何気なく館の中を見渡していたとき、突然周りにあった床や壁、天井がフッと消えた。
足元に何もなくなり、底知れず落ちていくような感覚に襲われる。不安に駆られた俺たちは、再び互いの手を求め合い、輪になった。
俺たちの周囲を取り巻いていたのは、いまではもう見慣れた宇宙空間だった。ただ異なるのは、辺りに散らばっていたのが星ではなく銀河だったことだ。しかも、それぞれの銀河は渦を巻き、互いの周りを公転し、あるいは衝突したりして、刻一刻とその様相を変えていった。まるで早回しの動画を見ているみたいだ。それぞれの銀河の間には、うっすらとした雲のようなものが充満していて、同じように色や形を目まぐるしく変化させている。まるで生きているかのように。
「超銀河団、宇宙の極大構造だな。通常の物質と合わせてダークマター/ダークエネルギーを視覚化して、時間の経過を早めてるんだ……」
晴彰がつぶやく。こっちに来てから天文学や航宙工学についてそれなりに勉強したつもりだったが、やっぱり秀才の彼にはかなわない。
「つまり、私たちがさんざん世話になった魔法の素ってことだよね」
「きれい……」
女の子たちがうっとりと見とれていると、一つの声が聞こえた。
〈どうだい、美しいだろう。それがきみたちの宇宙だよ〉
みな驚いていっせいに声のしたほうを振り向く。
そこには一匹のイヌがいた。注意していたはずなのに、いつそこに出現したのかだれも気づかなかった。
そのイヌの顔は少しつぶれていて、品種でいえばシーズーに似ていた。フサフサした垂れ耳はやたら長い。どこにでもいるただのイヌにしか見えない。半分透明で、向こうの銀河が透けて見えることを除けば……。
このシーズーモドキが生きものでないどころか、俺たちの住む時空を超越した存在であることは、もはや疑いの余地がなかった。
始まりはネコで、おしまいはイヌか……。
〈さて、改めてお祝いを述べよう。ゲームクリア、おめでとう〉
結莉が胸に手を当てて、安堵のため息をつく。
いままでずっと胸につかえていたものが、ようやく取れてスッキリした。みなの顔を見回してみて、だれもが同じように感じていたことがわかる。
一同を代表して、俺が口を開いた。
「きみがゲームマスター?」
〈そうだとも〉
「きみは、あのシュレッドと同じ仲間なの?」
〈私と彼が、きみたちの宇宙を管理している担当者、そういうことになるね〉
「願いの前に、いくつか質問してもいいかい?」
〈うむ。おそらく、きみたちが私に尋ねたいことは山ほどあるだろう。ただ、あまり長い時間は割けない。というのも、きみたちを長くここにとどめておくと、不確定性が拡がって本来の時空に戻れなくなってしまうからね〉
俺は仲間たちを振り返った。
「どうしよっか?」
「ホスト一人につき質問一つずつ、ね」
ミオが答え、他のクライアントたちもうなずく。
「じゃあ、まずあたしから聞くねぇ」
最初に質問台に立ったのはひろみだ。
「あなたは一体何者なのぉ? ここで一体何してるのぉ?」
〈いまもいったとおり、我々は時空の管理者だよ。宇宙には、エネルギーの初期値、光速や円周率、プランク定数などの定数値、有限な微小次元の数、四つの相互作用の強度と力場の効果範囲、ダークエネルギー密度、エントロピーや重力方程式の符合の正負、そういった初期条件のさまざまな組み合わせによって、存在しうるだけでも無数のバリエーションがある。その中で、私とシュレッドの二人がたまたま担当することになったのが、きみたちの宇宙というわけだ。そして、その宇宙に生じたバグを見つけだして、それを修復するのが私たちの仕事だ。バグが見つかったら、いったんバラバラにして、何度か試しにリプレイしたり、巻き戻したりしながら、うまい具合に宇宙が進化していくかどうか、チェックしたりもする。気の遠くなるような時間のかかる、忍耐の要る作業だよ。ここで言う時間とは、きみたちにとっての時間とはまた別の、もうひとつ上位の次元だがね〉
