ヨキと名づけた──命名者はヨナだと言っていい──カラスは、小夜の家で順調に育った。小夜は拾った場所をたびたび訪れ、ヒナの身を案じた親鳥が戻ってきやしないかと探してみたが、それらしい姿は見えなかった。おそらく、人間に巣を撤去されて、親も落ちたヒナを放棄せざるをえなかったのだろう。
小夜としては、親元に返せないのが残念でもあり、しばらくヨキと暮らす猶予期間を与えられてホッとするようでもあり、複雑な心境だった。
ひとつ問題があった。ケガが治り、体温も体重もすっかり回復した。本来ならヨキはそろそろ巣立ちを迎えてもいいころだ。なのに、彼は飛びたとうとしないのだ。
この先一体どうしたものかと、阿倍野動物病院に電話したら、また晴彰が出た。
「ところで、あいつの……どうするよ?」
あいつというのは、霧志麻トウヤのことだ。
「あの熱血バカは他人のために損な生き方をして早死にするだろうと思っちゃいたが、それにしても予想よりずいぶん早かったな」
「ちょっとあんた! 結莉の前でそんなこと言っちゃ絶対ダメだかんね!?」
噂で聞いた限りだが、成瀬結莉は事故以来食事も咽喉に通らず、ガリガリに痩せてしまったという。
カラスの子について晴彰は語った。そのカラスは本来野鳥だ。健康状態が十分に回復して、巣立ちを迎えるまで育った時点で、自然に還すのがスジだ。法律上もそういうことになっている。ヒトに飼われ続けるくらいなら、そのまま道端でネコに食われていたほうがまだマシというものだ。天敵に襲われるのも運命なのだから。素人に任せるとまったくこれだから始末に負えないのだ云々──。
ほんとに嫌味なやつだ。せっかくアドバイスを求めて頼ってきた女の子に向かって、なんて口ぶりだろう。こっちは知ってるんだぞ。あんたが仔ギツネを元の場所に放したときに泣いてたことだって……。
いっそそう言ってからかってやろうかと思ったが、やめにしておく。腹は立ったが、あいまいに返事を返して電話を切る。
携帯を置いて、小夜はひとつため息をついた。
残念ながら、晴彰の指摘したことは正しい。ヨキはもう飛ぼうと思えば飛べる。ご飯だって自力で探しだせる。自然に還すべきなのだ。
それから何度か、小夜は意を決してヨキを空に放とうと試みた。与える餌の量を減らし、庭に放置する試みを繰り返す。
ヨキは植木の枝の間を飛びまわることはできる。だが、庭から空を目指して飛び立ってはくれない。心を鬼にして、手を挙げて追い払う仕草までするのだが、彼はまるで鬼ごっこだとでも思っているらしく、巧みに距離を置いて回りこみ、あげくには家の中に戻ってしまうのだ。
そしてついに、小夜も予期していなかった出来事が起こった。
「オアヨゥ」
「ええーっ!? ヨキ、あんたいつの間に!?」
小夜は首を捻った。おかしいなあ、言葉を教えるようなまねはしてないのに。ヨナとだって、ヨキが来てからは小声で話しかける程度だったのに……。
……。犯人がわかった。
ヨナだ。彼が教えていたんだ。私が学校に行ってる間に。
カラスもオウムやインコと同じように言葉を覚えるという話は聞いたことがある。なんといったって、ヨウムと並んでIQの高い鳥だ。
自分もときどき、ヨキにもヨナと同じように言葉を教えてみたいという誘惑に駆られたのは事実だ。でも、野生のカラスが人間の言葉なんか覚えたって、いいことなどありはしない。仲間からは変な目で見られるだろうし、人間が聞いたらびっくりしてテレビ局が押しかけるかもしれない。それこそヨキ自身のためにならない。
だから、ヨナとのおしゃべりも控えていた。それが裏目に出てしまったのかもしれない。たぶん、退屈したヨナが私に代わる話し相手を求めたんだろう。
ヨキの語彙はみるみるうちに増えていった。発音はヨナに比べてぎこちないが、上達のスピードは早い。まだ年が若いこともあるだろうが、実に優秀な語学生だ。
