無事みたい。よっぽど当たり所がよかったんだね」
そうなのか……。自分の無知を思い知らされるとともに、親のスキルに対していままでになく尊敬の念を覚える。まず知ることから始めなければ、結局命を救うことなんてできやしない。
傷口からの感染症を防ぐ抗生剤を投与した後、段ボール箱に入れて安静を保ち様子をみることにする。当然、入院中の他の犬猫の患畜と一緒にはできないため、病院ではなく自宅のほうに置くことに。
「せっかくだから、おまえが様子を見てみるかい? どうせ治ったら放すんだし」
母にそう言われ、晴彰はほとんど反射的にうなずいていた。
いつもの母なら、「おや珍しい」と皮肉の一つも言いそうだが、そのときはだまって目を細めただけだった。
こうして、いまではたまにしか帰らない自室で、晴彰自身が仔ギツネの世話を焼くことに決まった。初めての経験だったが、最後にはならなかった。
意識が混濁した状態で、静脈栄養だけで二日過ごした後、仔ギツネは三日目にはっきりと目を覚ました。夕食を済ませ、ときどき布の覆いをとって様子を見ていたとき、不意に頭をもたげたのだ。晴彰がそっと手で触れようとすると、噛み付くでもなく、ただ弱々しく身じろぎしただけだった。腫れ物にでも触るようにそっとなでてやる。仔ギツネは目をつぶってされるがままにじっとしていたが、やがて再び寝入ってしまった。
不意に涙が出そうになった。
しばらく様子を見て熟睡しているのを確かめると、階下の両親に報告にいく。
「野生に戻すんだったら、人にあんまり馴れさせないほうがいいんじゃないのかな」
晴彰が口にした疑問に、治療をスムーズに進めるにはむしろ馴れさせたほうがいい、こどものうちなら問題ないと父親は答えた。成獣になれば自然に人になつかなくなるとも。餌のとり方を教えなくていいのか? との問いには、キツネやタヌキは半分スカベンジャータイプだから、本能だけでもどうにかなるもんだ、と。
あげくには母親が、あの歳ならまだ母親のそばで甘えてるころだから、逆にスキンシップを与えてやったほうがいい、寝る前におまえがだっこしてやれと言い出す始末だ。
「ダニが付くだろ」
ぶっきらぼうに返事だけして、その場は二階に上がる。
食事はイヌと基本的に同じで、ドッグフードにササミや野菜、卵などを時折混ぜている。最初の数日を通り越すと、食欲も出てきた。足の傷もみるみるうちに治っていった。動けるようになると、庭にイヌ用のサークルを用意して、リハビリを兼ねた軽い運動ができるようにしてやる。
夜は晴彰の部屋に置いた箱の中で休んだ。声をかけ、なでてやると、じっとおとなしくしている。これでもイヌやネコじゃない野生のキツネだと思うと、とても不思議に思えてくる。おとなになれば、両親の言うように、野生の本能を剥き出しにするようになるんだろうが。
夏休みの一ヵ月はあっという間に過ぎた。
仔ギツネのケガはすっかり癒え、体重も回復して病院に来たときより増えた。
もう頃合だ、と親は言う。食糧が豊富な秋に入る前に放すのがいちばんだと。
もちろん、もう二学期の授業が始まるから、自分が寮に戻らなければならないという事情もある。
ニンゲンとは相容れない野生動物。たまたまケガをして運び込まれただけだ。一緒に暮らせる存在じゃない。自然の掟は厳しい。冬を乗り切れる保証は何もない。それでも、元の自由な世界に戻ることこそが、この子にとっての幸せだ。
それは十分にわかっているつもりだった。
なんだかんだと理由を付け、結局仔ギツネと別れたのは寮に帰る前日、夏休みが終わる二日前だった。
キャリーケージに入れた仔ギツネとともに、拾われた場所にいちばん近い雑木林まで、両親に車で連れて行ってもらう。