「あなたたちって、この世界を作った神様なの? 私たちの宇宙を、いっつもそんなふうに玩具みたいにいじりまわしてるわけ?」
シュレッドの回答を聞いた小夜は、やや不服そうに言った。
「あ、しまった! 質問しちゃった……。ちょっと、いまのなしにして!」
声に出してしまってから、あわてて口もとを押える。両手を合わせてゲームマスターに懇願する小夜の袖を、晴彰が引っ張った。
「俺たちより一つ上の次元の存在なんだぜ。宇宙をいじるのなんて、折紙を折るみたいなもんだろ。そして、俺たちゃ顕微鏡のプレパラートの上の微生物と同じレベルさ。それ以下かな。俺が代打でボックスに立ってやるから、小夜はもう一回まともな質問を考えろ」
〈そのアナロジーはあながち間違いじゃないな。けれども、私とシュレッドは、気に入った微生物は大切に育てるたちなんでね〉
「ふうん、気に入った微生物、ね……。まあいいや。じゃあ、俺から質問する。なんでゲームだったんだ?」
〈簡単な答えですまないが、それは単に私がゲームマニアだからさ〉
「え~っ!?」
俺も晴彰も思わずずっこける。喜んだのはひろみくらいだ。
「わあい、友達だぉ♪」
〈宇宙の初期条件からは予測のつかない複雑で独自の秩序をもった派生物として、知的生命の文化というものに私はおおいに興味をそそられる。中でも地球人のサブカルチャーはユニークで魅力的だ。RPGは、ある意味私たちのシミュレーションに近いものがあるしね。宇宙の変数を操作する作業に飽きると、気分転換にプレイしたもんさ。もちろん、きみたちのモチベーションをあげるのに役立つだろうという、より直截的な動機もあったがね。どうだい、なかなかよくできたシステムだったろ? ストーリー展開については、プレイヤーであるきみたち次第だったわけで、私のほうが存分に堪能させてもらったがね〉
「私たちのゲーム、楽しかったですか?」
次に質問をしたのは杏子だ。
「おいおい、そんなつまんないことに質問権を使っちゃうのかよ?」
「いいじゃん。私も聞きたいよ、その答え」
晴彰は止めようとしたが、小夜が杏子の肩を持って促した。
〈ああ。とてもおもしろかったよ。いままで七百億人くらいのプレイヤーに参加してもらったが、大半はそもそも話が先に進まなかったし、残念ながらバッドエンドに至るケースも少なからずあった。きみたちの描いたシナリオは、最高傑作の一つだったと言ってもいい〉
「えっ、プレイヤーって俺たち以外にもそんなにいたんだ!?」
俺もつい驚きの声をあげる。
〈うむ。ただ、地球からの参加者は残念ながらかなり少ないよ。トータルでも百万人いない。しかも、実はニンゲンよりイルカのほうが多かったりする。地球出身の他の種族もいるんだが、きみたちに教えるのは禁則事項に引っかかるから、想像するだけで勘弁してくれたまえ〉
「禁則って、つまり俺たちより未来の時代、ニンゲンが絶滅した後に文明を発展させる種族ってことだよな……」
晴彰は知りたくてウズウズしている感じだったが、ゲームマスターはいかにもイヌらしく耳の後ろを掻くばかりで、それ以上のことを教えてはくれなかった。
「それって要するに、地球以外の星に住んでる宇宙人たちも参加してるってことよね? 宇宙人って一体どんな人たちなのかしら? って、知りたいことは山ほどあるのになあ。一つしか聞けないなんてあんまりだよ~」
小夜はさっきから自分の質問を決めるのに頭を悩ませ、部屋の中を行ったり来たりしている。
代わりに今度は結莉が尋ねた。
「NPCって、どういう人たちなの? 直接お話をする機会も何度かあったけど、あの人たちの出自がやっぱり気になって……」
〈NPCの正体は、実はシュレッドが送りこんだきみたちの世界の動物たちだ。中には、きみたちのクライアントと同じように、ホストとESBで結ばれパートナーとしてゲームに参加している者、あるいは過去にそうだった者もいる。だが、大抵のNPCは、きみたちの言う〝転生〟という言葉を使ったほうがわかりやすいだろうな。彼らの多くは前世の記憶を持たない。NPCにメタコスモスで新たな人生を送ってもらうに至った経緯は、きみたちには少々重たすぎる話だから、聞かないでくれたまえ。ただひとつ言えるのは、彼らはメタコスモスに来たおかげで幸せに暮らしているってことだ〉