小夜の胸の内で、相反する二つの感情がせめぎ合っていた。
このままヨキと一緒に暮らしたい。本人もそう望んでいるはずだ。ヨナだって。だから離れようとしないのだ──と言い聞かせる自分。
いや、それはおまえのエゴだ。野生の世界で自由に生きるのがあるべき姿だ──と諭す自分。
どっちつかずの宙ぶらりんの心を抱えたまま、ズルズルと日は過ぎていった。
別れのときは唐突に、不幸な形でやってきた。
季節はいつのまにか冬を迎えていた。
世間は不景気で厳しい風が吹き荒れていた。小夜の家は不況の直撃を受けずにすんだが、羽振りがよかったわけでもない。しかし、小夜が生まれてまもなく土地付きで購入したマイホームは、ニュータウンの中では一等地にある。そして、小夜であれ、両親であれ、あるいはヨナやヨキであれ、何の罪があったわけでもないのだが、世間からはともすれば嫉妬と羨望の眼差しを受ける身でもあった。
付近で連続不審火が起こって三日目、小夜は学校から直行した塾からの帰宅途中だった。
夕焼けがやけに近いと思った。数日前にも、駅からの帰り道に、真っ赤な太陽が地平線にかかったスミレ色の雲の中に沈んでいくまでずっと見とれていた。けれど、今日の赤い空はこの間とはだいぶ様子が違う。空気がざわざわと揺らぐような感じ。黒雲もなんだかきな臭い匂いを発している気がした。
サイレンの音がだんだんこっちに近づいてくる。
最後の角を曲がって、小夜はすぐに気づいた。夕焼けなんかじゃない、火事だ! そして……燃えているのは私の家だ!!
最後の百メートルを猛ダッシュしながら、小夜は頭をめぐらせた。今日は木曜日、母は私の塾と合わせるようにお花の教室へお稽古に行っているはずだ。いま家にいるのはヨナとヨキ。そして、二羽はカゴの中。
自分の肺が小さく、足が短いことにいらだつ。一歩で家までたどり着けたらどんなにいいだろう。
もともと繁華街から離れた閑静な住宅街だからか、まだ火が出て時間が経過していないからか──小夜は後者であることを祈った──人だかりもできてない。隣近所も昼間留守にして空けていることが多いし。
火が上がっていたのは台所のあるお勝手口付近だった。母は自分に似て万事抜かりないたちだ。ていうか、自分が母に似たんだけど。戸締り、火の用心、セキュリティは万全だ。
ちくしょう。だれの仕業か知らないが、ただじゃおかないかんね!
鍵を開けてドアを開けると、焼け付く臭いがむっと立ち込めた。だが、幸い煙はまだ少ない。三段飛ばしで階段を駆け上がる。扉を開けると、二羽ともケージの中を落ち着きなく飛び回っていた。
間に合った。ごめんね、遅くなって。でも、もう大丈夫だから。
小夜はここで一瞬考えこんだ。カゴを二ついっぺんに運ぶのは無理だ。外で遊ばせているといっても、あまり狭いカゴに閉じ込めたくないので十分なスペースをとったのが禍したな。まあ、だれも火事になったときのことなんて考えやしないけど。風切羽の先を切っているヨナを肩に乗せていくか? いや、それも危ない。
考えている時間はない。ガラス戸を開け放っておいて、手近にあったヨナのカゴを抱える。
「ごめん、ヨキ! もう少し辛抱して! すぐに取って返すから!」
いったん後ろ手に部屋の扉を閉める。窓を開けたから、これで少しは時間を稼げるだろう。ヨナのケージを両腕で抱きかかえるようにして階段を下りる。さっきより煙の量が増えたみたいだ。
「ヨナ、いい子だからそんなに暴れないで」
ヨナは突然の事態にパニックを起こしかけている。無理もないが、ともかく連れ出すのが先決だ。
玄関の扉を開けると、知らないおばさんの姿が見えた。いや、二、三回くらいは顔を合わせてるだろう。たぶん斜め向かいの家の人だ。