林床を少しかきわけ、道路から離れた場所まで移動する。一応今朝最後の食事をすませてきたが、念のためドッグフードを一握り草むらに置く。ケージの扉をそっと開くと、仔ギツネは最初警戒して慎重に外の様子をうかがっていたが、おもむろにタッと駆け出し、すぐに藪の下に姿を消した。振り返ることもなく。
「元気でな」
晴彰が小さく呟くと、草むらの中からかすかにカサッと音がした。
いつのまにか頬が涙で濡れていた。
これでいいんだ。これで……
この道も悪くないかもしれない──晴彰はそう思えるようになっていた。
飼いならされたイヌやネコに興味は持てない。だが、己れというものをしっかりもって自力で生きている高貴な存在・野生動物との交渉人という仕事には魅力を感じた。街中のただの獣医になるくらいなら、そっちのほうが自分にも向いている気がする。
そんな晴彰の想いを何もかもぶち壊しにする事件が起きたのは、彼が高校に進学して本格的に獣医の道を目指すべく勉強に取り組み始めた矢先のことだった。
そのとき、晴彰はまた実家に戻っており、部屋にはキツネではなく今度はハクビシンが居候していた。近所の梨畑で罠にかかったのだという。若いとはいえもうおとなになりかけで、手なずけるのもハードルがやや高く思われたが、果物好きが幸いしてだいぶ人馴れしてきた。
問題は、この先の野生復帰の是非についてだ。
ハクビシンは、最近いろいろ環境問題として取り沙汰されている外来動物の一種とみなされる場合が多い。もっとも、ハクビシンが日本にやってきたのは近代以前のことで、詳しくはわかっていないが、海外の地域個体群とは遺伝的系統が異なるという研究結果もある。ともあれ、雑食ながら果物が大好物なため、果樹園を荒らす害獣として嫌われやすい。実際、この子もそうやって捕まえられ、ここに運ばれてきたのだ。純国産の野生動物とは認められていないため、厄介物扱いされるばかりの実に不憫な動物だ。いまではほとんど日本の自然になじんだといってよく、アライグマやブラックバスとは別なのだが……。
ハクビシンはネコと同程度の体重で、食事もフェレットフードと野菜や果物で済む。見た目にも、白黒の鮮やかなコントラストが美しい。テレビでもてはやされるアイドル動物と比べても、よっぽどかわいげがあると晴彰は思う。
その日、一日の診療を終えて病院を閉め、AHTも全員帰宅し、しばらくしてからのこと。来客を告げる玄関のチャイムに、またいつもの如く急患かと思ったが、そうではなかった。コートを着た二人組の男で、患畜はいない。きっと医薬関係のメーカーの営業だろう。
そう思った晴彰は、玄関脇にある階段の上からそっと聞き耳を立てた。いらだつ男の声に、平身低頭謝罪を繰り返す両親の声が混じる。最後のほうでは、差し押さえなどという不穏な言葉まで漏れ聞こえてくる。
いま、動物病院の経営は厳しい。開業しても半分は潰れるといわれる。最近はとくに設備投資がバカにならない。高額の医療機器を次々に導入しないと、よその病院に客を取られてしまうが、そのためには莫大な借金を抱えなければならない。
阿部野動物病院の台所も決して楽でないことくらい、承知していた。けれど、まさかそこまで苦しいなんて思わなかった。二人とも、自分に対してはそんな素振りを見せたことは一度もなかった。寮に入って不在にしていることが多かったし、親だって高校生になって間もない息子に、そんな話を聞かせたくはないのだろうが……。
招かざる訪問客が去り、肩を落として居間に戻ってくる両親の姿が見えたので、晴彰もそっと自室に入った。
獣医大も医大同様学費は決して安くない。そんな話を持ち出せば、二人はきっと、おまえが心配することじゃないと言うに決まってるけど。
ハクビシンの頭をそっとなでてやる。彼女は少し鼻をクンクンと動かしたが、ご飯でないとわかると、ちょっとしょんぼりした表情をしてまた前足の上に鼻先を乗せた。深刻なことで頭を悩ませているときでも、ふっと心を和ませてくれるのが、動物たちの不思議なところだ。