「あっ! よし、思いついた! これにしよ♪」
小夜がポンと手のひらを打って叫んだ。ようやく質問の内容が定まったみたいだ。
「モノコスモスとメタコスモスって、どういう関係なの?」
その問いは非常に重要な、六人のだれもが知りたかったことだった。さすが小夜だな。
〈きみたちもうすうす気づいているかもしれないが、メタコスモスは私たちが創りだした仮そめの世界だよ。文明を発生させた宙域はおよそすべて、対になる鏡像世界が用意されるように、あらかじめプログラムしておいたのさ。正常な宇宙の進化のために必要な措置としてね。モノコスモスが均衡の取れた世界となっていれば、メタコスモスとの差異は小さくなる。一方、モノコスモスの秩序に極端な偏向が生じていた場合、メタコスモスの側で補完されるから、両者の差は非常に大きくなる〉
「ということは、私たちの世界は、あなたたちの目から見れば失敗作ってことね……。それってやっぱり、ニンゲンが環境を破壊したり、戦争を繰り返したり、文明の進歩のあり方にいろいろ問題があるせいってことかしら……」
結莉が神妙な面持ちでつぶやく。
「ゲームマスターがその気になったら、一回白紙に戻して、別の種族──例えばゴリラとかイルカとかカラスなんかに万物の霊長をやらせることも朝飯前なんじゃないの?」
二人の質問は二回目だったけど、ゲームマスターはおまけのサービスに応じた。
〈私の観点からすれば、地球のニンゲンはまだ白紙に戻すほどひどくはないよ。そのほうが返って残酷だという見方も成り立つかもしれんがね。ニンゲンに救いがあるという証拠は、ほかでもないきみたちさ〉
クライアントの全員がうなずく。俺たち六人は、少し恥ずかしくなってうつむいてしまった。
最後に俺が質問する番になった。俺が知りたいと思ったことはひとつだけ。
「ESBについて、教えてくれ」
〈ESB──エクストラ・センサリー・ボンドとは、わかりやすい言葉でいえば〝絆〟だよ。時空を超えてきみたちを結び付けるもの。永い宇宙の歴史から見ればほんの一瞬にすぎないきみたち生ある者の命を、永遠に等しい存在に昇格させる特別なもの。命は美しい造形物だが、それ以上に美しいのがESBだ。論より証拠さ〉
無数の銀河の光がすうっと消え、部屋が真っ暗になる。と……部屋の中がゆっくりと別の明かりに満たされ始めた。
光っていたのは俺たち自身だった。
たぶん、目で見て感じている光ではないのだろう。鉱物の結晶、雨上がりの虹、流星雨、クリスマスの街の夜景……俺がこれまでに見たすべての美しさの要素がそこにあり、なおかつそれらをすべて足し合わせても届かないほどの美しさだった。
光は、俺と、ミオと、ジュディの間を、しっかりと結び付けていた。俺たちは、三つの命ではなく、一つのESBだった。他の五人のホストとクライアントの間のESBも、それぞれに個性的で、他のチームに負けないくらい美しい輝きを放っている。そしてさらに、俺たち十八人全員の間を、もう一つの大きなESBがほのかに取り巻いていた。
俺たちは言葉もなく、ただうっとりと見とれるばかりだった。
ゲームマスターが再び話し始める。
〈きみたちは、夕焼け雲を見て美しいと感じることがあるだろう。胸をしめつけられるような切なさを覚えることがあるだろう。それらは、一つとして、一回として、同じものはない。物理法則が生成した雲や銀河も美しい。知的種族がこしらえた芸術も美しい。だが……他のいかなるものにも増して美しいと、私が考えているのはESBだよ。この宇宙が生み出した最も価値のある、最高の宝石さ。私とシュレッドのエゴだと受け取ってもらってかまわない。だが、刹那の煌きとして雲散霧消させるにはあまりにも惜しい、できることならいつまでも観賞していたい……そう思うからこそ、きみたちにチャンスを与えた〉