「あ、あなた神光寺さんのお嬢さん!? す、すぐに消防車来るから!」
動転してろれつが回らないようだ。
「この子お願い!」
その人にヨナのケージを押し付けると、背中を向ける。
「ま、待って、どうするの!?」
ケージを手にあたふたと慌てふためきながら、おばさんは私を呼び止めようとした。
「まだヨキがいるの!」
そのとき、もう一つの声があがった。
「行クナ、サヨ!」
小夜は振り返ってヨナをじっと見つめた。
「行ク、ダメ!」
ありがとう、ヨナ……。
でも、行かなきゃ。ヨキが私を待ってるもの。
再び家の中に取って返すと、台所のほうに真っ赤な火が見えた。煙の量はさっきと段違いだ。ときどきガラスの割れるような音や、何かが崩れ落ちる音が聞こえる。
小夜は早くも恐怖に囚われた。本当はこういうときはバケツの水を被るんだよね。
「急ごう!」
だれにともなく声に出す。
階段に足をかける。ミシミシといつもと違う音がして、いまにも崩れ落ちるんじゃないかと思えてくる。触れるものが熱くて思わず手を引っ込める。下を振り返ると、一階の天井と床をなめるように、火がチロチロと真っ赤な舌を伸ばすのが見えた。
煙が充満して息ができなくなってきた。目も痛くてたまらない。もうだめ……。
学校でも習ったとおり、煙は上に上がってるはず。ヨキはあたしよりもっと苦しいはずだ。泣き言を言ってる場合じゃない。
ハンカチで口もとを覆い、這うようにして二階に上がる。
なんとか二階にたどり着くと、自室に入って後ろ手にドアを閉めた。さっき窓を開けておいたのが幸いしてか、煙の量は一階ほどじゃない。
ヨキに目をやると、彼は小夜の姿を認めて一声鳴いた。
ケージに駆け寄り、扉を開けてヨキを外に出してやる。
「もう下に降りるのは無理。でも、あんただけなら逃げられる。さあ」
ベランダに出ると、足を手すりにそっと乗せる。
「お願い、飛んで。あんたは飛べるはずよ。飛んで!」
ヨキは飛ぼうとせずに、首をキョロキョロさせてじっと小夜を見返すばかりだった。
後ろでガラガラと何かが崩れる大きな音がした。
「飛んで! お願い!! 飛ぶの!! あんたはここにいちゃいけないのよ!!」
それでもまだヨキは動かなかった。煙と涙のせいで前がよく見えない。咽喉が詰まって声もうまく出ない。
わかんないの!? このままじゃあんたまで焼き鳥になっちゃうでしょ!?
小夜はヨキの体を両手でむんずとつかむと、思い切って空に投げ放った。
ヨキは「カア」と一声鳴くと、黒い翼を精一杯広げ、ときどき右に左に体を傾けるようにしながら、天高く上っていった。
小夜はがっくりと膝をついた。
よかった……。
行きなさい、ヨキ。そこがあんたの世界。
あんたは自由だ……自由なんだ……。
* * * * *
長い長い夢を見たような気分だった。
シュレッドという時空を超越した不可思議な存在に出会い、自分の辿った境遇を知らされた。
あのあと、小夜は到着した消防士たちに救出されたものの、ずっと意識が戻らず病院で寝たきりになったことを。
もちろん、こんなところで、こんな形で人生にピリオドを打つことなど、小夜はまっぴらごめんだ。私にはやりたいことがたくさん、うんとたくさんあるんだ。
ゲームへの参加を承諾するのに、ためらいはなかった。
そして、二度目の目覚め。
小夜の傍らにじっと跪いていたのは、ほかでもないヨキとヨナだった。
声もなく二人を見つめる小夜の手を、ヨキは恭しく取ってこう言った。
「小夜。君は命懸けで僕たちに自由をくれた。だが、僕たちはカゴの鳥だ。たとえこの翼を折られようとも、両の足をもがれようとも、いつまでも留まり続けよう。君というカゴの中に。それこそが、僕たちの選んだ自由なのだから」
小夜は二人にしがみつきながら、声を限りにわあっと泣いた。