いつのまにか不安も忘れ、晴彰は床に就いた。
悲劇は一週間後に起こった。
晴彰はその日、宿題のレポートを取りに自宅から片道二時間以上かかる寮まで戻っていた。自宅に着くころには、もう夜の九時を回っていた。
病院の面する道路にさしかかったところで、異変に気づく。夜間自動で点灯する看板以外、建物の灯りが点っていない。
ドアの鍵もかかっていなかった。家の中も真っ暗だ。胸騒ぎを感じつつ、自宅の内側から病院に回る。
足を踏み入れたところで、晴彰は驚きに目を見張った。院内がメチャクチャに荒らされていたからだ。点滴の器具が横倒しになり、薬剤やカルテはそこら中に散らばっている。
待合室からうめき声が聞こえた。
父と母は、結束バンドと粘着テープで手足を縛られた状態で、受付の床に転がっていた。二人とも、昼間家を出たときとはまるで別人のように憔悴しきっている。晴彰は慌てて駆け寄り、両親を解放した。
「警察に、電話を」
息をするのもやっとのようなガラガラ声で、父が叫ぶ。
「晴彰、看護室は?」
母の声はワナワナと震えていた。
今日病院で預かっていた患畜は全部で六匹。ケージを確認しようと入口に一歩踏み出して、足が止まった。思わず吐き気がこみあげてきてもどしそうになる。目も当てられない有様だった。血は見慣れているつもりだったが、こんなのは初めてだ。病死や事故死ではなく、殺された動物を見るのは。
ハッとして自宅の自室へ向かう。まさかあの子まで!?
真っ暗なままの階段を駆け上がり、自室のドアをバタンと開く。
ベッドの脇にあるケージの中で、ハクビシンの子の二つの目が光った。何かいつもと違うことが起きたのがわかっていて、警戒してじっとうずくまっている。
よかった、生きてる──
晴彰はその場にしゃがみこむと、大声をあげて泣き出した。
覆面をした三人組の強盗の仕事は手早く、プロの手口と思われた。が、ただの押し入り強盗にしては妙なところもあった。売上金を奪うのみならず、不可解な犯行も付け加わっていたからだ。一つは、院内の設備を軒並破壊したこと。そして、患畜の虐殺──。なぜそんなひどいまねをする必要があったのか、皆目見当がつかない。
不運は重なった。病院の設備は大半がリースで、それもよその廃業した開業医の流用品だった。両親は財布と相談していちばん妥当な手段を選んだつもりだったろうが、リース会社は実は正規のメーカーではなかった。下りた保険はすべて業者に持っていかれた。
犯行グループの足取りは未だにつかめない。
阿倍野動物病院はすべてを失ってしまった。その中でもいちばん大きかったのは、殺された患畜の保護者をはじめとする顧客の信頼だった。根も葉もない噂が立てられ、少なくとも、この街でこれ以上獣医を続けることは不可能だった。
晴彰も、野生動物の救急医になるという夢はあきらめざるを得なくなった。ゼロではないにしろ、限りなく遠のいた。
街を離れることになった三日前、晴彰は自転車にケージを積んで、仔ギツネを放したのと同じ雑木林にハクビシンの子を連れてきた。
最後のおやつに好物の梨を一かけ、ケージの金網越しに与える。さっきまで外の様子を気にしていたハクビシンの子は、それでも晴彰の差し出した梨のかけらを両手で押え、いつものように美味しそうに食べた。
「また果樹園に入って捕まらないでくれよ。もう助けてやれないんだから」
そう言いながら、梨を与えていることに自分でも矛盾を感じて、晴彰は苦笑した。
扉を開けると、ハクビシンの子は熱心に地面の匂いを嗅ぎまわりながら、一度晴彰のほうを振り返ると、一年前のギツネの子と同じく、そのまま下藪の中に姿を消した。
「ごめんな……おまえのこと、最後まで守ってやれなくて……ほんとに……ごめん……」
ハクビシンの姿が消えてからもずっと、溢れる涙をぬぐうこともせずに、晴彰はその場に立ち尽くした。