辺りの景色はゆっくりともとの館のホールに戻った。
ゲームマスターが俺たちに向き直る。
〈さあ、時間だ。きみたちの望みを言うがいい。ただし、かなえてあげられる望みは一つだけだ〉
みんなが俺のほうに目を注ぐ。
俺はホスト六人を代表して、ゲームマスターに自らの望みを伝えた。
「俺たちの願いは、カインを生き返らせ、俺たちホスト六人と荻原先生の人生を取り戻すことだ」
〈それはできない〉
即答──
少しの間を置いて、全員が抗議の声をあげる。
「そんな! なんでいまになってまたそんな意地悪言うですか!?」
〈かなえられる願いは一つだけ。それがルールだ〉
俺はなおも食い下がった。
「俺たちの願いは全部で一つだ。一人の願いでも欠けたら、それはゼロと同じだ」
ゲームマスターはため息をひとつついた。
〈まず、カインを生き返らせることは不可能だ。ゲームの中で命を落とした場合、どう足掻いても引っ繰り返せない。ゲームそのものをやり直さない限り〉
すかさず抗議しかけた結莉と杏子を制して、ゲームマスターは話を続けた。
〈まったく、きみたち三次元の生きものはせっかちでかなわないな……。まあ、続きを聞いてくれ。カインをメタコスモスで復活させることは不可能だが、彼はモノコスモスでいままでどおりの猫生を送ってるよ〉
俺たちはみな安堵に胸をなで下ろした。このゲームの中で、俺たちにとって唯一心残りだったのが、ほかでもないカインの死だったから。
〈だが、他の願いにしても全部一緒にというのは無理だ。意地悪で言ってるんじゃない。宇宙の歴史を操作するというのは生半なことではないのだよ。きみたちは、タイムマシンのパラドックスや並行宇宙の概念くらい聞いたことがあるだろう。それは半分正解で半分間違いだ。変数を操作して生じた並行宇宙の大半は崩壊してしまう。加えたのがどんなに些細な変更だったとしてもだ。きみたちのその願いは半端じゃない〉
頑なな姿勢を崩さないゲームマスターに、みんなが詰め寄る。
「でも、無理じゃないはずだ。ゲームマスター、宇宙の変数を操作するのは、半分道楽でやってるきみの仕事なんだろ? 時間をかければ不可能じゃないはずだ。そして、あんたにはそれだけの時間がたっぷりあるはずだ。違うか?」
「どんな願いでも一つはかなえてくれる約束でしょ? 私たちの願いは間違いなく一つよ」
「約束違反はずるいですぅ!」
ゲームマスターは俺一人の目をじっと見つめて言った。
〈トウヤ。きみを生き返らせるという願いだけなら、かなえることができる〉
俺も彼の目をまっすぐ見返して答える。
「それは、俺の願いじゃない」
長い沈黙。
〈はあ……やれやれ……。全知全能の運用管理者に向かって、こんなに無理な注文ばかり押し付けてきたのは、七百億人のプレイヤーの中でもきみたちが初めてだよ……〉
続いて彼は、意外な言葉を発した。
〈クライアントの諸君、きみたちと折り入って話がある。ホストの諸君は、ちょっとここで待っていてくれたまえ〉
トコトコとホールの隣の部屋に歩いていくゲームマスターの後に、ミオたちもついていった。
俺たち六人は一抹の不安に駆られながらも、じっと待っていた。
しばらくして、彼らはホールに戻ってきた。どことなく、みんなの表情が固い気がする。
ゲームマスターが俺たちに告げた。
〈トウヤ。きみと、きみの仲間のホスト五人の諸君の願いを、すべてかなえることにする〉
よかった……。俺たちは全員で手を取り合い、喜びを分かち合った。これで本当の本当にゲームクリアだ。
〈きみたちはもうそろそろここを去らなければならない。きみたちが意識を失い、次に目覚めるのはもとの世界、きみたちがメタコスモスに召喚される少し前の時間だ。最後に……きみたちにお別れの時間をあげよう〉
その言葉の意味を理解するのに、しばらくかかった。みんなの動きが止まる。
「いやだっ!!」
ひろみが声をわななかせて叫んだ。
「願いなんてかなわなくたっていい!! あたしはみんなと一緒にこっちに残る!!」
パシッ!
彼女の頬を平手で打ったのはヒメだった。
「リーダー……。わがままを言ってはいけませんの。一体何のために、私たちがこれまで戦ってきたと思っているんですの!?」
「ヒメ……」
涙を目にいっぱい溜めて、ヒメはじっと最愛の人を見つめた。
「ただあなたに、幸せになってほしかったからですの。あなたの笑顔を取り戻したかったからですの。あなたはいつだって笑ってなきゃダメですの」
ひろみはいやいやをするように首を振った。
「いやだ……あたし、あなたたちがいなきゃ、笑顔になんかなれない! なれっこない!!」
「リーダー……私たちはどのみち、いつまでもあなたのそばにいられるわけじゃありませんの。いつかは必ず別れのときが来ますの。でも……ほら、見てくださいの」
ヒメはひろみの両手を握った。二人の手の周りを縁取るように、ESBが力強くきらめく。
「私たちは、どんなに遠く離れたって、いつまでも、ずっと、ずっと一緒ですの。私たちの絆は、だれにも決して壊すことはできませんの」
「おいらたちもリーダーと離れたくなんてないさ! でも、リーダーには自分の人生を取り戻してほしいよ。リーダーが前だけを見て歩いていってくれるなら、幸せな笑顔を絶やさずにいてくれるなら、おいらたちだってずっと笑っていられるんだ」
「あっしもッス。リーダーは笑顔がいちばんッス。あっしらはいつだって、どこへいたって、宇宙の果てからだって、リーダーのことを応援してるッス!」
「タロ……ジロ……」
それから【トリアーデ】の四人は、お互いの肩を抱き合って大声で泣きつづけた。
「杏子はん……」
「杏子ちゃん……」
「エッちゃん、チイちゃん……」
【イソップ】の三人は、杏子を挟んで肩を寄せ合った。
「私、一体あなたたちなしで耐えていけるのかしら? すごく不安なの……」
「大丈夫や。杏子はんのキャラはピカイチや。だれもまねできへん。必ずいい友達ぎょうさんできますがな。BFだってきっとできるわ。自信持ってや」
「そうですよ。私たちが保証するですよ」
「ダメよ……。だって私、いまからもう、あなたたちのことが恋しくて恋しくて仕方がないんですもの……」
杏子は二人の首に両腕をかけて抱き寄せた。
「あ~あ、杏子はん、そんなに泣くから目がうちより真っ赤なっとるやんか……。しゃんとせなあかんよ。頼ってばかりいちゃあかんよ。思い出してえな。うちらのこと、いつも見とってくれたやんか。護ってくれはったやんか。強くならな。そしたらきっと、杏子はんのことを護ってくれる人も、必ず現れるさかい。な」
「そうですよ。あなたがどんなに素晴らしい人か、私たちがだれよりもよく知ってるですよ。だから、あなたの素晴らしさを理解してくれる人だって、きっといますよ。きっと……」
涙にくれるひろみや杏子を横目に見ながら、晴彰がつぶやいた。
「やれやれ……逆だと思ってたのに、みんなの中じゃ俺がいちばんマシになっちまったな……。俺は、おまえたちに心からの祝福を贈ってやれる。正直、向こうの世界におまえたちを戻すことになるのは不安でたまらなかった。こっちの世界なら、何の心配も要らない。なあ?」
葛葉と夷綱は微笑を返すと、だまってうなずいた。
晴彰は涙をごまかすように、自分の頬をピシャピシャとたたいてから、笑顔を作って二人に言った。
「おまえたちにはもう、一度お別れの挨拶をすませてるんだし、湿っぽいことは言わないよ。葛葉……夷綱……おまえたちのおかげで、俺は失ったものを取り戻すことができた。本当にありがとう。この先どうなるかはわからないけど、俺はきっと自分の手で未来をつかんでみせる! おまえたちにはお礼の言葉くらいしか返せなくて申し訳ないけど……ともかく、これからも元気でやってくれよな!」
「マスター……」
夷綱が晴彰の脇腹を指でつつく。彼は笑ってポケットから干し果物のスティックを取り出すと、目を閉じた夷綱の口元に持っていった。
夷綱がにっこりととびきりの笑顔を見せる。晴彰も目を細めた。
「おまえも食ってみるか?」
葛葉は黙って首を横に振り、晴彰の手を取ると、そっと自分の頬に押し当てた。
「どうかお幸せに……」
小夜はゲームマスターに怒ったように問いただした。
「ねえ。私、ヨナとヨキの記憶を消されるわけじゃないのよね? 前みたいに、この世界でみんなと過ごした冒険の日々を忘れちゃうわけじゃないのよね!? そんなの絶対に許さないから!!」
〈安心したまえ。ESBは、私でさえ断ち切れないほど強固なのだから。きみ自身が望まない限り、消えはしないさ。もっとも、メタコスモスできみたちが体験したことは、きみたち六人の仲間と先生以外には口外しないほうが賢明だと思うけどね〉
小夜は改めて二人のクライアントを振り返った。
「お嬢様……」
ヨナがさめざめと泣く。小夜もついにこらえきれずに、二人の胸に飛びこむと大声をあげて泣いた。
ヨキがそっと彼女の髪をくしけずりながら、耳もとでささやく。
「僕らは新しい世界で自由を手にした。小夜……きみが命がけで与えてくれた自由だ。けれど、僕らはやっぱりカゴの鳥さ。僕らの心は、いつまでもカゴの中にとどまりつづけるよ。きみの心の中に」
結莉とジュディは、手を取り合ってお互いを見つめた。
「おねえちゃん……」
「ジュディ……寂しくなるわ。トウヤの家だったら、またいつでも会えると思ったのに……。でも、あなたの未来を私は信じてるわ。レナードやミオちゃんとケンカしないで仲良くするのよ?」
「うん……ありがとう、おねえちゃん……大好きだよ」
抱擁を交わすと、ジュディは結莉のそばを離れた。
それから、結莉はレナードの胸の中に顔をうずめた。レナードは泣きじゃくる彼女をただ静かに受け止めた。
「レナード……私……あなたのそばにいた時間があまりにも短くて……ただそのことが辛いの……。もっと一緒にいたかった……もっと……。一秒が短すぎることが、こんなに恨めしく思えたことはないわ……」
「主よ。私も同じ気持ちです。ですが、その短い出会いこそ、私にとっては全生涯に勝るかけがえのない財産です」
「私もよ……でも、いまは何も言わずにこうしていさせて……」
ホール中でみんなのすすり泣く声が聞こえる。俺の視界もぼやけて何も見えなくなってしまった。
「さあ、トウヤ。もう泣かニャイで。あたいたち三人の新しい門出を祝ってちょうだい。ほら、バカイヌ! あんたが泣いてどうすんのよ、ったく……」
「無理に決まってるだろ、そんなこと! バカイヌ言うな!」
そう言って、ジュディがしがみついてくる。ミオも。
この世界に最初にやってきた日のことを思い出す。つい昨日のことのようだ。この半年余り、三人で繰り広げてきた冒険のこと、もとの世界の四年間の平凡だけど幸せな日常、その一コマ一コマすべてが、走馬灯のように脳裏を横切っていく。
二人の髪から立ち上る匂い、フカフカの、温かい日向の匂い。
ずっとずっと、覚えていよう。二人の匂いを。二人の姿を。二人の声を。
涙が後から後からあふれてきて、邪魔をしてくるけど、それでも俺は瞬きする間さえ惜しんで、二人の顔を瞼の裏に焼き付けようとした。
でも、俺にはわかっていた。
絶対に忘れるはずなどないことを。
なぜなら、俺たち三人は、時空を超えた強い絆で結ばれているのだから。
ミオが耳もとでささやいた。
「ゲームマスターとシュレッドは、あんたに一つ嘘をついていたわ」
「えっ?」
俺がキョトンとして尋ねると、ミオは俺の背中にまわした腕の力を強めながら、真相を明かした。
「本当はね、トウヤは九九・九九・・・%じゃニャくて、一〇〇%完全に死んでいたの……。あの二人にも、死んだ命をよみがえらせるのは無理。生き返らせたつもりでも、それはもうクローンと同じで別人でしかニャイ。彼らは他のチームに勝たせて、あんたにはこの箱庭の世界で第二の人生を送れるようにって配慮したつもりだったのよ。でも、奇跡は起こった。あんたのESBが引き起こした奇跡よ」
「じゃあ、おまえたちにこそご褒美をあげなくちゃな」
「ご褒美ニャら、あたいたちからあんたにあげる。生き返ってくれてありがとう」
ミオとジュディが、右と左の頬にキスをする。やっぱりちょっと恥ずかしいや。
「おねえちゃんとうまくやるんだぞ。でも、おねえちゃんはトウヤにはもったいないかなあ」
「こいつ」
ジュディが無理やり笑顔を作って、俺を冷やかす。俺はジュディの頭をつかんでクシャクシャとなでた。
いつまでも二人とこうしていられたら、どんなにか幸せだろう……。
でも、その願いだけはかなえられることはなかった。
〈諸君……時間だ。私はきみたちの人生をすべてなぞることができるが、もちろんきみたちの人生はきみたちが自ら切り拓くものだ。健闘を祈るよ。忘れないでくれ。きみたちのかけがえのないパートナーたちは、いつでもきみたちに勇気と力を与えてくれるはずだ。なぜといって、きみたちの育んだESBは永遠不滅のものなのだから。それじゃあ、ごきげんよう!〉
ホールの照明がゆっくりと落ちるのと合わせるように、俺の大切な二人の声と姿がぼやけ始める。俺のもとからいま、永遠に去っていく。薄れゆく意識に負けじと、俺は声を限りに叫んだ。
ミオ……ジュディ……いままで本当にありがとう。
俺は、これからもおまえたちに支えられながら、自分の人生を精一杯生きる!